月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第八幕(後編)
あーあ、と夾子は息を吐いた。
「姉さんが行っちゃうのは心細いな。もとはと言えば、わたしたちのせいなんだけど」
晴天の日曜日、中華街は観光客でごったがえしていた。だが表通りの喧噪は、路地裏のこの店までは伝わってこない。
十一月のあの晩、姉妹が集まる前に、好女子を連れてきた店だという。
出発前、一緒に食事できるのは、これで最後かもしれない。
その日の朝、夾子からの急な誘いだった。
平日の勤務時と同様、妹は髪をアップに纏めていたが、見覚えのあるピンクのスーツは確か、あの姉妹会議のときに着ていたものだ。
「姉さん、ホノルルでは何をするの?」
「しばらくは何も考えたくないわね」
「じゃあさ、あっちで日本語劇教室、ってのはどう?」
わたしは首を振り、返事しなかった。
本当にもう何も、思い出したくもない。
無論、向うに落ち着けば、腰を据えて脚本にかかるいい機会だ、と考えてはいた。日本のメディアでのどうでもいいような露出がなくなったところで、物書き生命が失われたわけではないのだ。
「そりゃあね。疑ったのは警察の落ち度で、姉さんが悪いわけじゃないもの」
夾子は言い放ち、次々運ばれてくる皿を置くスペースを作るのにおおわらわだった。評判の餃子はぷっくりと膨れ、やはり高い仕立て服に身を包んだ好女子を思い出させた。
あれからまだ三ヶ月足らずしか経っていないのが、嘘のようだった。
「美希はどうしてるの?」
餃子を頬ばったまま、夾子は肩をすくめた。
「けろっとして、院内で遊んでるわ」
美希。何より思い出したくないのはその名だ。が、訊かずにはいられなかった。あんな子供に、なぜ陥れられたのだろう。
「ほんとに申し訳なかったわ」妹はうつむき、呟いた。
「でも美希が前言を撤回したのは、協力してくれたスタッフに少しずつ心を開いたお陰よ」
それはわかっている。虐待痕の証拠が覆っただけなら、警察は美希への誘導尋問をあきらめはしなかったろう。
山城刑事からは、あの後、一度だけ電話があった。
「そう、御存じでしたか。ま、美希さんが突き落としたという可能性は低くなりましたがね。彼女が受けた家庭内虐待については、まだ調査中ですので」
それを聞き、岐波弁護士は嘲笑しつつ憤っていた。
「捨て台詞にもほどがある。親戚の子を叱ると、いちいち虐待容疑で調査されるのかね。ミュンヒなんとかやら、洒落た思いつきはどこへ消えたんだか」
虐待。
その言葉の意味する輪郭すら、いまや曖昧だ。
以前、わたしは、陽平のように甘やかされ、叱られない子供こそ一種の虐待を受けている、と明確に考えていた。興奮しやすく、自己の能力の限界を認知しにくい子供は、さまざまな災難に遭いやすい。
陽平の死が美希によるのでないと証明された今、あの事故もその例だったと言えるのかもしれない。だが、わたしは生徒を失ったのだ。他の生徒も一人も戻ってこない今、教育論など空しかった。
「子供って、何しろ自分中心の動物よ」
夾子は言い、皿に残った料理を課せられた義務のように浚っていた。
「いいことも悪いことも、過剰に自分のせいだと思ってしまうの。かといって結局、自分で背負いきれない。すると今回のように、姉さんなんかにおっかぶせてしまう」
混乱を周囲に投影する。
岐波弁護士の言葉が思い出された。
「両親の仲の悪さが子供にストレスを与えるのはそのためよ。自分のせいで喧嘩していると感じてしまう」
ならば美希の作り話もまた、家庭の事情の象徴なのか。
確かに表面はどう取り繕おうとも、好女子の性格からして、亮吉との夫婦仲が良好なわけがなかった。離婚話も出ていたようだが、そのとき別れていれば、子供へのストレスも一過性で済んだろう。
児童神経症。
それがもし、立場の弱い子供がたまたま担わされた心理的力学の歪みに過ぎないなら、病とは言えまい。ただの過剰な敏感さであっても、不思議ではなかった。
見たはずのない事実をも、察知するような。
わたしと彼との間に、美希は何かを感じ取ったのか。
それとも、単なる作り話が、たまたま事実を掠めただけだったのか。
その美希を誰よりも理解するという夾子は、だが今までのところ、その件を持ち出す気配もない。なかなか来ない中国人ウェイトレスをよそに、空いた器をテーブルの隅に寄せている。
「美希を、これからどうするつもり?」
さらに訊くつもりのなかったことを、わたしは訊いていた。
あるいはそれは、妹への罪の意識を押しやるためだったろうか。
「そろそろ退院させて引き取る」
どこか上の空の目線で、妹は答えた。
「当分、広い部屋を探す必要もなさそうだし。今日の午後に再逮捕なの」
