妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
梅雨入りを迎えた。連日天気は悪く、今日も朝から雨だ。バイトは休みなので、ぼんやりと雨音を聞きながらまだベッドで横たわっている。別に「幸せ」や「平和」を感じたりはしないけど、心地がいいのは間違いない。台所ではマキが朝食の用意をしている。いつもならばベッドから出て、トイレに行きがてら「おはよう」と声をかけるところだ。だが俺は目が冴えてきてもまだ、こうして横たわっている。特に眠くはない。
昨日の晩は、仕事を終えた後「夜想」には寄らずデュークのバーに行った。彼と簡単な話がしたかった。「夜想」でしているような簡単な話。もちろん「夜想」での簡単な話と、デューク相手の簡単な話は同じではない。彼とはジャズの話がしたかった。そしてゆっくりと時間をかけて、ジンのロックを飲みたかった。しかし、デュークはいなかった。
重い銀色の扉を開けると、いつものように背の高い女がいたが、案内してくれたカウンターにデュークの姿はない。代わりに俺よりも若そうな色白の男が、グラスを洗いながら軽く頭を下げた。先客は二組。俺は一番手前の席に座った。予定通りジンのロックを頼み、デュークの登場を待っていたが一向にその気配はない。さっきまでは彼の顔を思い出せたはずだが、待っている間にどんどん自信がなくなってくる。
あれ、デュークってどんな顔だったっけな、デューク・エリントンに似ているんだから……、と頑張ってみたが、不思議なことに、そのうち本物の顔さえも浮かばなくなってしまう。
「すいません。ちょっと教えてほしいんですけど……」
一番奥のカップルが若いバーテンにカクテルのことで質問をしている。流れている音楽はダンス・ミュージックのように軽やかだ。これもジャズでいいのだろうか。たしかこういうのをフュージョンって呼ぶんだっけ……。何だか初めての店に来たみたいで落ち着かない。落ち着かなくなると酒のペースが早くなるのは、昔からの悪い癖だ。
空になったグラスを見つめていると、入口担当の背の高い女が目の前に立っていた。何か飲まれますか、という感じで軽く微笑む。短く微笑みを返し「同じものを下さい」と頼むと氷を砕き始めた。どうやら酒も作るらしい。
今日はお休みなんですかね? と尋ねると、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐにデュークのことだと分かったらしく「はい、風邪をひいてしまって、昨日からお休みを頂いているんです」と申し訳なさそうに答えた。
彼は基本的に毎日出勤していると教えてくれた後、ジンのロックを静かに置いて、彼女は店の入口へと戻っていく。修行中のバーテンなのだろうか、それとも案外ここのオーナーだったりするのだろうか。人は見た目では分からない。二杯目のグラスが空きかけた頃、色白のバーテンにチェックを頼んだ。まだフュージョンらしき音楽が流れている。
これ誰ですか、と宙を指さすと、若いバーテンは「ハービー・ハンコックです」と答えてから間髪入れずに「さっきリクエストが入りまして」と付け足した。ハービー・ハンコックなら家にも二枚ほどあったはずだが、こういうタイプの音楽ではなかった気がする。帰り際、背の高い女が「今日はすみませんでした」と深く頭を下げた。
以前、この女が殺されても何も感じないだろうと考えたことが頭をよぎる。今度訪れた時、もし彼女が殺されたと聞いたら、寂しくなったり悲しくなったりするんだろうなと思った。その理由を考えているうちに、何となく家へ帰るのが面倒くさくなり、結局「夜想」にも寄ってしまった。店へ入る前に、一応マキへ電話をかけておく。
「酔っ払わないで帰ってきてよ」
たしかにそう言われた。でも、口調までは思い出せない。笑っていたような気もするし、怒っていたような気もする。
「夜想」には閉店まで居たが、飲んだのはビール二本に焼酎のロックを一杯だけ。ただその後マスターに誘われて久し振りに二人で飲んだ。場所は知り合うきっかけとなったバー。顔を出すのは一年ぶりだったが、客の顔ぶれはあまり変わっていない。店に入ってから出るまでの間、マキが好きそうなテンポが速くてうるさいロックがずっとかかっていた。
