世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十六、儲け話
起きた瞬間にまだ夜だと分かった。何となく感じる店の外の雰囲気とか、身体のなまり具合とか、細かな理由は幾つでも挙げられるが、とにかくこれは安藤さんに尽きる。うつ伏せの俺の下で、半端に足を広げたまま女が全裸で眠っているなら、まだ夜に決まっている。こんな体勢のまま朝まで眠れるもんか。
そこの机で立ちながら後ろからしていたのは覚えているけど、どうやってこの体勢にもつれ込んだかは謎だ。確かめると安藤さんの背中が床と同じくらい冷たい。一度起こさないと具合を悪くするだろう。
「起きれる? おーい、起きれるか?」
まるで聞こえていないみたいだったのに、眉間にすっと一本皺が入ってから顔が歪むまでは早かった。ぐうう、とあの時みたいな声で唸ってからすぐに目を開ける。
「あ、寝ちゃったんですねえ」
「うん、ごめん」
なに謝ってんですか、と言いながら弾みをつけて上体を起こし、キョロキョロしながら下着を探し始める。俺も真似して何とかヒトらしい姿に戻り、これからの過ごし方をヒトらしく考えてみる。ちなみに時間は午前一時過ぎ。惜しい。ついさっき、終電は終わっちまった。
「私、明日早いんですよね、仕事」
「ん? 早いって普段より?」
「はい。さっき奥さんから店のレイアウトとか、変えたかったら変えていいよって言われたんですよね」
「そうなんだ」
「多分、店長への復讐みたいな感じなんですかね。でも別れないと思うけど」
セラピストが考える復讐はどことなく陰湿だ。そして安藤さんが乗り気なのは意外だ。
「居残ってやるつもりだったんですけどねえ」
「え?」
「冗談ですよ。元々、明日早く来てやるつもりでした。だって奥さん、何時に来るか分からないし」
じゃあ帰ろうか、と促した俺の何かが面白かったらしく、安藤さんは笑いながら「はい、そうしましょう」と支度を整えた。さっきまで野蛮な格好だったくせに、あっという間に化けやがる。アプリでタクシーを呼びながら「どうするんですか?」と訊くから、何となく当てがあると嘘をついた。
「なんかアレみたいですよね」
「アレ?」
「ラブホからこそこそ出てくる訳ありカップル」
反応に困っているとまた笑われた。理由は分からないが、笑顔に越したことはない。
「いいですね。こういう時に笑う人、苦手なんで」
そう言って安藤さんは駆け出した。取り残された俺は、当てがあるような感じでとりあえず踏み出してみる。もちろん足腰はガクガクでボロボロだ。
何も考えずにとりあえず下北を目指しながら、スマホを確認したが相変わらず坊主、ゼロ件。ふとナオの顔が浮かんだが、シャワーに入っていないから電話をするのはやめておく。汗臭いだけではなく、その汗を嗅がれた後だ。限りなく最悪に近いタイミングじゃないか。
どこか知らない店で一、二杯呑んでから帰りたい。そんな感じ。歩き慣れたこの通りには、長い間知らないままの店が数軒ポツポツとある。もしいつか立ち寄るとするなら、それはこういう夜かもしれない。洒落た中華料理、建物の三階にあるバー、喫茶店……。結局どれも気乗りしないので却下した。今、内側には電話をかけなかった感触と、店に入らなかった感触が残っている。朝からあんなに動いたくせにまた、道を適当に曲がってみたのはそのせいかもしれない。
たしかに色々と運動はしたが、その分二度も眠ったからガクガクでボロボロだけど前には進めてしまう。身体が健康なボケ老人っていうのが一番厄介なんだよなあ、と言っていたのは安太だ。その時も納得したけれど、今はそれを越えて実感している。二度も眠ってなければ、これ以上歩こうとはしないんだけどなあ。厄介だ。しかも、そんなことを思い出したせいで、周辺の記憶もコロンと落ちてくる。
――今頃、安太は駒場のコンビニでバイト中。
そして、ここからは歩いて三十分くらい、か。行けるな、と思ってしまった。本当、厄介だ。
わざわざスマホで道すがらのコンビニを調べて、度数が高めの缶チューハイ、しかもロング缶を空きっ腹に入れた。安太が働いていたとしても、話しかけたりはしないと思う。この間の深夜のノックのお返し、と言いたいところだが、それよりも前に俺の方が訪ねていったんだ。でも元はと言えば冴子が……、と記憶をめくり返しているうちに着いてしまった。
