妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
その日も昼過ぎから喫茶店に顔を出し、一時間ばかり話をした。母親はマキの身体の具合を心配して、何度も同じ質問を繰り返す。煙草はもう吸ってないのか、軽い運動はちゃんとしているのか、仕事はまだやめていないのか、等々。店が暇だと大変だな、と父親にそっと愚痴ると静かに苦笑いをしていた。
隅っこの席でアイスコーヒーを飲む。俺は昔から熱いコーヒーが苦手だ。こんなことで喫茶店の店長が務まるのかな。さして深刻に考えもせずストローで吸い上げたコーヒーを口の中で弄んでいると、笑い声と共に一団が入ってきた。常連様のお出ましだ。見た感じ、全員六十代後半から七十代前半。内訳は男性四名、女性二名。迷いなくいつもの大テーブルに陣取ると同時に、カウンターの中の父親が動き始めた。誰も注文をしていないし、これからする気配もない。テーブル同様「いつもの」メニューがあるのだろう。確かにチェーン店のコーヒー屋だと、こうはいかないかもしれない。
会話の内容は、近所の病院の情報交換や親戚の悪口等々。それでいい、と次期店長候補は隅っこで密かに頷く。店に通ってもらう為には他愛のない話でないと困る。重要な話は一度話せばそれで終わり。何度も繰り返したりはしないが、他愛のない話は無限にループ可能。何度でも喫茶店に集って喋れる。
簡単な計算をしてみた。マキのお腹の子が成人するまで二十年。七〇歳+二〇年=九〇歳。それまであの常連様御一行が元気でいるとは考えづらい。代替わりをしてくれれば有難いが、飲み屋ならまだしも喫茶店でそんな話は聞いたことがない。様々な店でよく見かける、「お友達紹介で素敵なプレゼント」の意味が生々しく理解できた。
常連様の会話を聞きながら、壁に貼られたカレンダーと窓の外を交互に見る。咲き誇る桜のカレンダーは毎年保険会社から貰うらしい。コケモモと親しくなったのは保険会社が縁だった――なんて言ったら、あいつは驚くだろうな。物事が理解できない時の、首を傾げたしかめっ面が浮かぶ。もちろん本人ではなく似ている女優の顔だが何の問題もない。
「何それ」
片言のようなイントネーション。この声はコケモモ本人の声、だと思う。あまり自信はないが、顔よりも声の方が残っている。
あの日も俺は大学の食堂でカレーを食べていた。どれにしようかと悩むのが面倒くさいから、学食ではカレーしか食べなかった。とは言っても、学食を使うのは週に一、二回。行く時はいつもコケモモが一緒だった。
大学に入って数ヶ月が経ち、「付属校あがり」「同じサークル所属」「存在感が薄い同士」など、幾つかのグループが出来始めた頃、俺はそこからあぶれている何人かと仲良くなった。強いて命名するなら「余り者」だろうか。コケモモも「余り者」のひとりで、京都から上京したばかりと言いつつ、訛りのまったくない標準語を話していた。
「ねえねえ、公共料金って優先順位あんだよね?」
「なんだよ、全部払ってないのか?」
「いや、来月きつそうだからパスしたいんだ」
「パスって、結局払うんだろ?」
「そりゃそうだね」
そうやっていつものようにダラダラ喋っている時、俺はふと気付いてしまった。コケモモは似ている。数日前に借りてきたアダルトDVDの女優に、特に目の辺りが似ている。何度かお世話になったその作品は、保険外交員の女が契約欲しさに客と……というありがちな内容だった。無論別人であることは間違いないが、似ているという発見は俺の内側に変化をもたらした。ドミノが倒れるように、パタパタとコケモモの印象が塗り替わっていく。もう覚えていないが、多分カレーを食べ終わった後、俺はいつもより丹念に口の周りを拭っていたはずだ。
かくして一ヶ月後、俺とコケモモは恋人同士になった。クリスマス直前の浮かれた夜の池袋で、告白しようと口を開いた瞬間、「いいよ、付き合おう」とあいつは微笑んだ。呆気にとられた俺の顔を両手で挟み、「幸せにすんだぞ」と右眉を上げた百五十三センチ。最初から俺はリードされていた。
「余り者」の連中は、そういうことに過剰な反応を示さないから心地がいい。池袋の夜から結局五年と少し、大学を出た後もその関係は続いた。コケモモ、というあだ名の由来は本名の「百恵」からだろうが、誰が付けたかは記憶にない。付き合う前から「コケモモ」と呼ばれていたし、付き合ってからも俺はそう呼んでいた。
