ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
11(後編)
瓜崎が死んだ。初めてその実感が、瑠璃にショックとして湧き上がった。なぜだろう。瓜崎がいなくなったのは、連綿と続く面倒ごと、自分への嫌がらせの一部でしかなかった。死んだと、さっき聞いてもなお。が、どこかでずっと、そんなことになっているような気もしていたのだ。
「錘と言っても、たいして重量のないものです。遺体発見まで時間がかかったのは、浮かび上がってから長く海面を漂っていたか、錘の間の鎖が海底で何かに引っかかっていたからでしょう」
「じゃ、殺されたってことですか?」
「いや。自殺という線も捨ててはいません。錘は遺体を沈めておくためというより、足を縛る代わりに使った、という感じですから。ご自身で付けられたという可能性もあります」
山本警部補の言い方はあくまで慎重だった。警察官というのは、そういうものなのだろうか。
「瓜崎くんの奥様は、警察官僚のお嬢様とか、お聞きしましたけど、」と言い出してから、瑠璃は続く台詞を失った。
だから何だ、と言えばいいのか。それこそさっきにも増して、よけいな質問だった。
「捜索願いは出されてたんでしょうか」と、やっと辻褄が合った。
「さあ、それは、」山本警部補は曖昧な表情に変わった。「ご自宅の方とは、管轄も違いますし」
「でも、ご存じでした? 奥様のお父様のこと」
瑠璃は自分でも理由がわからず、警官を問い質していた。
「いや、それは別に、この捜査には関係がないことで」
突然、堀田の携帯が鳴った。堀田はポケットに手を突っ込みながらドアを押し開け、先に玄関を出た。
「亡くなったケースでは、関係ないかもしれませんけど。行方不明の状態のときって、どうなんでしょう。そういう身内というか、警察関係者って、どんなふうに扱われるんです?」
そんなことが今、本当に気がかりなのか。瑠璃は、自身が混乱しかかっていると感じた。
「どんなって、皆さんと同じですよ。特に一生懸命になったりもしませんし、手を抜くこともないですし」
玄関のドアが開いた。
堀田が山本警部補に、微かな手招きをする。山本は瑠璃に会釈し、ドアから出た。瑠璃の質問から逃れたようにも見えた。
瓜崎の女関係について、まったく質問が及ばなかったのは、やはり何か慮っているのか、と瑠璃の脳裏をよぎる。
再び玄関ドアが開き、山本が入ってきた。
「芝のシーサイド・ビアで、お席の椅子にあった忘れ物と思しきものですが」
ああ、と瑠璃は言った。「眼鏡ケース。わたしのじゃありません」
「携帯を椅子に置かれたというので、そのケースかと思ったんですが」と、山本警部補は言った。
「女持ちのスタンガンのケースでした。それにお心当たりは?」
帽子形ドーナツに木漏れ日がきらきらしている。
天気予報のチェックに大わらわしたが、素晴らしい天気だった。子供ランドの植物園は平日、広い敷地に人影はまばらで、撮影には打ってつけだ。
ムック本の制作スタッフがカメラマンを手伝い、反射板を掲げている。外光での撮影は、室内と多少、勝手が違うようだ。
仕事先で仁に会ったら、どんな顔をしよう。そう考えていたことは、いろんな意味で霧散していた。
一つには、この素晴らしい陽光。自分自身までも空気に溶けてゆくようだ。少しだけ風があった。もう一つは、撮影に夢中で何も思い出さない様子の仁、本人。そして言うまでもなく、瑠璃の側の状況の変化だ。
仕事でいっしょのことが続いて、やや気心が知れてきたとはいえ、若いカメラマンなんぞに打ち明け話をしてしまったのは、あの記憶を失った原因がわからなかったせいだ。カメラを構えた横顔を遠くから眺め、瑠璃はそう思った。
心細かったところへ思わぬことを聞かされた。実々との情事をしそこなったと、子供らしい率直さとも言えた。それでつい、気も緩んだのだ。
だが実々からすれば、それは信義に反する、身勝手なお喋りではないか。現に、仁はさっさと別の年増女を追いかけて、と思い出しかけたところで止めた。瑠璃自身の目の前であからさまに行われたそれは、考えるだに不愉快だった。
帽子形ドーナツの撮影が終わった。瑠璃はテーブルに近づき、片づけを手伝う。絵コンテに従い、次は兎になぞらえたチキンのミルク壺煮とサンドイッチ、オレンジ・ティのテーブルを設えた。
「後で、見せたいもん、あるんすけど」
