ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
12(前編)
「スタンガンで、そんな威力のあるものって、ないですね」
ガード下の防犯グッズ専門店は、電車が通るたびに騒音がする。
御徒町は遠かったが、細かい状況説明をするはめになることを考えて、近所の店は避けた。
「女持ちといえば、特にこのペン式とか。いずれにしても電圧が低めになるし」
頭の禿げた六十過ぎの親爺は、カウンター脇の棚に無造作に置かれた品を右から左に、さっと指差した。
女持ちというと、なんで電圧が低くなるのか。電圧が高かろうと、製品が重たくなるわけでも、危険が増すわけでもなかろうに。
「もちろん、必要を感じるのは女性が多いわけですけど。販売数が多いってことは、手軽な商品の方がよく出るってことで。小さい手に持ちやすいって意味でもあるでしょう」
店主は、ピンクのアザラシを掌に載せた。
「これなんか、キーホルダーとしてもいいですよ。電車での痴漢撃退用なら、まあまあ使えます」
女友達が、スタンガンをいつも携帯している。パーティでふざけて、よその人に対して使ったら、倒れてしまった。しばらくして意識が戻り、倒れる前の数分間の記憶もない。
瑠璃は店主に、そんなふうに話した。瑠璃自身が昔の同級生と二人でいるとき、そんな状態になったなどと言えば、同情と好奇の眼差しで見られるのは必至だ。
「怖いけど、そのぐらいのものを持ち歩かないと、意味ないのかと思って」
店主は首を傾げ、ガラスケースの中を覗き込む。「メーカーとか、品番とかは聞いてないですか?」
山本警部補を相手に、あのときはそんなところまで気が回らなかった。芝のビアホールに問い合わせたところで、忘れ物のケースはとっくに警察に持って行かれたに違いあるまい。
「意識まで失うことがあるといったら、このマイオトロンでしょうね。これはアメリカ製で、FBIが採用したもんです。あるいは他国製で、同等の製品があるかもしれませんけど」
三万円ほどもするものだった。高スペックの器機類は確かに、むしろ男性が好むものだ。銃規制されている日本で、こんな代物を男に持ち歩かれたらと思うと、ぞっとする。
「少なくともこれを、女持ち、とは言わなさそうね」
たとえ空のケースだけでも、警察が間違えることなど絶対ない。
瑠璃は二つで四百六十円の窓用補助キーを三パックと、八千円程度のICレコーダーを買い、店を出た。先日、仁が持っていたのを見て、ごく小型にも関わらず昔のカセットテープレコーダーなど足元にも及ばない高機能に、つい欲しくなった。自分も女だてらに理工学部出だ、と思う瞬間ではある。
スタンガンを買いに来た客と思ったからだろう、店主は千五百円のピンクのアザラシも勧めた。が、単にピリピリくるだけでも、スタンガンの類を買う気はしなかった。自分はそういったものを持ち歩いたことは一度もない、と警察にも明言した。
青葉台のマンションに戻ると、瑠璃はインターネットで、「マイオトロン」を検索した。その名を忘れないよう、御徒町の店を出てすぐに携帯のテキストメモに打ち込んでおいた。
接触させるのは、ほんの二秒程度。人間の脳の中の運動神経と間脳の一部、視床下部の脳波に直接働きかけ、運動神経を一時的に麻痺させる、とあった。膝から崩れ落ち、立ち上がることもできなくなる。随意筋への作用、神経系統の混乱。吐き気などの症状。十五分から四十五分の間、意識は戻っても動作不能。ただし心臓のような不随意筋には作用せず、心臓病を抱えた人間にもリスクはない。
あのときの瑠璃の状態と似ている。だが、そうだと断定はできない。記憶を失う、とは書いていなかった。
自分にスタンガンを使われたのでは、という発想自体は、忘れ物としてそのケースが店にあった、と聞いたからだ。緊急時に使うものをケースに入れて持ち歩くだろうかとも思うが、防犯具店の親爺の話では結構、出回っているものらしい。単に他の客が忘れていったものならば、自分にも瓜崎の死にも、まるきり無関係だ。
それでも瑠璃は、マイオトロンという製品のサイトをしばらく眺めていた。店の椅子にあったというケースと、その製品とを結びつけているのは、ともにスタンガンの一種、というだけに過ぎない。しかもマイオトロンは、厳密に言うとスタンガンでなく、別の構造・作用を持つ立派な「武器」らしかった。
