志賀康句集『日高見野(ひたかみの)』
発行 令和三年五月十九日
定価 二七五〇円(本体二五〇〇円+税10%)
発行者 姜琪東
発行所 株式会社 文學の森
住所 〒169-0075東京都新宿区高田馬場2-1-2田島ビル八階
志賀康さんは昭和十九年(一九四四年)生まれで仙台に住んでおられる。同人句誌LOTUS代表だが、今ではいささか伝説的になった前衛俳句系同人句誌「未定」の初期同人でもあった。
『日高見野』は第五句集で、句集後記にタイトルは『日本書紀』「景行記」から採ったとある。「ひたかみの」は現在の仙台平野の多賀城より北の地域を指した地名らしい。志賀さんの生まれ故郷に縁の深い古地名を、日本最古の史書から採って句集タイトルになさったわけだ。
句集は「Ⅰ かの地」「Ⅱ かの時」「Ⅲ ひろがり」「Ⅳ まじわり」「Ⅳ ことどい」の五章から構成される。Ⅰ、Ⅱ章では「地」と「時」という漢字が一文字使われているが、他の三章はすべて平仮名だ。もちろん意図的である。
日本語では漢字が岩のように屹立して意味とイメージを担う。それを結びつけるのが平仮名である。平仮名は日本語の水のようなものなのだ。また水は生命、つまりは世界の源である。『日高見野』では水のように言葉が流れて意味とイメージを結びつけている。平仮名の多い章タイトルはこの句集が特定の観念に集約されるわけではなく、流れの中で根源的なものを希求していることを示唆している。
どの道も水にて終わると鵠の声 「Ⅰ かの地」
乗り移り乗り移りして春の水 「Ⅱ かの時」
滴りや水をいたわる水があり 「Ⅲ ひろがり」
いくぶんは水だと思う春の魚 「Ⅴ ことどい」
流れとは流るるものの心地なる 同
「水」を詠み込んだ句である。「鵠」は白鳥の漢名。色のない白に還元されたような白鳥が「どの道も水にて終わる」と告げる。同様の句に「いくぶんは水だと思う春の魚」がある。魚は水に逆らって泳がない。自己主張しない。水と同化している。道という存在も魚という存在も水という透明な流れになってゆくのである。
『日高見野』には「乗り移り乗り移りして春の水」「流れとは流るるものの心地なる」のような撞着的表現も多い。あるモノが乗り越えられ、さらに乗り越えらてゆく。すべては流れの中にあるわけだ。「万物は流転する」である。しかし句は生成流転だけを描いているわけではない。
一本で叙事の野花となる菜種 「Ⅰ かの地」
誰何され遠しと答うるおみなえし 「Ⅱ かの時」
蜉蝣の落ちたる翅を宙という 「Ⅳ まじわり」
丁字草青は音楽となるために 同
歌い来てそのまま野となる吾亦紅 「Ⅳ ことどい」
安心や空青ければ青の音 同
「菜種」は一本の野の花に育ち、無限に物語を語る「叙事」となる。万物の無限流転は世界生成の源基であり、モノに、観念に結晶するのである。『日高見野』の世界では、世界内存在が万物照応的でもある。「誰何」すればおみなえしは「遠し」と答えてくれる。「吾亦紅」は歌いながらやってきてそのまま「野」の広がりになる。青空は「青の音」そのものでありそれは安心立命の境地である。
ただし流れは世界内存在に結晶するが、モノに結晶してすぐにまた流体に戻ってしまうというわけではない。むしろ志賀さんは、万物流転の流れが〝これしかない〟という形でモノに、俳句表現に結晶する瞬間を捉えておられると思う。
吹き抜けて風と呼ばれよ花明り 「Ⅰ かの地」
雪やんで天の漂流始まりぬ 同
郁子の種吐き出せば雲殖ゆるらん 「Ⅱ かの時」
白蝶来山河はひとつの予想なる 「Ⅲ ひろがり」
触れ居ればやや白を増す秋の花 同
夏野日は何ぞ何ぞと登りくる 「Ⅳ まじわり」
地の息のどこでも竹藪になれる 同
言い直し言い直してや松林 同
足音の奥の足音椎落葉 「Ⅳ ことどい」
萍に出自を問えば歌とのみ 同
山の向こうを見たかのように木槿落ち 同
『日高見野』には作家がその強い主観で捉えた外界描写がほとんどない。「花明かり」は吹き抜けて光から風になる。「雪やんで天の漂流始まりぬ」にも同様のことが言える。作家はある光景を見ている、あるいは光景の一瞬の変化を言語で捉えている。『日高見野』くらい私はこう思う、こう感じるの作家の述志がない句集は珍しいだろう。基本的には写生と言っていい。もちろん普通の写生ではない。
ヒントは「言い直し言い直してや松林」や「山の向こうを見たかのように木槿落ち」といった句にあるだろう。通常の写生では、目に映る外界を確固とした輪郭を持つ客体として捉える。客体物を取り合わせて、さて、何を表現しようかと俳人は考えるわけだ。志賀さんの方法は違う。志賀さんが捉える外界存在は、最初はいわば得体の知れない何かとしてある。それを写生することで初めて客体が――言語的に――存在する。
つまり志賀さん的写生とは、結局は「言い直し言い直してや松林」となるにせよ、写生によって存在物を生じさせる方法である。「山の向こうを見たかのように木槿落ち」が、山向こうにあるだろう存在以前、あるいは存在以上の反映描写であるのは言うまでもない。「木槿」は現実存在だが、現実以上―以前の存在を見てしまったからこの世ではポタリと花を落とすのである。
石と時こもごも匿い匿われ 「Ⅰ かの地」
風なくも大木なれば揺るるなり 「Ⅱ かの時」
白椿落ちて閾下を開きたる 同
遠山の動くかと見て牛歩む 「Ⅲ ひろがり」
蟲死んで冬の野になお蟲の声 「Ⅳ まじわり」
こおろぎの視野いつぱいの露の世か 「Ⅳ ことどい」
「遠山の動くかと見て牛歩む」「蟲死んで冬の野になお蟲の声」といった句は秀句だ。「石と時こもごも匿い匿われ」「風なくも大木なれば揺るるなり」という句は『日高見野』の世界観をよく表している。また「白椿落ちて閾下を開きたる」は『日高見野』的句法の解題として読むことができる。作家の意識は「閾下」に下り、存在源基を捉え、それを現実存在に見出し写生している。いわば志賀さんが始めた新しい写生の方法だ。
前衛的に見えるだろうが『日高見野』は斬新な手法による有季定型写生句集でいいと思う。句に複雑な意味はなく素直に読んでよい。漆黒の無からポッと存在が生まれるような機微で俳句が書かれている――生み出されている。この新たな写生方法で志賀さんは作品を量産することもできるだろう。俳人はある程度作品を量産できなければ真に自由ではない。この作家の句業は全盛期に入ったかもしれない。
鶴山裕司
(2021 / 5 / 21 6枚)
■ 志賀康さんの本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■