詩人ミハイ・エミネスク(1850~1889)はルーマニアで詩聖とたたえられている。新聞記者として1878年のオスマントルコからのルーマニア独立に寄与し、ルーマニア語で優れた詩を書いた。その代表作『明星』は今でも広くルーマニアやモルドバ共和国で読まれている。翻訳は能楽研究者で小説家、演劇批評家のラモーナ ツァラヌさん。
by 文学金魚編集部
「ルーマニアを代表する詩」について聞かれたら、ルーマニア人の多くはすぐに『明星』(“Luceafarul”)を思い浮かべるだろう。個人的な好みはともかく、ルーマニア文学の中から詩を一つだけ選ぶとすれば、ほとんどの人はまずこの詩を挙げるに違いない。日本では夏目漱石の『坊ちゃん』のように基礎教育の科目に必ず登場するほかに、ひと昔前までは高校の卒業試験に向けて暗記させられることもあった。
しかし『明星』の内容について学校のテストで小論を書かせられたから記憶に残ったというよりも、歌のようなその一行一行があまりにも覚えやすくて、子どもの頃の遊びの歌のように、自然に心にこびりついたと認める人もいるかもしれない。
一行の音節数は8か7くらいで短い。それに言葉の中の語強勢が自然に弱強調になっている。それはつまり、一定のリズムで流れる歌のような詩である。言葉が次の言葉を呼び起こし、ルーマニア語に眠っているようなリズムが自然に表に出ているような特徴がある。学校を出て社会人になっても、たまに『明星』の一節がふと意識をよぎることがある。最初と最後のスタンザは特に、よく記憶によみがえるのだ。昔どこかで聴いた歌のように。
『明星』は詩人ミハイ・エミネスク(1850~1889)の作品である。エミネスクはルーマニアでも、モルドバ共和国でも「国民の詩人」であり、彼の誕生日(1月15日)はルーマニアの文化の日なのだ。
「明星」とは、夜空のもっとも輝かしい星のこと。ルーマニア語では「ルチャファル」という。語源はラテン語の「ルチェ」(”光”)。ルチャファルと聞いて、天使の「ルシファー」を思い浮かべる方もいるだろう。エミネスクの明星も天使に変身したり、悪魔に変身したりするので、その連想は妥当と言えよう。同一人物ではないにせよ、名前の語源は同じで、「もっとも輝かしい」「光を生じさせるもの」という意味の名前だ。
しかし『明星』がどうして「ルーマニアの代表的な詩」になったかについて、すぐに答えられる人があまり多くないかもしれない。『明星』以降も、素晴らしい詩の傑作がほかにもたくさん生まれてきたし、1980年以来の現代詩の中には今のルーマニア人の感性により近い作品もあり、どうして140年前に生まれた詩がまず挙げられるのか?…
そしてテーマから見ても、「ルーマニアの代表的な詩」としては我々の国の美しい山林と河川などを賛美するような歌のほうがよかったのでは? あるいは、ルーマニアという国の波乱に満ちた歴史を語る詩とか? 『明星』の作者エミネスクには歴史をテーマにした優れた詩もあるのに、どうしてそちらのほうが「代表的」だと思われないのか?
どうして天に輝く星と人間の女性の恋愛物語を描いたこの詩なのか? どうして人間の命と永遠が対比になっているのか? どうして宇宙生成の話が出てくるのか? そしてあの偉そうで意地悪な宇宙の創始者はいったい誰だ!? 優しさにあふれるキリスト教の神様ではないね、と――よく考えれば、疑問が次々と出てくるかもしれない。学校で確かそのあたりの話を聞いたはずなのだが、意識の奥底に埋もれて、聞かれてもすぐには答えが出ないかもしれない。
『明星』の意味について論じる上では、この作品が生まれた時代のルーマニア、そしてミハイ・エミネスクという詩人の話ををする必要がある。
『明星』が発表されたのは1883年。当時のルーマニアは実は、生まれたての国だった。1866年から憲法を持って「ルーマニア」という国が存在していたが、実質上はオスマン帝国に含まれていた領域だった。約一年間に及ぶ戦争の後、1878年にオスマン帝国から独立を得て、1881年に西洋ヨーロッパの各国にも「王国」として認められた。
1860年代までに「ルーマニア人」が存在していなかったわけではない。「ルーマニア語」を話す人たちがその土地に何百年前からいたのだが、周りの大きな帝国に呑み込まれていたばらばらの地域に住んでいたのだ。1848年以降から、ルーマニア人が人口の大半をおさめていた地域を一つの国にまとめようとする政治的な動きが勢いを増していた。
