月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第二幕(前編)
「それで姉さん、今年おいくつですっけ?」
四十六、とわたしは受話器に答えた。
「四〇代に見られたことはないわよ。念のため」
「歳を訊かれるたびに念を入れるの?」と、夾子はからかう。
「お美しい有名人も辛いこと。四十六でストーカーに遭うとは」
「二〇歳と結婚しようって人に、言われたくないわね」
本当に笑い事ではない。五〇だろうと七〇だろうと、女が夜道を尾けられて、構わなくなる年齢などあるものか。
「いや。八十五にもなると、背後に誰かいる方が安心して歩行できるみたい。うちの病院の患者さんたち、皆そうだもん」
夾子のそんな冗談にも、まるで乗れる気分ではない。
だが確かに、夜道で感じた気配は気のせいかもしれなかった。その日の午前中、お宅の透明ゴミ袋がカッターで切り裂かれている、と町内会の世話役が知らせにきて、神経質になっていたのだ。ゴミの中身こそ引きずり出されてなかったが、ほんの一週間ばかり前には、庭の植木鉢が一個置きにひっくり返されていた。
もとより、ポストに放り込まれていた手紙の件は、口にする気にもなれない。嫌がらせが広がる、という好女子の予言が当たったなどと、仮にも認めたくなかった。
「あのね、姉さん」
夾子は咳払いした。
そうだった。病院の昼休みに、わざわざ電話をかけてきたのは夾子の方だ。
「美希のことだけど。困ってるのよ」
わたしは曖昧に返事した。
好女子の娘のことなど、はなから愚痴られる筋合いはない。
「忠くんが来ると嫌がって、真夜中でも外に出ていってしまうの」
「そりゃ、母親代わりの叔母のところに夜中、若い男が通ってきたらね。気を利かしてるのかもよ」
美希は十一歳よ、と夾子はうなる。
もっとも九大と東京の東仙医大の両方で神経症の診断がつき、精神年齢は九歳ぐらいらしい。夾子が美希を引き取ってから、もう一年以上になるだろうか。
「いい機会じゃないの。好女子に返しなさいよ」
「今はまだ無理」夾子は息を吐く。
ここへきて、やっと心を許した叔母が自分の都合で見捨てたと思えば、回復不能なダメージを受けかねない、ということらしかった。
「だって実際、あんたにも都合があるわけでしょ」
二〇歳の看護師との結婚。
およそ、まともな都合ではない。
姪っ子に邪魔されている間に頭が冷えるなら、それもいい。
「彼はね、美希がいても構わないって。とりあえず美希をどこかに預けて、そこへ彼がしばしば足を運んで、美希がなついたら戻そうかって」
夾子の住まいを自分の縄張りと感じている子供を、まずよそへ移す。
そこは彼と夾子の場所なのだと身に沁みさせてから、順応させる。いわば男女の間に子供が産まれ、育つ手順をやり直すのだと言う。
「なら、そうしてみたら」
「だけど最近、ときどき学校へ行けるようになってね。学区域内で施設を探したんだけど、見つからなくて」
「夾子」
意識して憮然とした口調で言った。
「まさか、わたしに預かれって言うんじゃないでしょうね?」
「姉さん、ちょっとの間だけ」
冗談じゃない、と声を荒げた。
「好女子の娘の面倒なんて真っ平よ。母親だって、承知しないでしょ」
「好女子姉さんは、預け先なんか構やしないわよ」
「まさにそれが問題じゃないの。なんで構わないのよ。じゃ、亮吉さんに相談しなさい。父親なんだから」
そうしてみる、と夾子は不承不承に応えた。
「それでね、姉さん。一度、忠くんに会ってほしいの」
何がそれでね、なのか。
話の繋がりがまるでわからない。
馬鹿馬鹿しくなり、「そら、あーたが婿どんなら会わねばならんたい」と吐き捨てた。