大きなマンションの一階にある安太の職場はあまり大きくなく、レジの位置が分からないから、前を通り過ぎるのも躊躇してしまう。だから通りを挟んだ向かい側の道を、さっきから何となくダラダラと歩いている。当然安太の姿は見えない。いるのかいないのかも分からない。無意味だ。でも来て良かったと思っている。白いジャージをだらしなく着崩した、金髪の若い男が店から出て来るなりプシュッと缶を開けた。ここからではよく見えないけど、きっとさっき俺が飲んでいたような度数が高めの缶チューハイで、彼もこれから勇気を振り絞るんだろう。
タクシーを降りて「三千円からお釣りが来るのか」と思ったことは覚えている。でもそこまでだ。どうやって着替えを出して、シャワーを浴びて、眠ったのかは覚えていない。錆びた踏切の音で目を覚ますと足腰はまだガクガクでボロボロのまま。昨日の過剰な運動量をしばらく悔やんでいたが、どうやらそうではないらしい。ガクガクでボロボロというより、節々と喉が痛く、眼球の奥が重い。どうやら運動のし過ぎではなく、バックヤードで全裸で寝ていたのが原因みたいだ。
体温計は無いけれど悪い予感がしたから、ナオに助けを求めるメッセージを残してから目を閉じた。もうシャワーを浴びたから、いつ来てもらっても構わない。いや、なるべく早くお願いできれば……。
無論そんな都合の良い話は通らない。神様はいないかもしれないが、都合のいい奴は痛い目を見る。そんな夢を見た。ひとつではなくオムニバス。短いヤツがいくつもあって、もしかしたら同じヤツを何度も見せられたかもしれない。次に目覚めた時、俺はひとりで汗まみれになっていた。
時間はそんなに経っていなかったが、この調子では到底働けない。今頃店のレイアウトを変えているはずの安藤さんに電話をする。出なかったので「ごめん、今日休みます」とだけメッセージを残してもう一眠り。シャワーで汗も流したいし、腹だって減っていたが、とにかくダルくて寝返りを一度打つだけで精一杯だった。
脇の辺りに冷たさを感じて「おお」と声が出る。やっと起きた、とナオの声がして今度はおでこに冷たさを感じた。貼るタイプの冷却シートだ。
「買ってきてくれたのか?」
「一度来て、何もないから買ってきた。声はかけたんだけど、全然起きないから」
「ありがとう」
こんなことになった理由をちっとも訊いてこないので、熱が三十八度ちょうどの俺から話す羽目になった。当然バックヤードの方ではなく、駒場のコンビニの一件だけど、それはそれで変な照れ臭さがある。
「偉いじゃん」そう言ってナオは褒めてくれた。「いいと思う。立派立派」
「偉いか?」
「ヘンショクは良くないからね」
「ヘンショク?」
「好き嫌いよ。偏った食事。なんでも食べないと、身体良くなんないよ」
駒場に行ったりしたからこうなったんじゃないのか、という軽口は言わないでおいた。いくつか買ってきたというパックのお粥を食べてから市販薬を飲む。喉痛い? という問いかけには素直に頷いた。
「その薬さ、一応喉にも効くって書いてあるけど、少し様子見ててね」
「分かった」
「あと、これからデパートに寄って、それから病院に挨拶しに行かなきゃいけないのよ」
「あ、退院したのか? お父さん」
「うん、何だかんだで延長して、ようやく今日これからね。だから悪いんだけど、夜はちょっと来れなそう」
大丈夫だよ、と答えると「その代わりって訳じゃないんだけどね」と枕元にやって来た。
「面白い話、聞いたのよ」
自分で面白いという話に期待はしないが、それは意外と興味深い話だった。先日、ユリシーズを彫ってくれた鶏蜥蜴のノダさんの蕎麦屋に行った時のことだという。
「ほら、診てもらった占い師の先生、いたでしょ? 心の中が読めるって言ってた……」
「ああ、寛十郎」
「そうそう。女性だよね? あれ、元男性? ま、その人がね、予言したらしいのよ」
予言なんて大仰な言葉でも、寛十郎なら持て余さない。診てもらった俺には分かる。
「それによるとね、近いうち疫病が大流行するんだって」
「エキビョウ?」
「病気よ病気。ペストとかマラリアとか、あと何? ああエイズとかそういうの」
言っていることは理解できたつもりだが、うまくイメージはできなかった。「それを防げるって話か?」と尋ねてみる。