交際中の離婚暦がある女のことを話しながら、マスターはウイスキーを早いペースで飲んだ。俺は明日早くから仕事だと嘘をついて、甘ったるいカルアミルクを舐めていた。
家に帰ったのは一時半時過ぎ。時間は遅くなったが頭はすっきりしていた。気付かないうちに、スマホの留守電にメッセージが入っている。この間の池袋のキャバ嬢、サクラちゃんからだ。何度か電話をくれたが、一度もタイミングよく出たことはない。
「また電話しまあす、お仕事頑張って下さあい」
カルアミルク並みに甘ったるい声のメッセージを聞いていると、それだけで楽しい気分になってしまい、結局三回も再生してしまった。そんなに高い店でもなかったしな、とサクラちゃんの顔を見たくなっている単純な自分が悲しい。どうせ営業電話だとブレーキを踏んだが、楽しい気分に影響はなかった。
そういえばマキ以外の女とは御無沙汰だ。最後はいつだっけ、と考えるがなかなか正解にはたどりつかない。煙草を吸いすぎたせいか少し喉が痛い。何度かうがいをしたがまったく効果ナシ。あんなに長く飲んでいたのにまだ何か物足りない気がして、灯りを消した台所でしばらく座っていた。目が慣れてきて、徐々に部屋の様子が浮かび上がってくる。そんなタイミングでメールが来た。コケモモからだ。
調子はどう? /なんだか眠れなくて、変な時間になっちゃった/起こしたらごめん/明日早いからビール飲んで眠ります/じゃあね
今、あいつはビールを飲んでいる。その事実は生々しかった。この世のどこかであいつが生きている、と実感したのは何年振りだろう。俺も冷蔵庫からハイネケンを出した。もう飲めないが飲みたかった。ハイネケンを俺に教えたのはコケモモだ。きっとあいつが今飲んでいるビールもハイネケンだろう。
飲んでるのはハイネケン? /俺も飲んでる
そう返信しそうだった。実際に文字も打ってしまった。酒を飲んだからかもしれないし、サクラちゃんの留守電を聞いたからかもしれない。まずい。急いで文字を消去し、まだ残っているハイネケンを台所に流してから寝室へと向かった――。
だらだらとベッドに横たわりながら、昨日の記憶をたどっていると、マキが部屋のドアを開けた。
「あ、起きてた。今日ね、オカアサンのところに顔出そうかと思うんだけど、どう?」
マキには、というか俺たちには二人のオカアサンがいる。甘納豆好きだったわよね、という言葉で俺の母親、即ち「お義母さん」の方だと分かった。あの人は仕事中でも甘納豆を口に放り込んで、父親からよく注意されている。
正直なところ今日はゆっくり休んでいたかったが、正午過ぎには二人して家を出た。実家に電話をかけようとするとマキが「ちょっと待って」と制する。
「行く前にね、ひとつだけ付き合ってほしいところがあるんだけど……」
マタニティーウェアというのだろうか、昔ながらの妊婦さんルックのマキ。今はもっと洒落たのもあるんじゃないか、と先日言うと「妊婦なんて一生に何度もなれないんだから、いかにも妊婦って方がいいのよ」と笑っていた。そろそろ新しいものが欲しくなる頃かもしれない。そう思ってデパートかと訊いたらばつの悪そうな表情を浮かべた。
「行く途中にあるから一緒に来てくれない?」
「ん?」
「教室よ」
今までずっと誘いを断ってきたヨガ教室。なんだか騙されたみたいだが、ここで文句を言い出すと泥沼になる。ああいいよ、と努めて何気なく返事をした。昨晩、コケモモにメールを返そうとしたことへの罪悪感もある。罪滅ぼしではないが、無下に断れなかった。俺の本音が分かっているのだろう、マキは深々と頭を下げて「ありがとう」と言った。
そのヨガ教室は古びた雑居ビルの三階に入っていた。エレベーターから入口までの廊下には、数多くの写真が展示されている。その中の一枚に太った老婆が微笑んでいる写真があった。「室長・グレース館野」というプレート。それを眺めていると「今日はグレース先生がいる日なのよ」とマキが言う。
ドアを開けると、もう何人かの生徒が練習、というのだろうか講師らしき女性の説明を体育座りで聞いていた。見渡したところ男は俺一人しかいない。