「今日、コケモモの家に泊まればいいじゃん」
「コケモモ、暗記物って昔から苦手なんだけど」
「ねえねえ、コケモモ、したくなっちゃった」
こんな具合に自分でも呼んでいた。間違いない。声の方が顔より残っている。
わざと頭の悪そうな素振りをしているくせに、何かの弾みで素に戻る。そんな瞬間が多かった。こうしてアイスコーヒーを飲みながら頭に浮かぶのは、同じような場面ばかりで起承転結などなく、ふと時間の流れを忘れてしまいそうになる。
「あ、あとねえ、マキさんに……」
こうして母親が目の前に座らなければ、まだ何時間もぼんやりしていたかもしれない。また明日聞くよ、と慌てた素振りで立ち上がる。
「何言ってんのよ。ちゃんと聞きなさい」
「もうこれ以上覚えらんないからさ。じゃ、また明日ね。コーヒー、ごちそうさま!」
まだ何か言い足りない表情の母親に、大袈裟に手を振り外に出ると夕方前。両国駅に向かう道すがら、スマホを見るとマキからメールが入っていた。仕事が終わった後に、同僚と外食をしてくるらしい。じゃあどこかで食べていくか、と呟いてみたが。ひとりで外食をするのはどうも苦手だ。酒なら平気だが食事はどうもダメ。落ち着かないまま急かされるように食べ、あたふたと店を出るのがオチだ。
ちょっと早い時間だが誰か呼び出そうか。コケモモを思い出したついでに、「余り者」の連中と会ってみるのも悪くない。何人かに連絡をしてみる。やっぱりなかなかつかまらない。当然、仕事中だ。こういう瞬間に、俺は二十九歳だと思い知る。
みんな大人になっちゃった、とデタラメな歌を口ずさみながら、駅のホームのベンチに座る。決して褒められた立場でないことは承知しているが、どこかでこんなもんだと思っている。「俺が」こんなもんだ、ではない。「人生は」こんなもんだ、という感じ。
目の前に電車が滑り込んできた。老人のようにゆっくりと立ち上がり、のろのろと歩いてから乗り込む。そろそろ混み始めた車内、制服を着た女の子たちが内緒話をして笑っている。上等そうな黒革のランドセル。どこかの私立小学校だろう。進級、おめでとう。お祝い代わりにひとつ、教えてあげよう。
お嬢ちゃんたち、「人生は」こんなもんだぜ、「人生は」俺みたいに緩んでるヤツだって、それなりに楽しめるんだ――。
夕陽が車内に挿し込み、その眩しさに女の子たちがきゃっと歓声をあげた。一番背の高い子が慌てて皆をたしなめる。
電車を乗り換える新宿に着いたが、何となく降りる気になれなかった。たくさんの人が降りて行き、たくさんの人が乗って来る。黒革のランドセルの女の子たちは全員降りたようだ。特にあてはないが、電車は三鷹方面へと走り続けている。まあいいや、と首をゆっくり回してみた。中野、高円寺、阿佐ヶ谷辺りなら、呑み屋には困らないだろう。
結局高円寺で二軒立ち寄り、家に帰ったのは十時過ぎだった。一軒目は立呑み屋。とりあえずアルコールを入れたかったので、目についた店に飛び込んで瓶ビールとポテトサラダを頼んだ。よく知らない街で初めての店に入るのは少し気が重い。色々と勝手が分からないからだ。ただそんな軽いストレスを抱えながら、一人で酒を飲むのは嫌いではない。だから大瓶を二本も飲んでしまった。
二軒目は街を三、四十分散策した後で入った。高円寺は駅の南北両方ともに飲食店が溢れている。ドアが開けっ放しで店内の様子が分かったから、という理由で古びた食堂を選んだ。駅から少し離れているのに、広めの店内は半分ほど埋まっている。これなら入りやすい。多すぎるメニューの中から選んだのは、レモンサワーとメンチカツ。エプロン姿のおばちゃん店員に告げると、小皿に入った柿の種を「これ、サービスね」と出してくれた。レトロな店で食う揚げ物は旨い。この食堂も例外ではなく、キャベツの千切りが添えられたメンチカツは旨かった。ただ、一番の酒の肴は周りの客だ。置いてあった一週間前の週刊誌に目を通しながら、ずっと他の席の様子を観察していた。
どんな仕事をしているんだろうか? 妻子持ちなんだろうか? 誰かが来るのを待っているんだろうか? いつもああやって一人で酒を飲んでいるんだろうか?