エミネスク自身は、当時オスマン帝国の領域で、ロシア帝国の保護の下にあったモルダヴィア公国で1850年に生まれた。しかし基礎教育は、小学校の最初の2年を除いて、オーストリア帝国の領域になっていた元モルダヴィア公国の地域ブコヴィーナ地方のチェルニウツィー市で受けた。チェルニウツィーにはルーマニア人のコミュニティがあり、学校ではドイツ語とルーマニア語で教育を受けるができた。チェルニウツィーの学校で出会ったトランシルヴァニア出身のルーマニア語の先生アロン・プムヌル(1818~1866)に強い影響を受けた少年ミハイは、各地にいるルーマニア人の事情に関心を持ち、1866年にトランシルヴァニアに留学の目的で移住した。
しかし一年も経たないうちに現地の知人の推薦でブカレストに渡り、1869年までは演劇団体の製作スタッフとして働きながら、劇団の公演ツアーでルーマニア人が住む各地域を巡った。トランシルヴァニア、ムンテニア(ルーマニアの南部)、モルダヴィア、ブコヴィーナなど、各地に住むルーマニア人に会うことで、みんなが同じ夢を抱いていることを確信した。それは、ルーマニア人がみんな同じ国で、他国の政権からは自由になって生きるという夢だった。エミネスクは当時はすでに定期的に詩を文学雑誌で発表し、小説や戯曲も書いていた。
1869年からウィーン大学に通いはじめ、哲学部と法律部に属しながら、幅広く色々な授業を履修した。1872年に金銭的な理由でウィーン大学を辞め、同年の冬から奨学金をもらってベルリン大学に転入。大学院にまで進むようにルーマニアの教育庁から奨学金をもらうようになっていたが、家族の不幸のため1874年にやむを得ず帰国。2年間ほどルーマニア北部の主な都市だったヤシで中央図書館や教育関係、新聞などで仕事を転々した。学生の頃からルーマニアの民族物語や伝説、民謡や詩などに関心を持っていたため、ヤシ市の中央図書館で務めていた頃、古くから伝わるルーマニア語の物語を集めるようになった。民謡のリズムやルーマニアの古い物語に見られる世界観が、エミネスクの詩の根本にあるとよく言われているのも、詩人がこのような書を読むのにも集めるのにも熱心だったからだと思われる。
1877年から1883年まではブカレストの新聞「ティンプル(”時代”)」の編集者(1880年から編集長)として務めた。1年間の戦争を経て1878年ルーマニアが独立を得、1881年に王国として認められた時代で、政治をめぐる記事を発表し続けていたエミネスクにはとても刺激的な時代だった。仕事と同時に詩を雑誌や文学サロンで発表し続け、詩人として注目を集めていた。しかし傑作の『明星』が発表された1883年、エミネスクは精神病が発病し、国内外の治療施設に入院した。詩は書き続け、一時的に仕事も復帰したが、病気が深刻になる一方だった。1889年にブカレストで亡くなり、ベル霊園に埋葬されている。
エミネスクは詩を中心に、数多くの作品を残した。詩で取り上げられているテーマは恋愛、自然、夢、物語や神話、そして歴史や政治などにも及ぶ。ドイツ語圏のロマン主義や哲学に大きな影響を受けた。当時のヨーロッパではロマン主義の時代は終わっていたが、過去を見直し、民族文化にインスピレーションを探るという姿勢が、ロマン主義の影響もあって、どんどん強まった。その結果、ルーマニア語の詩には、彼の時代までになかったような次元が加わり、この言語の詩の可能性が果てしなく広がった。ばらばらの地域に生活していたルーマニア人にとって「ルーマニア」という国に生きることが夢でしかなかった時代に、エミネスクの詩は彼らの心の拠りどころになっていたと言える。
国のない民族のアイデンティーはとても薄れやすいもので、歌や物語といったものに支えられている。150年や200年くらい前のルーマニア人にとっては特に辛かったのは、ずっと前に同じ国に住んでいたという「記憶」だ。その記憶が民謡や伝説、物語に暗号化されていた。そのような物語や伝説が残っているかぎり、ルーマニア人は自分たちの民族アイデンティティーを捨てきれない状態にあった。エミネスクはチェルニウツィーで過ごした少年時代からそれをよく理解していたようで、ずっとルーマニア語で詩や物語などを書き続けた。