シーサイド・ビアに忘れられていたケースの中身は、これに比べると玩具みたいなものだろう。警察がわざわざ、女持ちのスタンガン、という表現を使ったのは、それが瑠璃のものという前提、先入観からと思われたが、仮にそうだとしても、瓜崎の抵抗を奪い、どうこうできるような道具ではない。瓜崎の持ち物だったしても、それで瑠璃のあのような症状は起きない。
瑠璃は、仁と話そうと携帯に手を伸ばした。スタンガン、という言葉に反応して、あのときの瑠璃の状態と、それとを最初に結びつけたのは彼だった。
と、携帯が鳴った。
以心伝心、かと思いきや、ボンだった。
「もしもし」
おう、と男の子のように、ボンは挨拶する。先日の電話で、すっかり打ち解けた気分でいる。そんな無邪気さはやはり昔のままだ。
何してた、とこれも学生みたいに訊く。
「別に。瓜崎くん、死んでたね」
うん、とボンは応えた。夕飯、冷めてたね、とでも言われたみたいな返事だった。すでに行方不明になった時点で、そういう可能性は視野に入っている。無駄な感情表現を省くのは、理工学部の女の子たちの特徴といえば特徴だ。
「警察、来た?」
うん、と今度は、瑠璃が感慨を交えず答えた。
「何、訊かれた?」
最後に会ったときの様子、と瑠璃は言う。「会話の内容とか、そんなことよ」
「瓜崎くんには、姫子とのこと訊いたの? 史朗くんのこととか」
「少しね」
「警察に、それも言った?」
「ううん。その件は全然、訊かれなかったもの」
ボンは沈黙した。「警察、また来るかな?」
「たぶんね」
認めたくはなかったが、また来るだろう。そうに違いなかった。
あのね、とボンは言いづらそうに切り出した。
「前に頼んだこと、覚えてる?」
「何だっけ」惚けたわけではなく、瑠璃は訊き返した。
「姫子が亡くなったから、父親として史朗くんの後見をしてくれるように、瓜崎くんに働きかけてほしいって」
そうだったろうか。そう言われれば、前の電話のときにボンがそんなことを言いたげだった記憶もある。
「あのときもう、瓜崎くんは行方不明だったからね。それどころじゃないでしょ、どっちみち、とか思ってさ」と瑠璃は言い訳した。
「うん。それで結局、彼も死んじゃったし。史朗くん、本当に孤児になっちゃった」
孤児。みなしご。今も変わらずいるはずの存在だが、古色蒼然とした響きがした。
「それでね、あらためて頼みがあるんだけど。今度、警察が来たら、瓜崎くんが史朗くんの話をしていたって、言ってくれないかな。自分の息子だって、言ってたって」
え、と瑠璃は言葉に詰まった。
「そんなことは言ってないわよ。姫子と付き合ってたかどうか、って話ぐらいしか」
それにしたって確たる返事があったわけではない。
それより姫子が瑠璃を恨んでいた、と瓜崎に言われたのが気になった。が、ボンに対し、そんなことをわざわざ告げる必要はない。
「付き合ってたんだよ。だから史朗くんが生まれたんじゃない」
「そうかもしれないけど。わたしとは関係ないことだし」
「誰にだって関係ないよ。関係ないなら、いいじゃない。瓜崎くんがそう言ってたって、言ってくれたって」
まるで子供がただを捏ねるみたいだった。
「嘘の証言ってこと? そんなのは嫌よ」
赤の他人のためになんか、という説明は省いた。自分の身を守るためなら、すでに瑠璃はそれをしている。
「だいいち、今さらそんなことを言い出したら、変に思われるわ」
言い方次第だよ、そんなの、とボン子は引かない。
「瑠璃が今言った通り、自分に関係ないし、たいしたことじゃないから思い出さなかったってんなら、自然だよ。嘘の証言ったって、瓜崎くんと瑠璃以外、誰も知るはずない一瞬のことじゃない? 記憶違いだって、あるんじゃないの」
記憶違いか、嘘か。微妙ということか。
「瑠璃がそう言ってくれたら、一気に心証よくなると思うよ」
「心証? 何のこと」
皆の、とボンは呟きかけて黙る。
「ボンこそ、その子とのことで、ひどい噂を立てられてるじゃないの」瑠璃は言った。「偽証しろだなんて。わたしにそんなこと頼んだって知れたときの、自分の評判は心配じゃないの?」
「瑠璃がしゃべんなきゃ、誰にも知れないじゃない」
ボン子はふてくされように言う。「瑠璃はしゃべんないよ。そんな人じゃないもの」
