女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
お腹の底に溜まっていたモヤモヤを吐き出してしまったからか、翌朝目が覚めた時は心持ちがずいぶん軽かった。
まだ眠い目をこすりながら、枕元の手帳を開いて読み直したのは、夢ではなかったことを確認したかったから……ではない。もう一度自分の気持ちと向き合いたかったし、そうすることでまだ残っているかもしれない迷いのようなものを払い除けてしまいたかった。
筆圧の高い文字を何度も目で追ってみる。
「でも、私はまだ若い。今からでも選択は可能だ」
間違いない、と確信できた。これが今の本当の気持ちだ。私には沢山の選択肢があるし、その先にはきっと素晴らしい出会いが待っているに違いない。
ヨイショ、と勢いをつけて上体を起こす。少し早く起きすぎてしまった。それでなくても今日はお休み。次の舞台は二日後、北海道の旭川だ。海を渡るから移動日は二日間準備されている。プロペラ機に乗ると聞いているけど、いったいどんな感じなのかしら?
そんな風に考えていると、あんなにみなぎっていたはずの自信がみるみるうちにしぼんでしまう。舞台の為にプロペラ機で移動。今よりも恵まれた環境なんて、本当にあるのかしら? もしあったとしても、私はちゃんとそこに行けるのかしら?
小さな劇団で苦労をしている人たちの話を思い出すまでもない。劇団四季の中、例えば自分の同期でも、まだ役に恵まれない人たちは苦しい生活をしている。住んでいる部屋にはお風呂がないから銭湯通い、トイレだって共同……という話も聞いた。私だって下目黒で下宿していた頃は、節約してモヤシばかり食べていたけど、幸いそんな日々は長く続かなかった。そう、今の生活は「幸い」なんだ――。
あれこれ考えているうちに、だんだん気持ちが暗くなってきた。原因ははっきりしている。昨日の夜、背中を押してくれた「若さ」のせいだ。今の私には多くの可能性がある反面、経験値が少なくてまだ未熟。そんな「若さ」の長所と短所が、クルクルと目の前で回っている。
ほんの数分前に洗面所で顔まで洗ったおチビちゃんだったけれど、またベットの上に横たわった。別に眠たいわけではないから、目はつぶらない。真っ白な天井を見ながら、少し落ち着いてみようと思った。
本当に私はここに残れないのか?
本当にこれ以上我慢できないのか?
本当にこの巡業で最後にするのか?
例えばここ最近で一番腹が立ったことは何だろう。頭を使うこともなく思いつく。あれは数日前のこと、本番直前の一番慌ただしい時間だった。先輩方の世話を焼いてから、自分の支度を整えるのはいつものことだけど、あの日は本当に時間がなくて、あと数分で開演なのにまだ衣装もメイクも途中。ようやく鏡の前に座り、さあ、ケイ・サドラーになろうと集中し始めたタイミングだった。
「ちょっと!」
Z先輩の声だ。険しい響きに空気がビリビリ震える。おチビちゃんは反射的に腰を上げていた。名指しではないけれど、こんな風に呼ばれる人は自分以外にいない。
「はい、何でしょう……」
「早くしてよ!」
先輩は背中を向けたまま、再び険しい声を出す。何のことだろう、と考えたその少しの間が気に入らなかったらしい。
「早く上げろって言ってんのよ!」
そう怒鳴って、グッと背中を突き出した。あ、ファスナーを上げて欲しいんだな。そう気付くと同時に、言いようのない怒りが身体を駆け巡る。
「私、まだ何も出来てないんですけど!」
本当はそう叩きつけたかった。でも、出来るわけはない。これからすぐに開演だし、相手は大先輩だ。無言のままファスナーを上げるのが、精一杯の抵抗――。
気持ちを鎮めるつもりが、また腹が立ってきた。ダメダメ、と深呼吸をしてから手足を伸ばしてみる。そういえば、こんなこともあった。
ラーメンが食べたいのよ、と他の先輩に言われたことがある。美味しい店を調べて一緒に行ってほしい、という意味ではない。適当なラーメン屋を見つけて、そこから運んできてほしい、ということだ。とりあえず探しに出ると、すぐに店は見つかった。すいません、と中に入る。とてもいい匂い。壁に貼られたメニューを眺めた後、カウンターの向こうの店員さんに用件を伝えてみた。ただ今の時間帯、出前はやっていないと言う。
「あの、すぐそこのホテルなんです」
「え、ホテル? 近所の人じゃないの?」
