月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第九幕(中編)
「こんなことじゃ、病院経営は誰も手を出せなくなるわ。患者さんのことを考えて、難しい医療にも挑戦してきたんじゃないの、厚生省だって乗り出してくるべきよ。警察行政に好き勝手させて、まあ、もっとも真田くんが身柄確保されてからというもの、患者さんの急死は一件もないんだけど」
わたしは思わず、三和子の顔を見た。
「万々が一、もし殺人なんてものがあったとしてよ。犯人はもう、ここでの行動は慎むわね。逮捕された彼に罪をなすりつけるために」
わけのわからない話の飛躍に、院長代理は自分で頷いている。
が、その理屈は、すでに次の段階の準備としか思われない。
やはり病院は彼の切り捨てにかかっている。殺人事件の存在を、徐々に認めようとしているのだ。
さらに早口で、院長代理は言い放った。「だとしたらある意味、聖清会病院は今、世界で一番安全な病院じゃないの」
あの、おっちょこちょいが。
三和子について、吐き捨てるように言った姉の言葉を思い出す。
試験は要領抜群。他人を利用し、やることなすことが派手。結局はどこかで失敗するが、それを誤魔化すのにも長けている。
医学部の実習でも、ミスばかりしていた女医なのだ。
「犯人」とやらが故意犯でなく、仮に医療ミスのリピーターだったら。
わたしは彼女の顔をまじまじと見つめた。
真田に責任をなすりつけるため、そのおっちょこちょいも今は、細心の注意を払っているに相違ない。
「ね、楡木子さん」
わたしの赤いカーディガンの腕に、三和子は馴れ馴れしく触れた。
「だから安心して。ゆっくり骨休めなさってね」
言葉とは裏腹に、目はぎらぎら輝き、見えない敵と戦っているかのようだった。
「はい。でも、ホノルルへ発つ予定が迫ってまして」
「あら。回復期に焦りは禁物よ」
と、思い出したように医師らしい型にはまってみせる。よくいる白衣の皮を被った自我の塊と化した。
「退院される前に、ぜひ隣りの老健施設を見学してね。地方からも視察にくるほどの代物よ」
「ええ、時間がありましたら」
わたしは後ずさりし、三和子の手を自分の腕から外した。
「演劇も指導していってちょうだいよ。真田くんがやりかけて、患者さんも楽しみにしてたのに」
わざと言っているのか。
彼とわたしの関わりを、いまだ強調するかのように。
「さあ、それはちょっと。お年寄りは専門外なので」
とすれば、この女はやはり警察と通じている。
「情緒安定効果が高いんですってね」と、三和子は構わず、畳みかけるように言う。
「うちもね、高齢者介護には今まで以上に力を入れようと思ってるの」
その高揚振りは一方で、自分の考えで頭がいっぱいなだけにもみえる。
「さっきも、ナースに叱られたところです」
一刻も早く、できればさりげなく、その場を立ち去りたかった。
「向いの病室のご老人が南瓜を喉に詰まらせて。つい余計なことをして」
あの婆さんか、と院長代理は眉をしかめた。
「南瓜ぐらいで死にゃしないわ、嚥下力が強いもん。血圧と不定愁訴で老健施設から移したんだけど、神経質になってるのよ。遠くに嫁に行った娘が転院させると言いながら、ちっとも動かないもんでね」
三和子が首を振ると、亜麻色の巻き毛が白衣の肩でくるくる揺れた。
「テレビも見ないし、耳も遠いのに、騒ぎをどこから聞き込むのやら。ところで、どちらへ」
一瞬、返事に詰まった。
「ちょっと、美希の顔を見ようかと」
この女が警察から何を聞いていようと、虐待の疑いはすでに晴れている。小児病棟の場所を尋ねたって、構わないはずだった。
「美希ちゃん、ねえ」
院長代理の視線はだが、宙を泳いだ。
「つい先刻、一時退院したみたいだったけど。手が空いた隙に、夾子さんが自宅に連れてったようよ」
「だから何度も言わせないでよ」
夾子は心底うんざりした顔をする。
「姉さんはもう、知らん顔してた方がいいんだって」
