月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第九幕(上編)
意識がないわけではなかった。焦点を結ばない視界にはさまざまな色や形が蠢いていた。騒ぎの中で抱きかかえられ、車で移動していることもわかっていた。
目に入るものが意味を持ったのは、しばらく後のことだった。
白い天井に、六角形の文様が入っていた。
「姉さん」
頭を動かすことはできた。
狭い個室だった。曇ったガラス越しに午後の陽差しが入っている。わたしの腕には点滴の管がついていた。
「聖清会病院なの?」
白衣の夾子が頷く。
「採血して検査した。疲れが溜まってるようだけど、心配ないと思う」
その言葉に安堵した。疲れといえば、疲れているに違いなかった。
「再逮捕は? どうなったの?」
さっき夕方のニュースで流れた、と答える妹の表情は、窓からの逆光でよくわからない。
「ナースステーションでは、皆、テレビの前で黙り込んじゃって。でも楡木子姉さんは、もう気にしないで」
夕暮れの陽越しに、夾子の頬のファンデーションが崩れて見える。
「他の人権派弁護士の協力も得るって、玉井先生が言ってるから」
ベッドに横たわったまま、わたしは頭を上げた。
「人権派ばかりじゃなくて、岐波さんにも頼んだ方がいいわ。さっきの件だって」
しっ、と夾子は唇に指を当て、ドアの方を窺う。
「点滴が終わるまで安静に」
そう囁いた声は、夾子らしからぬ緊張感に満ちていた。
「様子を見て当たってみるから。その話はしないで」
わたしは数日間の入院をすることになった。病院の目の前のスーパーで、夾子がパジャマと洗面道具、着替えの下着を買ってきてくれた。
検査と療養を兼ねたもので、ホノルルへ発つ日程に変更はない。
夕方、院内の公衆電話から国際電話をかけた。ホノルルでは夜九時を回った時刻だ。
入院の件を伝えると、文彦は声を荒げた。
たまたま運び込まれたのよ、とわたしは言う。
「よく調べてもらわないと。そっちに着いてすぐ病気になったら、厄介でしょ」
「だったら転院しろ。いいか、真田くんの容疑はともかく、聖清会病院には何か問題がある。関わり合いになるな」
「どうせ三、四日だもの」
テレフォンカードの数値は猛烈な勢いで減ってゆく。
「転院してる間に退院しちゃうわよ。それに」と、受話器に向かって声を潜める。
「彼が再逮捕されたの。こんなタイミングでわたしが逃げ出したら、夾子の立場はどうなるの?」
「そこにいる理由は、それだけか」
火中の栗を拾いたがる性格。
月子と同じことを言いたいに違いなかった。
そうよ、とわたしは答えた。
「医者の家族のしがらみよ。悠々と検査を受けて、すっと出てしまうしかない」
五階の窓からは、夜空に重くかかる雲と、高層ビルの灯りが見える。
「ねえ、さっき採血した個室でもいいのよ」
夾子に連れてこられたのは、がら空きの六人部屋だった。
やはり入院患者は激減し、身寄りの薄い要介護老人くらいしか残ってないらしい。
いらんて、と夾子は掌を振った。
「ベッド差額ば払ってもらっても、今さら顔は立たんもん。出発前に余計な出費するこつなかよ、貸し切り状態だけん」
昔から、夾子は追いつめられると、さも呑気に訛ってみせる。
坐っているのは針の筵に違いなかった。夕方のニュースで、明日から外来も閑散とすることだろう。
ならば、わたしも。
ビルの灯りが点々と眺められる窓際のベッドを選び、腰掛ける。
今夜、ここにいるのも何かの巡り合わせだろう。
わたしの担当は、二〇代後半とおぼしき小柄なナースだった。
「いつも妹がお世話になっております」
「こちらこそ」
若いナースは可愛らしいえくぼをみせた。
ベッド頭部の担当者の札には、小久保と書かれていた。美希のケアに当たったことはない、と言う。が、第一印象から、彼を誹謗したスタッフの一人とは思えなかった。