そんなやり取りに、他のお客さんの視線が向けられる。ちょっと恥ずかしい。でも気にしてられるもんか、と粘ってみた。どんな風に頼んだかはあまり覚えていない。ただ必死だった。その結果、出前用のオカモチを貸してくれることになった。何度もお礼を言ってから出来立てのラーメンを受け取り、ホテルの部屋まで運ぶ。生まれて初めての出前だった。そこまでならアラ大変ネで済むけれど、間が悪いことにその出前姿を他の先輩に見られてしまった。それだけではない。
「今度は出前かよ。金魚のフンみたいにくっついて」
ホテルの廊下ですれ違った後、たしかにそう言われた。今までも似たようなことはあったけれど、ドスンと重く響いたのは日々疲れ果てていたからだろう――。
心を鎮めるつもりだったのに、正反対の結果になってしまった。思い出しても腹が立つ、とは正にこういうことだ。あーあ、と大きくため息を吐いてから、おチビちゃんは目を閉じた。どうせ今日はお休み、特にやることもない。せめて楽しい夢が見られればいいのだけど……。
北海道公演がスタートした。色々と考えることはあるものの、舞台の上とは、そして何よりお客様とは関係のないことだ。おチビちゃんは北海道へ向かうプロペラ機の中で、胸の中のモヤモヤに一枚大きな蓋を被せた。
その蓋の効果なのか、細かな修正点はあれども、旭川公演は結果的に満足のいくものとなった。肝心のお客様の反応も抜群に良く、その晩、ホテルで綴った言葉には決意表明のような真っ直ぐさがあった。
「気を落とさずに、最後までやり抜こうと思っている。たとえどんな批判を内で受けようとも、外に対して良ければよいのだ」
翌日の会場は札幌。地図上だと近そうに見えるが、電車でも車でも二時間以上はかかる。やはり北海道は大きい。そして寒い。昨日一日滞在したものの、二月下旬の厳しい寒さにちっとも身体は慣れていなかった。マスクをしていても、少し風が吹き付ける度にキャッと声が出そうになる。
そしてこの日は公演の前に、地元の後援者の方々との交流会があった。参加するのはキャスト全員ではなく選ばれた五、六人だけ。おチビちゃんもその中に入っていたが、正直なところ乗り気ではなかった。せっかく昨日、あれだけ良い舞台になったのだから、その感触を保ったまま本番を迎えたい。それが本音だ。
もちろんワガママを言って欠席するようなことはしない。それどころか、こういう機会もあと僅かだけと思えば、ちゃんとしなくちゃという使命感さえ芽生えてくる。
交流会自体はいつも通りだった。少し堅苦しい挨拶や、形式通りの冗談で幕を開け、でも時間が経つにつれ、段々と雰囲気は滑らかになり活気が満ちてくる。熱心なファンの方の質問に答え、もったいないようなお褒めの言葉に照れながら、おチビちゃんは考えていた。私が新しい道を選んだら、もうこんな風に歓迎されることはないかもしれない。注いで頂いたジュースを飲みながらも、どことなくしんみりしてしまうのはそんな気持ちのせいだ。
会が終わる際、男性のQ先輩には驚くようなお土産が贈られた。なんと大きなアラマキ鮭が丸々一本。さすが北海道と感心しながらも、どうやって持って帰るんだろうと心配になってしまう。
皆さんに見送られながら会場を出て数分、特に確認をした訳ではないが、ホテルまで歩いて帰ることになった。実際に歩ける距離だし、そもそも大きな鮭を連れていては電車やタクシーに乗るのも一苦労だ。Q先輩はうつむいたまま、引きずるようにして鮭を連れて歩いている。いくつ目かの横断歩道に差し掛かった時、唐突にその瞬間は訪れた。歩行者用の信号が青になり、渡り始めて数秒経った時だ。グワァーッという、何とも形容し難い叫び声が聞こえた。え? と振り返ったおチビちゃんの視界に飛び込んできたものは、路上を滑るアラマキ鮭。驚くより先に、耳に飛び込んできたのはQ先輩の怒号だった。
「こんなモノ、持って帰れるか!」
呆気に取られている暇はない。早くしないと信号が赤になってしまう。但しそこは同じ舞台を踏んできた強みがあったようで、まるで示し合わせたように各々が素早く動く。肩で息をしながら突っ立ったままのQ先輩に駆け寄る人、アラマキ鮭を拾い上げる人、おチビちゃんはそんな様子を見届けながら、停まっている車に向けて「すいません」と頭を下げてから横断歩道を渡り切った。
ある意味手際よくその場を取り繕えてしまったせいで、ホテルに戻って来てもしばらくはぼんやりとしたままだった。アラマキ鮭が路上を滑る姿は鮮やかに覚えているが、それ以外のことが抜け落ちているような感じ。そんなおチビちゃんに少しずつ感覚が戻って来るのは、やはり開演の時間が近付いてきてからだった。