頭の後ろからふいに、そう囁かれた。振り向くと、仁はもう反射板の方へ歩み去っている。
後で、というのは撮影後だった。
その場の思いつきで、通りかかった小学四年生という可愛らしい女の子を捕まえ、糖蜜のタルトに手を伸ばしてもらった。その四十分間もの撮影中、小太りだが美人の母親は、辛抱強くベンチで待っていてくれた。
仁が再び瑠璃に近寄ってきたのは、撤収し、公園の出口に向かってゆく途中、歩きながらのことだった。
「これっす」
瑠璃は両手に紙袋、仁も大荷物を抱えていた。仁はそれを一瞬で片手だけに持ち替えるという早業をみせた。
差し出された掌サイズの一枚の写真。そこへ大きな木の枝の陰が落ちている。
「何?」
瑠璃は足を停めた。写真は暗くて、よく見えなかった。
仁は荷物を片腕で支えたまま、瑠璃の目の前に写真をかざした。
栞。たぶん、ボブの髪型はそうだ。横顔だが、間違いない。
向い合わせに坐った男は首を傾げ、こちらを見ている。
「これ、誰?」瑠璃は顎で指した。無論、男の方のことだ。
七分刈りの男、と仁は言った。「そうでしょ?」
瑠璃は目を寄せた。確かに頭は短く刈ってあるように見える。薄暗い店内、バーか、昔風の喫茶店みたいだ。
重みに堪えられなくなったかのように、仁は前のめりに歩き出し、写真を尻のポケットに突っ込むと、荷を両腕に持ち替えた。
昔風。田舎風。
「もしかして、松本で?」
前を行く肩が、微かに揺れた。
七分刈り。「あの男なの? 瓜崎くんと一緒にいたのを、あなたが見かけたっていう」
仁の頭が、はっきり前後に揺れた。
青葉台の瑠璃のマンションは、子供ランドからタクシーで二十分ほどだ。先に帰り着いた瑠璃は、簡単な食事を用意して、仁が来るのを待った。そんな甲斐甲斐しくするつもりなどなかったが、どうやら外で話し合いたくないことを聞かされるらしかった。
機材を戻し、用事を済ませてから、仁がやってきたのは、ちょうど夕飯の時刻だった。簡単でもパスタなら量だけはあてがってやることができる。仁は、信じられないくらい大量のアボカドで和えたエビとドライトマトのパスタと、アンチョビーの利いたポテトサラダを平らげた。
「松本で、栞をどうやって見つけ出したの?」
食事が済むのを待ちきれずに、瑠璃は訊いた。
「だって彼女も、観光バスに相乗りしてったじゃないすか」
そうだった。それは瑠璃も考えたのだ。表示してあるツアーの名称から、到着地点と時刻はわかる。同じく観光バスで長野駅に辿り着いた瑠璃自身、誰かに尾けられているのでは、という錯覚に怯えたのだった。
「もう一度、写真を見せてよ」
写真は四、五枚あった。一枚はかなり至近で、だが通りを歩く二人の後ろ姿だ。男と栞の、背格好を確認するためともみえる。あとの数枚はいずれも遠かったが、やはり道路上で、二人の顔を捉えている。が、はっきり誰かわかるのは、あの一枚しかなかった。
「よく撮れたわね。しかも店内で。気づかれなかったの?」
「最新の赤外線、使ったんっす」仁は言った。「夜に野生動物とか、撮るやつですけど。店の中が薄暗くて、こっちも隠れるにはよかったんで、トイレのドアの陰から」
男は確かに七分刈りだったが、新幹線で見かけた男とは似ていなかった。あの男は上背があり、胸も厚く、目つきが悪かった。落ち着きがない様子で、乱暴にタクシーを停めていた姿はいかにも堅気でない感じがした。が、写真の中の男はむしろ痩せっぽちで小柄だった。ややびっくりしたような目で、きょとんとこっちを見ている。
「これが、あなたの言っていた、やくざ者?」
仁は頷いた。「白金のフェアグラウンド・ホテルで、瓜崎ってやつと一緒にいた」
「瓜崎くん、死んでたのよ」
「ニュースで見た。足に錘が付いてたって?」と、憂鬱そうに、あまり触れたくなさそうに言う。
瑠璃には、それより先に聞きたいことがあった。
「どうして松本に? こういうことがわかってたの?」
いや、と仁は首を横に振った。「まさか栞さんと、あの男が会うなんて。思いも寄らなかったっす」
「じゃ、何で彼女を追いかけてったの?」
なんでだろうなあ、と、仁は本当にわからなそうだった。
「松本に行く気なんか、さらさらなかったんっすよ。瑠璃さんと東京に帰るつもりでした。だけど、瑠璃さんはこれで何とか帰り着くだろう、って状態になったら、今度は栞さんは大丈夫かなって」
呆れたことに仁は、瑠璃と栞、それぞれの保護者のつもりでいたようだった。
「心配になったんっすよ。あの人、死ぬんじゃないかって」