夕飯は鶏と胡瓜の和え物、南瓜の煮付けに白身の焼き魚、春雨のスープといったものだった。昔の病院食に比べればだいぶよく、夾子は賄いに頼んで持ち帰り、美希の食事にも当てていると言う。が、プラスチックの器ばかりのせいか、みな同じ味のようだ。
叫び声が聞こえたのは、そのときだった。
一瞬、わたしは身を固くしたが、気がつくとベッドを飛び出し、向いの部屋へ走り込んでいた。
六人部屋に一人きり、真ん中のベッドで、白目を剥いた老婆が胸を押さえていた。
「殺される」
凄まじい形相で声を絞り出す。薄紫のネグリジェの膝は南瓜の煮付けで汚れ、箸と器が床に落ちていた。
わたしはベッドにはい上がり、老婆の背中を膝で押した。
「どうしたんです」
肩幅の広い、中年のナースが入ってきた。
「南瓜が、」わたしは床を指差した。
ナースはわたしを押しのけ、老婆をかがませて背を激しく叩く。
うえっ、と老婆は喘いだが、何も吐き出すこともなく、呻き声はやがて治まった。
「高藤さん、大丈夫ですか」
頭を上げた老婆は、「殺されるかと思った」と、憎々しげにわたしを睨んだ。
「ナースコールを押して下さい。危険ですから」
四十がらみのナースは振り向きもせずに言った。
「あのう、子供の喉詰まりの救急処置を習ったもので」
「ナースコールを押して下さい」
名札には、川本、と書かれていた。
自分の部屋に戻ると、わたしはサイドテーブルの引出しから手帳を出し、「小久保○ 川本×」と書き込んだ。
児戯に類する、腹いせに過ぎないだろうか。だが彼を陥れ、警察に何を告げ口したのが誰なのか、夾子にもはっきりとはわかってないのだ。
あるいは、と緑の表紙の手帳を引出しに仕舞いながら考えた。
川本ナースの無愛想は、単に再就職のめどが立たないせいかもしれない。若い小久保ナースにはぴんとこないかもしれないが、病院のマイナスイメージが広まる中で、誰もがリストラを強いられそうな状況なのだろう。その危機感のある年輩従業員なら、夾子の親族に対し、好感情を持たなくても不思議はなかった。
部屋の入り口に下げた夕飯の盆を、小久保ナースがにっこり会釈し、持って出ていった。
しかし彼女もまた、ナースステーションでニュースを見たはずだ。
そう思うと、あまりに屈託ない、あの笑顔が疑わしくも思えた。
消灯までは、まだ少し時間があった。サイドテーブルのテレビを点ければ、そろそろ夜のニュース番組が始まるだろう。
名も写真も出ない、当時十九歳の准看護師の再逮捕。
このベッドの上で、それを見たくはない。
起き上がり、スリッパを履いた。パジャマの上から夾子に借りたカーディガンを羽織り、廊下に出た。
向いの六人部屋から、もう物音は聞こえない。
ナースステーションを迂回して、裏側の階段を下りた。遠回りしながらでも表示をたどり、小児病棟を探し当てるつもりだった。
この同じ院内には美希がいる。
そうであれば、やはり一度は面と向かって問いただすべきだ。さもなくば自ら非を認め、虐待をも認め、あの子からも逃げ出すみたいではないか。
少なくとも好女子は、そう思いたがるに違いない。
と、階段の踊り場で足が止まった。
「あらま、楡木子さん」
三和子院長代理が駆け上がってきたのだ。
「中華街で倒れられたんですって? でも、大丈夫そうね」
どぎまぎして見えないよう、どうにか笑顔を取り繕う。
「ええ。念のため、お世話になってます」
「今のニュース、ご覧になった?」
興奮し、上気した三和子は、挨拶もそこそこに捲し立てはじめた。
「こんなことになるなんて、信じられないわ。捜査するのはわかるわよ、訴えがあれば。でもね、警察ともあろうものが、それを真に受けるなんて。ごまんといる患者の中には、どんなのだっているのに」
院長代理は、自身の言葉で煽られているようだった。
(第17回 第九幕 上編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■