妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
軽い口調だったつもりだが、やはり空気は重くなった。今度は全員でうーんと唸りはじめる。三本目のボトルを開けているのはトダだ。職業柄か一番酒が強い。イノウエは赤い顔のまま、ヤジマーは暗い顔のまま沈黙が続く。ほら、とトダが焼酎のウーロン割りを目の前に置いた。口をつける。かなり濃い。喉が一瞬で熱くなる。
「なあヤジマー、お前父親にいきなりなれたか?」
「いや、まだ一割も実感がねえよ」ヤジマーは即答した。
「一割もか?」
尋ねたイノウエが驚いている。だってもう三歳だよな? と重ねて訊く声が大きい。
「ああ、でも一割だよ。産まれてくる前はどっちかっていうと俺の方がはしゃいでたのにな。産まれてきたらもうカミさんなんか堂々としちゃってんだよ」
そう答えたヤジマーの表情は相変わらず暗く声は小さい。へえそんなもんかなあ、と結婚を控えている赤ら顔のイノウエは素直に驚いている。
「正直言うとさあ、俺はまだ遠慮してんだよ。カミさんは結構子どものこと乱暴に扱うんだけどな。でも俺は他人の子ども扱うみたいでさ。ハレモノだよ、ハレモノ」
「やっぱりアレが違うのかな」天を仰ぎながらトダが言う。「女は十ヶ月、腹の中で育ててるんだろ?」
「ああ、確かにそれはあるかもな。ほら、何ていうのかな、シード? ハンデ?」
つられたのかヤジマーも天を仰ぎつつ言葉を探している。シードもハンデも正解ではないが、言いたいことは分かる。でも「分かった!」と手を挙げたのはイノウエだった。
「つまりミホちゃんの方がさ、先にスタートしちゃってるって言いたいわけだ」
そうそう、とヤジマ―は頷いた。「俺は十ヶ月遅れてスタートしたんだよ」
よく分かる。俺も今、マキに六ヶ月リードされている。そうなんだよなあ、と言うと三人が一斉にこっちを見た。思わず素直に教えを乞う。
「その差っていうのは埋められないもんなのかな?」
飲む度にカッと熱くなっていた喉の辺りが麻痺してきた。もう飲んでも熱くならない。とうとう俺は勝手に陥落し始めた。妊娠六ヶ月目の今、女房と妙な距離感を感じているという俺の告白にヤジマーは大きく頷いてくれる。
「お前は危険察知能力が高いんだよ。何だか子ども欲しくなくなっちまうなあ」
そんな見当違いの反応を示したのはイノウエだ。黙って酒を飲んでいたトダが、俺の目を見て問いかけてくる。
「さっきの質問だけどさ、何で人を殺しちゃいけないのかっていうヤツな、何であんな質問しようと思ったんだよ」
遂に来た。核心ど真ん中に突き刺さる質問。その訊き方といい、タイミングの良さといい、まるでデュークだ。こいつもきっと良いバーテンなんだろう。いっそのこと濃いウーロン割りで勢いをつけ、コケモモは俺の子を堕ろしたんだと打ち明けたかったが、やはりそれは無理だ。まだ俺からは答えが出ないと察知したトダは矛先をヤジマーに戻す。
「ミホちゃんと子どものことを嫌いになったことあるか?」
多分、トダは俺の質問の真意を分かっている。
「ないって言ったら嘘になるな、やっぱり疲れてる時なんかに子どもが言うこときかなかったりさ、あと泣き止まなかったりすると、正直腹たつもんな」
殺したいって思ったことは? と訊こうとしたが、言葉がきついかなと躊躇しているとトダに先を越された。
「いなけりゃいいのに、なんてたまには思ったりもするのか?」
言葉の選択が賢い。うーんと更に大きい声でヤジマーが唸る。
「ほら、育児ノイローゼの主婦とかはさ、子どもを殺したくなる瞬間があるらしいじゃん?」
もうダウン寸前のイノウエが「殺す」という言葉を使いヤジマーが目を閉じた。少しの沈黙の後、目を閉じたまま「よく分かんないんだけど……」と口を開く。
「よく分かんないんだけど、カミさんは色々と深く関わってるわけだろ? 腹ん中にずっと入れてたし、その腹ん中から出てくるんだし、出てきた後はずっと一緒にいるしな……。俺なんか帰りが遅いと寝顔しか見れなかったりするんだぜ」
トダがウーロン割りを作ってヤジマーに手渡す。わりい、と受け取って半分ほど飲み「濃いな」と顔をしかめた。そのしかめっ面のまま続ける。
「実際にどうなのかは分かんないけど、もしカミさんが子どもを殺したいと思ったとしても俺は驚かないよ。それくらい深く関わってるんだからさ、別に驚かない。ただ俺は違う。殺したいなんて思うほどのアレがないんだよな」