「彼女が? 自殺ってこと?」
言われてみれば、梓川沿いを一心に歩いていた栞の後ろ姿は、そんなふうに見えないこともなかった。
「あの人ね、日本橋のうちの店で暴れてくれたのよ。ショーウィンドウも品物も割って。鮎瀬くんのことだって、夫との夜の生活のたびに持ち出して、変なプレイしてるみたいだし」
絶対とは言い切れないが、まあ自殺するタイプではなかろう、と瑠璃は言いたかった。
「確かにね。鮎瀬って人との約束の地だからって、松本に行ったと思ったら、これですもんね」と、仁も写真をひらひらさせた。
だが、どういうことなのだろう。
栞の口から、瓜崎の名が出ることはなかった。そもそも栞は、上高地で鮎瀬が会っていたのが瓜崎という同級生だということすら、知らなかったのだ。鮎瀬は、どこかのやくざ者と瑠璃のことで交渉するはめになり、その男に殺されたと思っていた。
その栞が、死んだ瓜崎と共通の知人を持ち、松本で会っていた。それがまさに、やくざ者と呼べる男だという。
「栞さんの乗った観光バスは、土産物屋だの湖だのを廻って、松本の霧笛楼で夕飯、ってスケジュールでした。だから俺、先回りして霧笛楼にいたんっす。窓際の席に。で、バスが着いて、他の客は入ってきたけど、栞さんの姿がなくて。店を出て通りを捜したら、栞さんがいて、そんで、こいつが現れて」
「赤外線カメラなんて、よく持ってたのね」
ICレコーダーも、と仁は言った。
「もし夜まで上高地にいたら、野生動物の生態が撮れるかもって。鳴き声も。で、この店で声を拾おうとしたんだけど、男はぼそぼそ声で。盗聴器をいつも警戒してると、ああいう話し方になるってね。栞さんは黙って聞いてるだけだし」
仁はデニムジャケットの胸ポケットから、ICレコーダーを取り出した。再生ボタンを押すと、録音機はカスカス音をたて、男の低い声が一瞬、むしろ落ち込むように響く。
が、黙って聞いているだけ、と言われた栞の方は、ときどき声を上げていた。どうして、とか、だって、とかと思しき、ダ行の音がとりわけ耳につく。いずれにせよ、話の内容は推測できない。
「結構、親しそうっすよね」仁があらためて気づいたように言った。「少なくとも、初対面じゃないな」
栞はこの男が、駆け出しカメラマンの仁さえ見覚えがあるようなやくざ者だとは思ってないのか。だとすれば、鮎瀬と会っていたやくざ者、という栞の言葉に、この男を結びつけているのは、自分たちだけということになる。
「で、この後、二人はどうしたの?」
「旅館まで彼女を送っていってから、こいつはタクシーに乗って行っちまいました。田舎で交通が少ないから、こっちも車で尾けるっても、ばれそうで」
すると、いったい何の用だったのだろう。男と栞の関係が何であれ、わざわざ松本で会う必要があったのだろうか。
「こいつ、松本に自宅だか、実家だか、あるんじゃないかなあ」と、仁が言う。「何となく、っすけど。やたら土地勘あるって感じで」
ならば、わかる。上高地に来たついでに、栞が立ち寄ったということなら。しかし同時に、それは二人が昨日今日、知り合った仲ではないと示すように思われた。
「たまたま、古い知人なのかしら」
「やくざとたまたま、ねえ」
めずらしく皮肉っぽい口調で仁は呟く。しかも、瓜崎とも行動を共にしていた男だ。偶然とは考えにくい。
「瓜崎くん、この男に殺されたのかな」
強い疑念は口に出したとたん、確信に変わってしまう。
「で、警察は何て?」
仁が唐突に尋ねた。「あったんでしょ、事情聴取。最後に瓜崎さんに会ったの、瑠璃さんだし」
ええ、と瑠璃は頷く。「あのビアホールで何を話したか、聞かれた。だって、その日より前に、瓜崎くんと接点はなかったんだから」
「姫子さんって人が、亡くなった件は?」
瑠璃は首を横に振った。いっさい触れられなかったのは、姫子の息子が瓜崎の種だと言われていることで、瓜崎の妻に遠慮があってのことだったろうか。
「メールが送られたタイミングについては、結構しつこく聞かれたけど。その内容のことは何も。わたしと瓜崎くんの、男女関係みたいなものを疑う様子もなかった」
それとね、席に忘れ物があったとか、と瑠璃は続けた。
「店からも連絡があったの。スタンガンのケースだって。女持ちで、そんなに大仰なものじゃないらしいんだけど」
(第22回 第11章 後編 了)
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