「まあ、そのうちね。先に月子姉さんに、挨拶を済ませたら」
「楡木子姉さん、」と夾子は縋るような声を出す。
「その彼氏に美希を引き取る気があるなら、まず好女子と会うべきね」
「楡木子姉さん。ねえ、」
「こないだは、好女子の売り言葉でつい、ああ言っただけだから。若い子と付き合うのは結構だけど、結婚を後押ししたなんて思わないで」
「姉さん、」と夾子は消え入るような声で懇願する。
「コーヒー」
てかてか光るメニューを見もせず、短いスカートの店員に言い放った。
夜八時、広いばかりの混み合う店に、二人の姿はまだ見あたらない。
自宅に近いバス通り沿いの、とりわけ安っぽいファミレスを指定したのは、わたしの意思表示でもあった。
十分過ぎたが、妹たちはまだ来なかった。勤めている病院からここまでバスで十五分、タクシーでも千円とかからないはずだ。
帰ってしまおうか、と考えた。
が、そこまでするなら、最初から断るべきだったろう。
隣りの夫婦が尖った声で子らを叱りつけている。ドリア、スパゲッティ、ハンバーグ。あんなものを食べさせるなら、家でそれぞれ冷凍食品をチンしてやればいいではないか、と無性に苛々する。
あんな連中でもしかし、羨む者もいるのだ。
わたしだって家族を作りたいの。
妹は電話で最後にそう訴え、結局、その一言を拒めなかった。
三十八歳で医大を出て、まだ熊本の実家に暮らしていた頃、夾子が付き合っていたサラリーマンは高校の同級生で、十反の田畑を持つのが自慢だった。ケチなくせにフィリピーナに貢ぎ、その百数十万の借金を、なぜか夾子が肩代わりして別れた。その後、知り合った五十絡みの男は妻帯を隠していた。
「美希にも姉さんたちにも、悪いと思ってる。でも父さんが亡くなって、母さんがいない、今だからこそ」とも夾子は言っていた。
とはいえ本当は、自分だって姉さんたち並みに所帯を持ちたい、といったことに過ぎまい。いずれ幼稚な馬の骨を捕まえて、婚姻届けを出してみたところで、めでたしめでたしで収まるはずもない。
香りもそっけもない色だけのコーヒーを啜り、わたしは頭の中で、まだ現れない末妹にそう説教していた。
「遅くなって、ごめん」
息を切らした夾子は、若緑色のドレッシーなワンピース姿で、下ろした髪が乱れていた。病院で大慌てで着替えてきたらしい。
その夾子の後ろに、細く、やや小柄な若い男が立っていた。
「真田です」
ぴょこりと頭を下げ、向かい側の夾子の隣りに掛けた。はしばみ色のシャツに、デニムをアレンジしたジャケットを着ている。
わたしは息を呑み、彼に見入っていた。
「看護師さん、でしたね?」
尋ねる声は、我ながら間抜けに掠れた。
「いえ、准看護師です」
准看護師。
なんという綺麗な男の子なのか。
ファミレスの照明に輝く、黒い瞳に吸い込まれそうになる。まだ低くなりきれない声、少年じみたビブラートが肌に染み入った。
「三年の実務実績がないと、正看護師の学校へは入れないもの」
夾子がはしゃいだ声を上げていた。
「わたしも国家試験からまだ四年目だもん。二人とも勉強中」
感じやすそうな顔立ちの彼は、華奢な胸にネクタイを無造作に締めている。かたや夾子は、贅肉のついた骨太の下半身を小花の散ったワンピースに包み、有頂天でいた。
一見して親子とまでいかない。が、姉弟にも見えない。
二〇歳、とわたしは独り言のように呟く。
「はい。再来月で」
再来月。すると、今はまだ未成年ではないか。
急いで暗算した。夾子と二十三歳違う。妹が実家の六畳にこもっていた五浪目の年に誕生したのだ、この子は。
この子は、とわたしはあらためて唾を飲み込んだ。