やれやれだ。瑠璃は微かに息を吐いた。
「ねえ、そしたら史朗くんに一度、会ってみてくれない?」
「わたしが? 何のために?」
「お父さんに最後に会った人に、会いたいって、当然じゃない? よく見たら驚くよ、瓜崎くんにそっくりだもの」
瓜崎そっくりの顔を、瑠璃としては見たい気分とは言えなかった。
「あたしがひどい噂を立てられてるって、瑠璃が教えてくれたけどさ。でも、あたしが今も史朗くんと会ったり、面倒みたりしてるって知って、瑠璃は誤解を解いてくれたんじゃないの?」
それについては、そうだ。その子への猥褻行為で、警察にマークされているとは思えなかった。
「史朗くんが瑠璃に会いたがっていて、それに瑠璃がちゃんと応じてあげれば、瑠璃に対してつまんないこと言う人も、減るんじゃないの?」
つまんないこと。そう言われると、それが誰の、どんな言葉なのか、と問いただしそびれた。ただ瑠璃の脳裏に、姫子が瑠璃を恨んでいた、という瓜崎の言葉が再びよぎった。
「瓜崎くんの奥さんと子供は今、瑠璃のことどう思ってるか、知らないけどさ。少なくとも史朗くんは、」
わかったわよ、と根負けして瑠璃は言った。
土曜の昼前、東戸塚の改札でボン子は待っていた。先に昼食の買い物を済ませたというボンの手から、さほど重くはなかったが、瑠璃は紙袋とビニール袋をいくつか分け持った。
「そこにザ・ガーデンがあるのよ」
史朗の様子を見に来てやるとき、いつも買い物するのだろう。ボン子は駅に直結する西武のショッピングモールや、輸入食材のスーパーをいちいち示す。
「なんか、ものすごく開けてない?」
改札から続くスペースに、巨大なエスカレーターが昇っている。緑の観葉植物がいっぱいに飾られ、南国リゾートの山にロープウェイで登っている錯覚に陥る。頂上に辿り着くと、コンコースから空が覗き、そびえ立ついくつもの高層マンションが近未来的な風景を作っていた。
東戸塚というのは、こんなところだったろうか。戸塚近辺はいずれバスで行き来し、土煙が立つような神奈川の郊外という印象しかなかったのだが。
空中楼閣じみた通路の奥に、ANNEXと書かれた、これも巨大な施設の看板が見えたが、ボンはその手前を左へ折れた。と、鬱蒼とした植え込みの陰から、マンションの玄関とインターフォンが覗いている。
「はい」少年と男の、中間の声が返事した。
「ちわ。三河屋です」
ボンはインターフォンのカメラに顔を近づける。高校生に通じるには、渋すぎる冗談だろう。だがこんな調子なら、直接二人を眺めれば、本当は関係がどうなのか、わかるに違いないと思えた。
二重のオートロック玄関を過ぎると、共用部はホテルのような豪勢な造りだった。これに比べれば瑠璃の住む青葉台のマンションなど、文字通りアパートみたいなものだ。そのマンションとて舅の薦めに従い、上物よりも土地のポテンシャルを重視して買ったが、ここはさらに東戸塚駅に直結だ。電車を降りてから、土もアスファルトも踏んだ覚えがない。
「ずいぶん高そうだね。姫子、頑張ったんだ」
ふかふかした絨毯を敷き詰めた階段を下りる。地下? なわけはない。あの玄関が、すでに地上九階なのだった。
碧と濃紺のボーダー柄シャツを着た高校生は、玄関を開けるなり、軽く頭を下げ、瑠璃ともボンとも目を合わせずに部屋へ入った。
勝手知ったるボン子はキッチンに直行し、灯りを点けた。といっても対面式で、瑠璃と史朗のいるリビングを覗ける。
部屋に入った感じは、まだ新しくはあったが、共用部と違って存外、普通のマンションだった。
「きちんとしてるのね。週に何日ぐらい、ここにいるの?」
瑠璃は以前からの知り合いのように、史朗に話しかけた。高校生相手に、しゃちほこ張ることはない。
「三日ぐらいです」男の子は答えた。ちらりと瑠璃に向けた眼差しははにかむようで、瓜崎には似ていない。
「あ、そぢら、香津、瑠、璃ざん、」
ボン子は買ってきたデリを皿に空け、容器の蓋についた分を口に突っ込みながら紹介する。
どうも、と少年はまた頭を下げた。
姫子が亡くなってから親戚の家にいたのだが、試験勉強もあるし、気兼ねもするしで、こっちにいることが多くなったらしい。
(第23回 第12章 前編 了)
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