どんどん想像が膨らむので、目は文字を追っているのに週刊誌の内容はあまり頭に入ってこない。店の回転は早く、客が帰ればすぐに新しく入ってくる。半分から七割と席も埋まってきた。喫茶店だとこうはいかないな――。そんな考えがよぎり始めたので、二杯目は頼まずに勘定を済ませた。あのまま飲んでいたら悪酔いしただろう。
空きっ腹でビールを飲んだせいか、気付けばいささか酔っ払っていた。酔い覚ましになればと、ひとつ前の駅で降りる。にもかかわらず改札を出たところで立ち止まったのは、もう一軒寄ろうかなと迷ったからだ。ちっぽけな逡巡。我ながら往生際が悪い。
家とは逆方向に馴染みの店がある。そういえば女房の妊娠をまだ報告していなかったじゃないか。じゃあ一杯だけ、と片足を踏み出す。でも、もう一歩が重かった。せっかく踏み出した足を引き戻し、真っ直ぐ帰った理由はよく分からない。ただ何となく、酔っ払って報告をするのはいけない気がした。
家のドアを開けると部屋の電気は消えたまま。マキはまだ帰っていない。冷蔵庫からお茶を取り出し、口にふくんでうがいをする。ついでに顔を洗ったが、いつもの場所にタオルがなかった。探している途中、見慣れないものが目に入る。テーブルの上に無造作に置かれたそれは手帳だった。
――母子手帳。
マキは一度家に戻ったのだろうか。今朝の時点では置いていなかったはずだ。どんな物なのか見たかったが、勝手に触ってはまずいかなと、伸ばした手を引っ込める。手持ち無沙汰をごまかすように冷蔵庫からハイネケンを取り出した。一気に半分ほど飲んだ後、だらしなく椅子に座りテーブルに頬をくっつける。ひんやりして気持ちがいい。溜息をついて目を閉じたまま、右手で飲み終わった缶をベコベコいわせている。シャワー浴びて寝なくちゃ、と思いながらも動きたくない。母子手帳を貰ってきた夜に旦那がテーブルに突っ伏している妻の気持ちを考えたが、やはり動きたくなかった。このまま寝ちゃおうかな。
瞬間、ガチャリと玄関を開ける音がしたので思わず上体を起こす。もう帰ってたんだあ、と高い声。どうやらご機嫌らしい。
「バイキングっていうから期待はしてなかったんだけど案外美味しいのよねえ。最近は食べ放題っていってもバカにできないんだね。知ってた? 女性だけのグループは安くなるんだよ。あとね、帰りによさそうなバーがあったから軽く寄ってきちゃったあ」
着替えながらの報告を聞いてはいるが内容はよく分からない。ハイネケンをもう一本出す。Tシャツと短パンに着替えたマキが「ちょっとちょうだい」と缶を取り上げた。その上機嫌に便乗し「これって」と母子手帳を目で示すと、「あ、それ、今日貰ってきたの」と説明を始める。やはり一度帰ってきたらしい。
「意外と面倒でね、病院で証明書を貰って区役所に行くんだよ? てっきり病院でくれると思ってたら違うのね。他にもなんか色々とくれたんだあ」
テーブルで向かい合っているマキの話を聞きながら、煙草を吸いたいと思ったがこういう話の時に不謹慎だろうと思ってやめた。さっき母子手帳に触れることが出来なかったあの感じと似ている。ハイネケンを飲み込まず、口の中に留めておく。
「私はもっと早く貰えるかと思ってたんだけどさ、あまり早い時期だと流産の危険性があるからダメなんだって。たしかに流産した後、この手帳だけ残ってるのは辛いもんねえ」
昔、小学生の頃に母親から自分の母子手帳を見せてもらった記憶がある。たしか社会の授業の宿題だった。マキのお腹の子も、そんな風にこの母子手帳を見せてもらうのだろうか。電車の中にいた私立小学校の女の子たちの姿が浮かぶ。
「タイジのシンオンがカクニンできないとダメなんだって、でもまだジッカンわかないのよねぇ」
徐々に眠気が増してきてマキの声が遠くなっていく。それに気付いたのか気付いていないのか、そろそろ寝ようかとマキが言ってくれた。でもベッドに入ると今まで眠たかったのが嘘みたいに目が冴えてきて、横たわっているのがたまらなく退屈に感じる。マキは隣りですぐに寝息をたてはじめた。
こっちを向いている寝顔は、妊娠する前と何も変わっていないように見える。あと一ヶ月、二ヶ月と経つうちにこの寝顔は変わってくるのだろうか。もし変わるとしたら、母親らしい顔に変わるのだろうか。本当に変わるのかどうかも、母親らしい顔というのがどういう顔なのかも分からないが、俺の顔はきっと変わらずにこのままだろうと思った。
(第03回 了)
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