無論うまくいくわけがない。昨日の出来の良さが嘘のように、声は出ないし、それを注意されると今度は気にし過ぎて硬くなるし、結果、全体的にとても暗いお芝居になってしまった。どうしてこうなってしまうんだろう、という嘆きは程なく苛立ちへと変わり、ホテルのベッドの上で言葉を綴り始めた時には、身体の内側で何度も感情が沸点に達していた。当然言葉も荒くなる。
「頼むから死んでくれ。こんなことじゃ日本の演劇界は中から腐っていく」
「ゲスの芝居を真似ても仕方ない」
「どうせ、たいした人間が見ていないのだから、誰のいうことにも感化されないようにしよう」
「とにかく、明るく無垢であるだけで、私の役割は良いのだ」
「ここは墓場だ。墓場なら墓場らしく、みんな死んでくれ!」
自分の中にこんなに激しい言葉があるんだなあ、と驚きながらも筆は止まらなかった。いつしか止まったことに気付いたのは次の朝。ベッドの上で言葉を綴っていただけなのに、全身が筋肉痛のようにだるかった。
それ以降、何時間、そして何日かが経つ中で、おチビちゃんの感情が再び沸点に達することはなかった。街角で奇声を発しながら鮭を投げ出すほど、精神的に参っていた先輩への同情めいた気持ちがあったのかもしれない。またホテルのベッドの上で、熱心に言葉を綴ることもやめてしまった。燃え尽きたわけでも、抜け殻になったわけでもない。ただ恐怖心があった。
――この先輩たちのように、いつか私も濁ってしまうかもしれない。
そう思う度に軽い絶望が目の前をよぎり、一気にげんなりしてしまう。頑張ることが虚しく、馬鹿らしく思えてくるのだ。だからなるべく自分と向き合わないように気を付けた。舞台の上に立っている時間だけは、明るく無垢な存在でいよう。それだけ決めて日々を駆け抜け、遂に鹿児島の指宿で公演の最終日、楽日を迎えることができた。
約二ヶ月をかけて三十七公演、北は北海道から南はここ鹿児島まで、本当によくやってきたなと思う。気持ちだけでなく身体も疲れ切っていたが、やり遂げたという達成感はどこか心地良い。あんなに新しい道へ進むと決めていたはずなのに、これで最後かと思うと周りの人たちが美しく見えて仕方なかった。
楽日を祝して用意された宴会場は広く、特に男性の先輩たちは我先にと解放され、あっという間に飲めや歌えのどんちゃん騒ぎが始まった。普段なら嫌だなあと思うはずの、だらしなく浴衣を着崩し、発声法も何もあったもんじゃない大声で話し、つまらないことで腹を抱える先輩たちの姿さえも美しい。お酒が飲めないおチビちゃんは、そんな騒ぎを見つめながら、ひとりしんみりとジュースに口をつけていた。
「えーっと、皆さん、ちょっと聞いて下さい!」
舞台の上で声を張り上げ始めたのは、公演委員長のMさんだ。酔っ払った先輩たちはなかなか静かにならないが、次の一言は効き目があった。
「今、ボスから電話が来ています。ボスから電話! みんな静かに!」
ボス、とは言うまでもない。浅利先生のことだ。何ごとだろう、と思わずおチビちゃんも背筋を伸ばす。だらしなく酔っていた先輩たちも、さすがにおとなしく座り直し始めた。
「えー、これから今回の舞台について、ボスから皆さんへ点数の発表を行います」
勘弁してくれよ、という感じの「えー」とか「おー」が混じり合う中、おチビちゃんは想像していた。もしも百点満点なんて言われたらどうしよう。そしたら私……、四季をやめないかもしれないな。
「よろしいですか? これから名前を呼ばれた方は、その場で構いませんので立って下さい」
ひとりひとり名前が呼ばれ、先生がつけた点数が告げられていく。アラマキ鮭を投げつけた先輩はかなりいい点数だった。次かな、次かな、と待ち続けるけどなかなか呼ばれない。結局、おチビちゃんの順番は最後だった。
「発表します――。六十点」
え? と思わず声が出た。六十点? あんなに先輩たちのお世話をして、舞台にも必死に取り組んで、反応が良い日だってたくさんあったのに……六十点?
あまりにもショックで、耳がキーンとする。腹が立つ、という感じではない。もういいや、と一瞬で投げやりになってしまった。百点満点と言われるかも、と考えていた数分前の自分が恨めしい。平気なふりをしてジュースを飲みながら、東京に帰ったらすぐにでも四季をやめようと、おチビちゃんは密かに決心していた。
(第22回 了)
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