「ううん、疫病って多分防げないんじゃないかなあ。そうじゃなくて、そういう時に儲かる業界とか企業があるでしょ?」
「ああ、なるほど。そういうことか」
そこまで聞けば俺にも分かる。つまり株を買ったりしよう、という所謂儲け話だ。よくありがちな話だが、少し寛十郎らしくない。そう尋ねると、儲け話はその予言を聞いた鶏蜥蜴のアイデアだという。
「で、どうするんだ?」
「今すぐどうこうじゃないんだけどね、当たりそうかな? その占い師」
うん、と答えたのは体調が悪いからではない。寛十郎には多分何かの能力がある。
「そっか。じゃあ乗ってみようかなあ」
今、鶏蜥蜴は寛十郎に頼んで、もう少し具体的に占ってもらっているという。あまり利口な話には思えないが、体調が悪い俺にとっては面白い話だ。
「たとえばさ、このメーカーの株が上がるって占いで出たらどうする? 買う?」
買うよ、と即答すると、自分から訊いたくせにナオは不思議そうな顔をした。
ナオ自身に会ったからか、それともナオが買って来てくれた市販薬の効果か、二つ目のお粥を食べて一眠りした後は、ずいぶんと身体も楽になっていた。また身体がきつくなる前に、と返事がない安藤さんに連絡をしてみる。店長の奥さんがいるかもしれないので、使うのは店の電話だ。
「はい、もしもし、『フォー・シーズン』です」
「もしもし安藤さん? 俺だけど。ごめんね、今日休んで。今話せる?」
「うん、私だけなんで大丈夫です。お客さんもいないですねえ。っていうか、風邪ひいちゃいました?」
「うん、ちょっとね。具合悪くない?」
「起こしてもらったんで大丈夫です。あのままずっと寝てたらヤバかったです。ありがとうございました」
どういたしまして、と答えると「あ、私からかけ直しますね」と電話は切れた。数秒後にかかって来たのはスマホのビデオ通話。もちろん「断る」という選択肢はない。画面に映った安藤さんは、にこやかな笑顔で手を振っていた。レイアウトの変更はまだ半分も終わっていないと立ち上がり、店の中をぐるりと撮影して見せてくれる。
「こうした方がいいっていう、アイデアとかリクエストとかありますか?」
「いやあ、特には……」
「あ、すいません。具合悪くて寝てる時にする質問じゃないですよね」
「うん、頭が回ってないからね。明日には行けると思うから、ちゃんと手伝います」
ありがとうございます、と無邪気に笑った後、「いけない、すっかり忘れてました」と五十嵐先生から電話があったことを教えてくれた。伝言を頼まれたという「子どもたちが来る日時の候補」を聞きながら、予定が合ったら手伝って欲しいと頼むと明るく引き受けてくれた。
「じゃあ、お客さんが来るまで、少しレイアウトのことやっちゃいます」
「うん、明日はきっと行けるんで」
「はい。無理はしないでくださいね。あ、そうだ。面白い話、聞いたんですよ」
デジャヴだ、と思いながら促してみる。自分で面白いという話を、一日に二回聞くとは思わなかった。まさかさっきの会話を聞いていた訳ではないだろうけど……。
「トウコさん、いるじゃないですか。ここにも来たことのある、私の先輩の」
最近やっている時に君が呼ばなくなったトウコさんね、とは言わなかった。うんうん、と頷いてみせる。
「何か突然、カナダに行っちゃったんですよ」
「カナダって、外国のカナダ?」
「はい、そのカナダです。この間突然電話がきて、何かと思ったらそんな話で。とにかく驚いたんですけど、それ以上に行った理由がびっくりで」
「何?」
「仲のいい中国人の占い師に言われたらしいんですよ。近いうちに新しい病気が世界中で流行するから、もっと良い場所に行かないとダメって」
画面の中の安藤さんの顔を見る。さすがにスマホの画面では小さすぎるが、別にからかっている感じではない。
「良い場所って何だろう?」
「うーん、言葉の通りなんですかねえ。本当、心配になるくらいに話が見えなくて」
「その病気ってさ、たとえばペストとかマラリアとかみたいなヤツ?」
「で、いいと思います。エイズみたいなの、ってトウコさんは言ってましたけど」
寝ながら相槌を打ちつつ、さっきナオが言っていた儲け話を思い出している。もしかしたらあの話、本格的に乗ってみてもいいかもしれないな――。
(第46回 了)
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