「大丈夫よ、旦那さんと一緒に来てる人って結構多いんだから、変じゃないって」
そう力説していたマキに文句を言おうとした瞬間、インドの民族衣装で上下ばっちりキメた老婆が満面の笑顔で近付いてきた。間違いない。絶対グレースだ。あらあらこんにちは、と笑う彼女の声は甲高かった。
「あら、こちらがお父様ですのねえ。どうもどうもどうも、私、室長をしております、グレース館野と申します」
どうも家内がいつもお世話になってます、と頭を下げた俺を温かな目で見守ってからグレースは喋り始めた。
「私たちはヨガを通して、この大きな地球に貢献をさせていただいているのです。今この瞬間も、お母様の身体の中で新しい命が育まれているこの素晴らしい現実。ね、この素晴らしい現実をより安全にお父様お母様方へお届けしたい。その一心で今まで数多くのお母様たちとヨガを共有してまいりました」
甲高い声で淀みなく喋るグレースは俺を苛立たせた。マキはニコニコして話を聞いている。室内には輪郭のはっきりしない音楽が流れていた。何というジャンルなのかは分からないが、時折女性の歌声のように聞こえる瞬間がある。
「人間と人間が付き合っていくうえで、何よりも欠かせないもの。お父様、お分かりになりますか?」
クイズまで出すのかよ、という気持ちを押し殺しながら「うーん」と考える振りをする。不正解ならすぐ浮かぶ。金、愛想笑い、ひとりの時間。もちろん口には出さない。
「あまりにも当たり前すぎて、逆に難しく感じられるかもしれません。それは、会話なのです」
ちっとも面白くない。つまらないことを堂々と話せるその鈍さを、今まで指摘する人はいなかったようだ。意味のない会話ばかり繰り返して生きてきたんだろう。
「今、お母様の中にいる新しい命も、会話によってより豊かな魂を育んでいけるのです。お母様は毎日新しい命と会話をしていますでしょ?」
微笑みのレベルを一段階アップして、グレースは俺の顔を覗き込む。
「あ、はい」
間抜けな声で返事をして手にいやな汗を感じた。妙に生ぬるい空調のせいだけではない。やっぱり来るんじゃなかったと、俺は後悔し始めていた。
「本当に私は声を大にして言いたいんですけどね、会話をすることによって新しい命は、お腹の中で情緒を豊かに保てますし、お母様も母たる自覚というものを早い時期から持つことが出来るわけです。お父様はいかがですか? 毎日新しい命と会話をしてらっしゃいますか?」
答えあぐねている俺を見て「主人は照れてしまうんですよ」とマキが言い添える。外での呼び方は「主人」なのか。さっきからグレースには「お父様」と呼ばれている。面倒くせえな。俺は俺、お父様なんかじゃない。まだ何の準備もできちゃいないんだ。
「分かりますわ。ね、初めは本当に恥ずかしいですよね。私も昔はそうでした。でもお父様、あなたが産まれてくる時もあなたのお母様はきっとお腹の中の新しい命、つまりあなたと会話をしていらっしゃったと思いますよ。もうそれは原始時代からずっとずっと変わらない習性なんですよ」
思いっきりデカい音でスピーディーなジャズを聴きたかった。こんな輪郭のはっきりしない音楽はまっぴらだ。テンポの速い乱暴なジャズを聴いてもグレースは興奮しないだろう。何が原始時代だ、適当なこと言いやがって。今日はレッスンだったのかしら、というグレースに「主人にどんな所なのか見てもらおうかと思って」とマキが答えている。
「あらそうですか、ではお父様、ごゆっくりご覧になっていって下さいね」
俺はグレースに頭を下げながら密かに毒づいていた。黙れデブ、じゃあお前の子どもがどれほど立派か見せてみろ。俺はお前みたいなのが母親だったら、百発百中、道を踏み外してたぞ。
とびきりの笑顔でグレースが遠ざかっていく。手の中の汗を感じながら俺もどうにか笑顔をつくった。マキは自然な笑顔で頭を下げている。
こいつは「お母様」なんかじゃないぞグレース、こいつは俺のオンナだ。
(第10回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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