アレって何だよ、と訊こうと思ったが大体予想はついたからやめた。思い入れとか実感みたいなものだろう。ウーロン割りを作りながらトダが俺をちらりと見る。
「で、何で人を殺しちゃいけないか、だろ?」
「それは別に家族とか友達だけじゃなくて知らないヤツとかもってことだよな」
意外にも持ち直してきたイノウエの質問に俺はそうだと頷く。もし悪いことじゃなかったら殺人事件が多発しちまうのかな、と少しズレたことをヤジマーが呟き「それはないだろ」とトダが否定した。
「人を殺すってさ、まあ殺し方にもよるんだろうけど結構重労働なんじゃねえか?」
俺ビール飲むわ、と復活したイノウエが注文して俺もそれに乗っかった。トダも喋りながら「俺も」と指で合図する。
「いや、もし楽に殺せたとしてもさ、死体を見たりとか、人殺しとして生きていくのってかなり厳しいことだろ? だからそんなに殺人は増えないんじゃないの?」
ビールを持ってきた店員は若くて背の高い男だった。この間トミタさんと話したおかげで、親しい人間が殺されると悲しいことは納得出来ている。みんなに訊いてみた。
「たとえばさ、今の店員と、自分の女房や子どもが殺されるのは意味が違うだろ」当然じゃないか、という顔で三人とも俺を見ている。「俺は今の店員みたいに、何の関係もないヤツを殺すのが何でいけないのか、それを知りたいんだよ」
「そりゃ、あの店員にも家族とか友達とかがいるからだろ」
そんなヤジマーの答えに、イノウエは納得した様子で言葉を引き継いだ。
「誰だって殺されたら死にたくなるくらい大事な人がいるもんだろ? たとえば家族とか友達とかさ。だからどんな人間も殺したりしちゃいけないんだよ」
ヤジマーとイノウエの言いたいことは分かる。分かるが、何かが決定的に違う。うまくは言えないが、肩すかしをくらったような感じがする。
「それ、ちょっと違うだろ」
トダがウーロン割りを飲み干す。頑張れトダ。今はこいつしか頼れない。
「あくまでも自分の話なんだよ。自分、な? どんなヤツにも家族がいるのと同じで、どんなヤツにも他人がいるだろ」
そうだ、トダの言うことは正しい。主語は「自分」だ。主語を「自分」に固定しないと話がおかしくなる。「自分」から「他人」に主語を変更してはダメだ。だって「自分」の家族と「他人」の家族はイコールじゃないから。
――「他人」にも家族はいるが、同時に「他人」にも他人はいる。
身振り手振りを交えながら、こんがらがらないようにそう言うと、ヤジマーとイノウエもどうにか納得した。ふりだしかあ、と大袈裟に困った顔をしたイノウエが、次の瞬間ジョッキを片手に「やっぱりさ」と話しはじめた。どうやら完全に酔いが醒めたようだ。
学生の頃だってこんなに熱心に議論したことはないぞ、と俺は少し可笑しくなった。あの頃、俺たちの数少ない共通点はダラダラしているところだったのにな。
「やっぱりさ、さっきお前が言ってたみたいに、死体を見たり人殺しとして生きていくのって厳しいことだろ。そんな厳しさとは無縁でいるために人を殺しちゃいけないんだよ」
トダは「結局我が身の可愛さか」と呟いて難しい顔をしている。
「じゃあ死体を見ても平気だったり、人殺しが罪じゃない環境だったら……」と言いかけた俺をトダが手で制する。
「それじゃ意味ないだろ。主語だ何だって言う前に、もっと大きい前提が変わってる。今現在の、この世の中での話をしないとさ」
青い髪のトダはどこまでも冷静だった。そうだ、この世の中での話なんだ。人を殺したら罪になる世界の話をしてるんだ。
「安心しろ」トダは俺を見てそう言った。「自分の感覚はまともだと自信を持て。そして安心しろ。いいか?」
思わず背筋が伸びる。「自信を持つ?」と、間抜けな声で尋ねた俺をトダは見捨てない。深く頷き言葉を続けた。
「今のお前は反抗期のガキと一緒なんだ」
面と向かって宣言されると、さすがに反論したくなるが頑張って堪えた。少なくとも今はこいつの方が冷静で冴えている。
「お前も分かってるはずなんだよ。人を殺しちゃいけないに決まってる。そこに理屈はないし、そもそも要らないんだ。そしてお前はそのことをちゃんと理解している」
トダの言葉に納得したらしく、ヤジマーとイノウエは頷いている。俺も納得はしている。でもどこか物足りないのは、コケモモの中絶の話を隠しているからだ。だからどんな言葉も中心を貫かない。結局自分のせいだ。