『明星』も、『黄金の庭の娘』という古い物語に基づいている。エミネスクがこの物語に出会ったのは、ベルリン大学に通っていた1873~1874年の頃だ。ドイツ人の貴族がルーマニア南部を旅行中に見つけた物語が本になって、ベルリン大学の図書館にあった。エミネスクはこの物語を覚えて、1975年頃に詩にした。8年後に発表された『明星』は、『黄金の庭の娘』をもとにしながら、より簡素でより洗練された詩である。
もとの物語とは違って、『明星』では明星の存在と苦悩が中心になっている。この詩は、不死であり、神に近い存在である「明星」と、人間の世界に生まれた「高貴な娘」との恋愛物語を描いている。二人が惹かれ合うことによって、天界と人間の世界が一時的に限りなく近くなるが、詩の後半では、この二つの世界が対照的に描かれている。
『黄金の庭の娘』では、その高貴な娘の手を求め、明星のライバルになっているのは、同じく高貴で王族に生まれた正真正銘の英雄である。英雄は試練を乗り越えてからお姫様と結ばれるので、物語はどちらかというと、この二人を中心に進んでいる。しかし途中でその娘に惹かれた精霊が「明星」として登場し、娘を彼の世界へと連れ出そうとしている。この明星はどうやら、娘に差し出された誘惑で、彼女自身が自分の運命(英雄と結ばれて幸せになること)にたどり着くための試練なのだ。物語らしく、二人ともがより強くなって結ばれて、話はめでたしめでたしの雰囲気で終わる。最後には、人間の英雄に好きな娘を取られた明星も二人を祝福している。『黄金の庭の娘』は明星のこの言葉で終わる。
「幸せであれ――彼が悲しくささやいた、
あまりにも幸せで、同時に死ねないことが
お二人の一生で唯一の苦しみになるように」
『明星』のほうでは、明星の最後の言葉はより冷たく、人間、そして人間性を選んだ娘を避難するような言葉だ。『明星』では、人間の世界と明星が住む天界がより明確に分けられている。「永遠性」を象徴する明星との対比によって、人間が一生で体験できる短い間の幸運が強調されている。
ちなみに『黄金の庭の娘』にも『明星』にも登場する「宇宙の創始者」だが、ルーマニアの民族物語では、あのような意地悪な神様がよく出てくるものだ。多くの場合、旅の途中で色々な試練を乗り越えた英雄と一対一で話をしたり、悪魔と妙に仲が良かったりするような、キリスト教徒の目からはどう見てもわけの分からないような神様だ。ルーマニア民族の記憶も及ばないくらい古いルーツを持つこの神様は、ロマン主義の作品によく登場する「残酷な神」と重なり、そのイメージが『明星』のような詩にある「宇宙の創始者」に結合したと思われる。
『明星』は一見、恋愛の三角形の物語として読れがちだ。しかしこの読み方は女性主人公を巡る矛盾を内包している。詩の冒頭で「マリア様」にも比較される高貴な娘が、後半では初めて「カタリナ」という普通の名前で呼ばれており、彼女の「人間性」が強調されている。明星を魅了するほど「高貴な娘」から、あまりにも「人間」である女性まで転落したこの人物のせいで、エミネスクは後世の女性読者の恨みをかっている。「女性だって、やろうと思えば星になれるわよ!」と、学生の頃の自分が『明星』を読むたびに内心でエミネスクに突っ込みを入れていた覚えがある。
しかしこの詩の場合、もう一つの読み方ができる。「明星」は、人間の中に宿る「芸術的な創造」の衝動を象徴している。才能に恵まれた人は、その才能を発揮し、極める道に専念するか、あるいは人間として幸せを追求するか――ロマン主義の詩人の作品にはよく見かけられるテーマである。冷たい永遠と不死を選ぶか、あるいは人間として束の間の幸運を選ぶか――どちらにしても何かが失われるというのが『明星』のテーマだと言える。いわゆる、全ての人間の中ある永遠性と人間性の葛藤だ。
ルーマニアという国の萌芽が現れたばかりの頃に、ルーマニア人ならだれでも理解できるようなシンプルな言葉を使って、永遠と人間性、宇宙生成や創造をテーマにしたこの詩が生み出されたわけだ。『明星』の言葉は不思議と衰えない。発表から約140年が経っても、この詩の言葉は今のルーマニア語の標準語に近いままだ。目に見えないもの、測り知れない宇宙、そして「創造」をめぐる犠牲と葛藤を、だれでもが理解できるような言葉で描写していることが、この詩のもっとも面白い特徴だと思う。
ミハイ エミネスクMihai Eminescu
ラモーナ ツァラヌ
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