月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十幕(上編)
総合ケアセンター「水月花の里」と名付けられた施設は、病院の隣りというには離れたところにあった。低い丘を隔て、やや奥まったそこは例の不動産投資で入手した場所で唯一、有効活用されていると聞いた。
三階建ての最上階はリハビリルームと事務室になっていた。二階には重度の痴呆と寝たきりの患者、一階は軽中度のアルツハイマー型患者が主に収容されている。
「何よりもまず、換気に気を使っています」
高木という四〇代後半とおぼしき男性ケアマネージャーは、目尻にいっぱいの皺を寄せて話していた。
「感染症に弱い高齢者の場合は文字通り、病は気から、なんですよ」
食堂を兼ねた多目的ホール、それを囲むように並ぶ居室まで、一階のフロア全体は広々とし、段差らしきものも見当たらない。ホール壁側の大テーブルには老人が三人、思い思いの格好でテレビを眺めている。
「昼食が済んで、ちょうど一時間です」
高木マネージャーは巨大な壁掛け時計を確認した。意外なことに、老人たちは時間を気にかけ、五分ごとに尋ねてくるときもあると言う。
「今は昼寝中の方が多くて。スタッフの手の空いている時間帯です」
「ずいぶんと華やかな色使いなんですね」
居室の入り口はそれぞれ色が違えてある。非常口、スタッフ室へ向かう廊下もピンクから赤へと、途中で色が変えられていた。
「けばけばしくて幼稚園じみているとお思いかもしれませんが。見当識障害の軽減のためです。加齢とともに目の角膜は黄染して、赤や濃いピンク、青系の色が鮮やかに見えるので」
スイカやイチゴが出ると、たいていの方が最初に手を出しますと、大テーブルの老人たちを横目に囁いた。
中央から緩やかに伸びたスロープ状の通路を上ると、明るい外庭に向かうベランダへ繋がっていた。そこと中庭に面した窓から、重なり合うように採光され、白天井と相まってサンルームにいるみたいだ。
「ベランダには自由に出られますよ。手摺りに沿って歩くと、再び屋内に誘導されるようになってます」
「メビウスの輪のようね」
再び目尻に皺を寄せ、高木マネージャーは笑った。
「万一、入所者が手摺りを越えて外庭に迷い出ると、スタッフ室のブザーが鳴ります。建物の外周にはテレビカメラが設置されているので、赤ランプの点いたモニターでその場所を表示します」
「常に監視しているんですね」
「いや、看視、見守りとおっしゃってください。ここの最大の目玉は何かおわかりですか?」
高木の後に続いて下りはじめたスロープも、北側と南側、左右の手摺りが色違いだ。
「他の施設からの見学者が一番参考にされるのはトイレです。患者さんが汚物に手で触れようとする前に、センサーが自動的に水を流します。冬場に必須の便座ヒーターはもちろんのこと、身体が汚れたときはその場で洗えるよう、個室にはすべてシャワーが設けられています」
母がいる。
スロープの真ん中で、わたしは立ちすくんでいた。
大テーブルの隅の小太りの後ろ姿は、ちゃぶ台の前にいた母そのものだ。一心にテレビを見つめている。
と、何の気配を察してか、白髪の老婆は振り返った。
別人だった。
言うまでもなく。
なぜ、今まで思いつかなかったのだろう。
若くして後妻となった母だが、あのときはすでに六〇代に入っていた。もし痴呆の症状があり、家の外へ迷い出たのだとしたら。
手荷物をまとめたのは、どこかへ帰ろうとしたからだ。それならばトパーズの指輪を忘れていったことも説明がつく。
男と逃げた、などといった考えは、いつまでも母を若いと思い込んでいる子供たちの妄想に過ぎないのだ。
だとすれば、それまでに兆候はあったに違いない。もっとも、近所の誰かが気づいたとしても、医者の家族、特にあの好女子に対し、教える気など起きなくて当然だ。
それでも、せめて行方不明だと知られていたならば。
孫の面倒を見に横浜へ行った、という見え透いた言い訳は、あの田舎町一帯で、このような施設に入ったのだと解釈されているのかもしれなかった。
「何より問題なのは、トイレットペーパーです」
三色に塗り分けられたトイレのドアの前で、マネージャーは言った。
「いくら補充しても、誰かが持っていってしまう。身体に巻き付けると、すごくお洒落にみえるもんだから」
わたしは壁の時計を見た。
「ごめんなさい。検査を予約しているので」
このままでは、トイレシャワーのコックの捻り方まで聞かされそうな勢いだった。
「ああ、そうでしたか」
高木マネージャーは、名残惜しそうにトイレから離れた。
しかしもし、荷物を持って歩き回っていたなら、いずれは保護されようものを。
誘導手摺りのループを描くように、わたしの疑問は最初へ戻った。
モニターも警報ブザーもない、古い家からさまよい出た母は今、どこにいるのか。
「素敵なスーツですね。よくお似合いだ。入院患者さんでおられること、すっかり忘れてました」
エレベーターに向かいながら、マネージャーはなおも話しかける。
「こちらで一度、患者さんたちの芝居を見てくださるんでしょう?」
「さあ。発つ前に時間がとれるかどうか」
「ぜひ、お願いしますよ。二回のシェイクスピア劇は、それなりに盛り上がりましてね」
「シェイクスピアだったんですか」
「ええ。今さら金色夜叉でもなし、と院長代理がおっしゃって」
と、三和子の意図が腑に落ちた気がした。
マスコミだ。事件に関してやってきたカメラクルーを、逆に利用しようとでもいう。
「忠臣蔵とか化け猫騒動とか、死や恐怖を連想するものも避けました。この施設建物のよさを際立たせるような、ドラマチックなものを、と」
老健施設を中心にした地味な経営立て直しに、新しい試みを加える。失敗に終わった高度先端医療に代わり、近い将来、再び注目を集める算段を図っているのだ。
「ご老人と呼ばれる世代も、年々更新されていますから。今の七〇代なら、ロミオとジュリエットを知らない方はいません」
高木マネージャーは、自身の領分を見渡すように目を細めた。
一人、二人と、昼寝から覚めた患者がカラフルな扉を開け、車椅子や歩行器で居室から出てくる。
「論文や報告書には、カタカナ語の使用は避ける、とあるそうなので。呂実夫と朱里絵、という名札を下げてもらいました」
スロープの上に坐り込んだ八十六歳の朱里絵が、階下の七十七歳に向かい、「あなたはどうして呂実夫なの」と絶叫した。
「俺は佳吉だ、と頑強におっしゃっていましたが。最後には、やんやの喝采を浴びて、すごく満足されて」
その晩、患者たちの夜叫は皆無で、朱里絵さんの徘徊は止んだ。学校の先生だった佳吉さんの、夜通しの説教も聞かれなかったと言う。
「驚きました。芝居の持つ力って、文字通り劇的です」
エレベーターのボタンも押さず、マネージャーは頬を紅潮させていた。
「演劇人でいらっしゃるなんて。羨ましい」
羨ましい。
原稿は進まず、近所から嫌がらせされ、目立ちたがりの容疑で取り調べを受けることが、か。
(第20回 第十幕 上編 了)
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*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
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