今、ここにいる意味がわかってないのでないか。
「どちらでお生まれになったの?」
「埼玉です」と、十九歳の少年は答える。
「実家には母が独りいます。まだ現役のナースで」
ナースのお母様はおいくつ、と訊く勇気はなかった。
「で、夾子のことは?」
「無論、話しました」と、白い歯を覗かせたが、目は伏せた。
睫がやたらと長く、広い額に柔らかな髪がかかる。
「反対はされなくて?」
いえ、と首を振ったきりだった。
金のかかった私大出の女医を色仕掛けでつかまえた、と好女子が憎々しげに言いそうなことを思った。彼の母もそう考え、満足してくれたのだろうか。
だが看護師というより、俳優の卵といった方が通りそうな息子だ。その子が中年太りの始まった、のっぺり平板な顔の中年女を連れてくる。
わたしが母親なら、夾子を刺してやる。
「もちろん、彼のお母さんは不満のあると思う」
考えを察したように、夾子が曇った眼差しを上げた。
「歳が歳だもんね。だからこそ赤ちゃんをつくることを考えると、一刻も早く彼に越してきてもらいたいの」
赤ん坊をつくる。
わたしは思わず手を滑らせ、スプーンが受け皿に当たった。
ストローをいじっているこの男の子自体、まだ母を求めるかのようだというのに。
「結婚を急ぐのはそういうことなの。美希には悪いけど」
妹はそれらの言葉を、とろけるように舌で転がしている。
「半年待ってできなかったら、すぐ不妊治療を始めるから。うちの病院で前もって検査してもらった。恥ずかしかったけど、よそに行く暇がなくてね。ちっちゃな子宮筋腫があるだけで大丈夫だって。彼の検査はまだだけど、きっと若いから、」
「やめなさい!」
気がつくと、わたしは大声を上げていた。
脇の親子連れがぎょっとしたように振り返った。子供たちの口の周りは、ホワイトソースとミートソースの斑らになっている。
本当は耳を塞ぎ、やめてちょうだい、と懇願する気分だったのだ。
「結果ばかりを求めるのが、あんたの悪い癖よ」
そう言い繕いながら、紺のスーツの襟元を掻き合わせた。なんでまたこんな野暮ったい、女教師じみた格好をしてきたのだろう。
だが彼の眼差しは、救われた子鹿のような感謝に満ちていた。
「そうね、ほんと、そぎゃんね」
旗色が悪いときの癖で、夾子は首をかくかくさせて頷く。
「やっぱり楡木子姉さんに会ってもらって、よかったあ」
ほら、ね、と婚約者に相槌を求める。
彼のきらめく黒い瞳は、わたしを見つめたままだった。
「実はね。姉さんに会いたがったのは、忠くんなのよ」
少年は目を逸らし、怒ったようにうつむいた。
「インタビュー記事と写真が載った雑誌を見せたの。この人、そのときから楡木子姉さんのファンだけん」
やめてよ、とわたしは首を振った。そんな夾子の物言いは、姉たちの誰かを味方につけたいときの常套手段だ。
「ほら見て。写真よりも美人でしょ」
忠くんと呼ばれた彼はテーブルに肘をつき、微かに頬を紅らめている。
「あーあ、お母さんさえいてくれたらなあ」
夾子はぼやいた。「熊本じゃ、美希はずっとお祖母ちゃん子だったのに。孫を置いて、どこへ行っちゃったんだか」
背負い込んだ美希のことをぼやくのは仕方あるまい。
しかしながら、母の失踪に関するそんな物言いは、引っかかる。
が、それをとがめる間もなく、妹の言葉は周囲の雑音に溶け込み、わたしの耳を素通りした。
安っぽい合板のテーブルの下で、彼の掌が膝に載せたわたしの手を包み、硬く握りしめていた。
(第03回 第二幕 前編 了)
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