「なんですって!」
わたしはほとんど悲鳴を上げていた。
夾子は疲れた笑みを浮かべた。
「姉さんには黙っていようと思ってたけど。言っちゃったね」
「再逮捕って、まさか」
「まずは六十八歳男性の入院患者に対する殺人未遂容疑だって」
まずは。
まずは、とは。
「八十歳の女性の急死、七十二歳の術後男性の急変後の死亡、それから六十九歳の外来患者の急変につぐ転院後の死亡。具体的にはこの三件の殺人容疑での逮捕を予定しているだろう、って」
ちらりと腕時計に目をやる夾子の顔は、心なしか蒼ざめていた。
今、食事に誘われた理由が初めてわかった。
妹は、再逮捕の瞬間を一人で迎えるのが耐えられなかったのだ。
「マスキュラックスは青酸カリとは違う」
夾子の視線は泳ぎ、うわ言じみた呟き方をした。
「点滴の栓から入れたとしても、人工呼吸で助かる可能性が十分あるの。そんな方法で殺人を試みるのは珍しすぎるって」
堰を切ったように、夾子は話しはじめていた。
「玉井先生はしょっちゅう接見して、励ましてくれてるんだけど、検事の中にも妙に優しい人がいて、君は本当は悪い人間じゃないって。刑事に毎日、責められた後でそう言われると、認めそうになってしまうって」
その声は微かに震えはじめていた。
「六十八歳の患者は、彼の処置で助かったって、感謝してたはずなのに」
「彼の処置で助かった、ですって?」
それがいったい、どういう経緯で殺人未遂に変わるのか。
「院内で怪しい動きをしては、何かあると一番に飛んできたって、患者たちも言い出してるし。目立ちたがりで偽善者って、自分でもそんな気がしてきたって。弁護士の接見のない日が危ないの」
わたしは怒りで、眩暈を覚えていた。
「後から自分が処置すれば救えると思い上がっていて、つい、あらぬものを抗生剤の三方栓に入れてみたんじゃないか、ヒーローとして演技したい願望は誰にでもあるって、耳元で繰り返されると」
ヒーローとして演技したい願望。
まだそんなことを言っているのか。
中華屋のテーブルに肘を突き、ようやく頭を支えた。ヒーロー願望の塊は、あの刑事の方ではないか。
「だけど、処置できなくて死んでもいいとは思ってたろう、とも言うんだって。彼、絶対やってないっていう記憶と、もしかして無意識にやったかも、って自分への疑いの間を、行ったり来たりしてるの」
マスキュラックス。三方栓。
それらの言葉が耳の奥で渦を巻く。
「ごめんね、姉さん。いつまでも心配かけて」
心配。
わたしは心配などしていただろうか。ただ、謝罪しない週刊誌に苛立ち、南の島へ逃げ出そうとしていただけだ。その間、妹たちは容易ならぬ事態に耐えていた。
「誰も彼もが、今は遠巻きに様子見よ。マスコミも、もう味方になる振りすらしない」
ふいに吐き気がこみ上げてきた。
わたしはコップの生温い水を啜った。
「患者の誤解とか、同僚の嫉妬とか、そんな言い分は聞き飽きたって」
ねえ、と夾子を遮った。
「元外科部長の情報は洗い直してみたの? 病院の経営状態のこと」
「姉さん、ちょっと顔色が悪いみたい」
夾子の眼は靄がかかっていたが、口調は落ち着いていた。
「ちょっと食べ過ぎたわ」
わたしは答えた。料理の油が悪かったのか。
「病院は不動産の負債を抱えた上に、研究事業の設備投資で、かなり無理しているんじゃないの?」
そんなことを言っていたわね、と妹は眉をしかめた。
「ちょっと訊くけど、」
間歇的に襲う吐き気を、わたしは堪えた。
「美希を直接、世話したり、説得したりしたスタッフに、院長代理は含まれてないでしょうね」
「わたしと二人の親しいナースだけよ。院長先生たちは忙しくて」
「それどころじゃなかった、ってわけね。あんたたちが病院を敵に回したくない、と言うのはわかるけど」
夾子の眉間の皺が一段と深くなった。まさに悩める妻のやつれた雰囲気から、わたしは目を逸らした。
「三和子さんが言いたいのはね、結局、病院には非がない、ってことだけよ。最後まで彼を見捨てないという保証はない。そもそも本当に、医療事故がなかったのか」
「もしかして、ミスのつけを彼が払わされてるってこと?」
そんな可能性もある、と夾子に言おうとした瞬間、激しい眩暈に平衡を失い、わたしは椅子に坐ったまま、横ざまに倒れていた。
(第16回 第八幕 後編 了)
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*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
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