「だからって、わたしと入れ違いみたいにして、退院させることないでしょ」
「現に、美希に会いに行こうとしたじゃないの」
「あの子を相手に大立ち回りでもするとでも思ったの?」
「それに近いことしたんじゃない」と、夾子は憮然と呟いた。
「だって、楡木子姉さんだもん」
声を張り上げようとした瞬間、夾子は手を挙げ、ドアを窺って目配せした。わたしは怒鳴る代わりに、プラスチックのスプーンをケーキに突き立てた。夾子が買ってきた、赤いジェリーのかかったケーキだ。
「とにかく今は些細なトラブルでも困るの。院内の誰かが、いちいち警察に告げ口しているみたいだし」
そうだった、と自己嫌悪に陥った。
わたしがこだわったのは自分の面子、感情論に過ぎない。それも自身、すでに安全な場所にいるからでもあった。
「忠くんからの手紙、読んでみる?」
夾子は白衣のポケットに手を差し入れた。
「あなた宛てなの?」
茶封筒を目にするや、わたしは妹に嫉妬していた。
「再逮捕の前に、任意でポリグラフ検査にかけられたの。いわゆる嘘発見器。それを聞いた弁護士さんが、やりとりを記録するようにって」
が、それはとても記録とは思われなかった。二枚のレポート用紙に黒のボールペンで、蚯蚓ののたくったような線が走り回っている。
三月二十三日、らしき日付しかわからない。
背筋がぞっとした。彼は壊れてしまったのか。
あの繊細な眼差しが。
「点滴の手順を繰り返し言わされた、って書いてあるのよ。前と違う言葉を使っただけで、なぜだって追及されるって」
「あなたには、これが読めるの?」と、尋ねた声は震えてしまった。
「玉井先生から様子を聞いているからよ。彼、再逮捕直後に、認める供述をしてしまったらしくて」
「認めた、ですって? どうしてそんな」
夾子は唇を噛んだ。
「患者の名を言い間違えるのは、犯した罪から目を背けようとしているからだ、って。老人だから殺してもいいと思ったんだ、告白して現実に直面しろって。おまえでないなら夾子先生を逮捕する、って。きっと彼、わたしを守ろうとして」
馬鹿な、と頭にかっと血が上った。「そんなこと、あるはずないじゃないの。やってもいないことを」
「がんがん机を叩かれて、その現実があやふやになってる。弁護士の顔を見ると、我に返るみたい。自分はやってないってこと、思い出すの」
では、狂いかけているというのか。
あの直感力に秀れた、知的な彼が。
「こんな目に遭うのは、何かの天罰か、って。二枚目の冒頭にそう書いてある。自分で気づいてない、悪いことをしたんじゃないか、って」
やはり読めない線が散乱する二枚目の便箋を、夾子は取り上げた。
「処置室でのことを記録してるの。抗生剤はラクテック、翼状針でサーフロー二〇G。酸素マスク、救急カート。EKGモニターは記憶にない。カートの上で患者は起き上がったし、誰か迎えに来て帰った。院長代理も診察した、採血してない。具合悪くなったのは抗生剤のせいと説明。誰が点滴つくったか、覚えてない。もしかしたら点滴のボトルにさわったかもしれない。呼吸困難にはなってない、動作はしていた。ろれつがどうだったか、責められてもはっきりしない」
便箋を持った手を、夾子はもう一方の手で握りしめていた。
彼はこの手紙で、必死で正気を保とうとしているのだ。が、それも荒れ狂う波の前の、ちっぽけな防波堤に過ぎないように思えた。
「姉さんとの関係だって、いまだに根掘り葉掘り訊かれるって」と、夾子は呟く。
いまだに根掘り葉掘り。
入院以来、初めて眩暈が起こった。
「美希の件はもう済んだはずなのに。終いには、自分でも気づいていない恋心があったんじゃないか、なんて。矛盾してて笑っちゃう」
「そんな調子で、殺人も認めさせるのね」
自分のその声は、ひどく弱々しかった。
(第18回 第九幕 中編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■