疲れるなあ、とイノウエが笑ってビールを飲んでいる。もう今日はこれ以上の結論は出ないだろう。分かったよ、の代わりに「腹減っちゃったな」と言うと、ヤジマーがメニューをテーブルの上に広げて話がどうにか一段落した。
トダは少しの間俺の顔をじっと見つめていたが、小さく二、三度頷くとウーロン割りを作りはじめた。
やっぱりラーメン食いてえな、というイノウエの一言で俺たちは店を出てラーメン屋を目指した。時間はもうすぐ十一時。雨は止んでいた。正直なところラーメンは重かったが、ビールを飲みながらだと食べれそうだった。みんなあまり酔っていない。ああいう疲れる話をしながらだと、なかなか酔えないのかもしれない。今日はヤジマーも、いつものように明るいだけの男ではなかった。
汗を拭いながらトダがビールをもう二本頼む。おいおい、とみんなでたしなめたが、もちろん本気ではない。一足先に食べ終わったヤジマーがビールを注いでくれた。「この後どうする?」。俺もトダも明日早いわけではないので、サラリーマン組に委ねた。
キャバクラ行くか、と提案したのはヤジマーだ。近所に何度か行った店があるらしい。レベルは保証しないけどみんな若いからさ、と笑っている。イノウエはなぜか小声で、女の子は日本人だけかどうか確認していた。とりあえず行く気満々のようだ。俺とトダも反対する理由はない。今までも「同窓会」の後、キャバクラに流れたことは何回かあったが、こんなにすんなり決定したのは初めてだ。次の日が早いからとか、懐具合を理由に大抵誰かが反対して、決定するまでに時間がかかっていた。どうして今日に限ってすんなり決まったのか。その答えは簡単だ。疲れる話をした後にはキャバクラにでも行ってバカ話をするに限る、と全員が思ったからに違いない。
結局キャバクラには二時過ぎまでいた。隣についたサクラちゃんは四月に高校を卒業したばかりの専門学生で、当然だが見た目は女子高生と変わらなかった。確かに店の女の子たちはみんな若かったし、ヤジマーがここぞとばかりに本領を発揮して盛り上げてくれたので、さっきまでの疲れる話のことは考えずに済んだ。
他の席に呼ばれたサクラちゃんを、俺が場内指名で戻したのを皮切りに、他の三人も最初に席についた女の子を固定させた。コロコロと女の子が変わると疲れる歳になってしまったのかもしれない。
青い髪のトダが一番人気になり、ヤジマーは俺たちがどんなにからかっても独身だと言い張った。みんな同じ歳だと言っているのに年上に見られたイノウエは落ち込み、俺はそんな騒ぎの中でちゃっかりサクラちゃんと連絡先を交換した。
派手なミニスカート姿の女の子たちに見送られて店を出た時は、すっかりみんな元気になっていて「もう一回ラーメン食えそうだよな」と笑いながらブラブラと街を歩いた。新宿ほどではないが、池袋も遅くまで賑やかだ。
飲み会帰りの大学生の集団、甲高い声で叫ぶように話をしている派手な服装の女二人組、ジャージにセカンドバックの半グレ風、振り返るくらいに背の高い外国人グループ、少ない暗闇を見つけてそこに溶け込もうとしているホームレス、マダ遊ブンデショ? とまとわりつくカタコトの派手な女、そして俺たち――。まるでごった煮、いや闇鍋だ。
トダ、イノウエの順番でタクシーを捕まえた。俺と一緒にタクシーを待つヤジマーが、視線を合わせないまま照れたように話す。
「やっぱりさ、お前の言ってたことはよく分かるよ。女は強いっていうか、俺たち男とは違うんだよな全然」
ふと今朝のことを思い出し、最近お腹に話しかけてるんだ、と浮かない表情で告げると「ああいう時って、リアクション困るよな」と同意してくれた。どうやらミホコもヨガをやっていたらしい。
「でもさ、お前みたいに今から危機感持ってるのは正解だよ。俺は産まれてくるまで何も考えてなかったからな」
「だから『パタニティー・ブルー』か……」
「ああ、多分な。まあ何やるにしても新米は大変ってことだ」
確かに俺は新米、いや、それ未満だ。まだ子どもの顔さえ見ていない。タクシーに乗り込みながら「次はビアガーデンかな」とヤジマーが笑う。おう、と手を上げるとドアがバタンと閉まってタクシーは走り出した。
(第09回 了)
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