ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
12(後編)
「昨日、伯母さん来て、掃除してくれた。御飯も」
あそ、とボン自身も、親戚の叔母か何かのように応えている。
やがて幅広いトレイにデリのサラダや揚げ物を載せて運んできた。ボン子が拵えてきた握り飯と煮物も並んでいる。
「あら、美味しそう」
ただ遊びに来ただけのように、瑠璃は紛らわしたくなった。実際、来た理由が何なのか、よくわからなくなっている。少年は別に瑠璃に会いたがっていた様子も、訊きたいことがある気配もない。
結局はボン子が、史朗と瑠璃を会わせたかった、というだけだろうが、ならばその目的は何なのか。
「はい、はーい。食べますよお」
ボンのかけ声で、箸を取る。父親を亡くしたと言うなら、精進料理とかいう発想はないものか、と瑠璃はちらっと思ったが、まあそれも難癖というものかもしれなかった。
「大学はどこを受けるの? 南園?」瑠璃は陽気に訊いた。
受かれば、と少年は照れ笑いして、唐揚げにかぶりつく。
「だいじょぶ。絶対だよ。だけど国立も受かると思うんだよね」と、ボン子が言う。「東大ならさ、迷うことないけど。他の国公立だと微妙だよね。南園、就職いいからね」
そのときは国公立に、と史朗はもごもご言う。両親のない子なのだ。当然だろう。
「ここのローンは?」と、瑠璃はつい訊いた。親のない子が一人住むマンションとしては、やはり豪勢に過ぎる。
姫子の生命保険で完済できるって、とボン子がおにぎりを頬ばったまま答えた。
「手続きが終わらないとかで、なんだかまだ下りてないけど。ほら、強制的に入れられるやつ。ローン組むときにさ」
「学費は、伯父さんが貸してくれるって」と、史朗が思い出して、ボン子に報告するように言った。「当面の生活費も。大学入ったらバイトして、あとは何とかする」
「貯金は?」と瑠璃は尋ねた。
ああ、とボンがあやふやな声を上げた。「ここの頭金、たいへんだったんじゃないかな。ね、」
「何もないです」と高校生はあっさり言った。
「ここが残れば、十分だよ。史朗くん、頭いいもん。やっぱ理系だし、大学さえ出れば、さ」
大学院も行きたいけど、と史朗は呟いた。
「行けるよ。そう、親に似て、研究者肌だもんね」
高校生をがっかりさせまいとすればするほど、ボン子の慰めは矛盾を露呈する。ただ、史朗は確かに、姫子には似ている気がした。同性の親子ほどには、そっくりとはいかないが、眉の付け根とか、話すときの唇の引っ張り方とか、些細なところにふと感じる。
「立て続けに、お父さんも亡くなってしまって」
瑠璃は言い出した。こんな話を続けていても仕方がない。早くはっきりさせた方が気楽だった。
「それは、最初からいないので」と、史朗は淡々と応じる。
「いたじゃない。すぐそこに」ボン子は宙を指した。
天国、か? と瑠璃は一瞬、思った。
「瓜崎くんの自宅、そこなんだよ」
え。瑠璃は耳を疑った。「同じマンション?」
ううん、とボン子は慌てたように返事をした。「あっちの高層マンション。その最上階」
「偶然なの?」と、息子の方に訊いた。
史朗は首を横に振る。「僕は、何も」
「どっちが先に?」と、今度はボン子に訊く。
「瓜崎くん」
ボンは思い切ったような、やや投げやりな答え方をした。
「奥さんの御実家が世田谷で、いずれそこに同居するつもりか何かで、近くに賃貸を借りてたみたいなんだけど。この辺りのマンションが出来たら、それが気に入ったのか、いきなり越してきて」
東戸塚。
そうだった。あのビアホールで、どこに住んでるの、と訊いた覚えがある。
「その一年ぐらい、後になるのかな。姫子が、ここを買って。瓜崎くんとこのマンションは竣工が早くて、もう埋まってて」
「どうして、」と尋ねようとして、史朗の耳が気になった。こんな話をなぜ、この子の前でするのか。
「最初は姫子もただ、ここが気に入ったからって。通勤に便利だし。あたしも瓜崎くんが近くにいるなんて、知らなくて」
姫子が言い出したのは、三、四年経ってからのことだった。
「驚いちゃって。それまで姫子の口から、瓜崎くんの名前を聞くことなんか、ほとんどなかったから」
姫子はよほど瓜崎に未練があったのか。単なる嫌がらせにしては、手間もコストもかかりすぎる。
「うーん。って言うより、やっぱ史朗くんのため、かな」
「お父さんの近くに、ってこと?」
「うん。向うの子供たちに引けを取らせたくない、って」
瑠璃の頭の中で、一気に時間が遡った。 比目子。そう、まさに比目子の言いそうな台詞だ。
「瓜崎くんとこは当初から、夫婦仲がうまくいってなかったみたいなの。大学院生なのに結婚したりして、自分のせいだけどさ。要するに瓜崎くんから見れば、あの奥さんって、」
馬鹿すぎる、と瑠璃は呟いた。
「そういうことよね」と、ボン子は史朗の手前を意識してか、大きく頷いた。
「まあ、素直で可愛いかったんだろうけど。で、姫子と付き合うようになって。姫子は当然、離婚してくれるもんと思ってた。ところが、子供が出来てたんだなあ」
「あっちに?」
「そう。それでも別れてくれるものと、姫子は思ってたみたい。でも瓜崎くんはやっぱり、だんだん遠ざかるみたいになって。だけど、姫子の方も妊娠がわかって」
「また、そんなときに?」
何という不用意な男だろう。まったく繁殖力旺盛と言うか。
瑠璃は思わず舌打ちしそうになり、その赤ん坊が目の前の史朗だと気づいた。
「そんで姫子を取るか、奥さんを取るかじゃなくて、どっちの子を取るの、みたくなって。選べないよね。子供は一緒だもん」
瑠璃は頷いた。史朗はテーブルに視線を落とし、黙って話を聞いている。大人しい子だ。自分だったら堪えられない。
「で、結局、離婚しなかった。姫子は中絶する気はさらさらなくて、大学院を辞めて働くことになったわけ」
やはり、瓜崎の将来を嘱望する担当教授が、人も羨む好条件の就職先を斡旋したのだった。当時は県議会議員だった、瓜崎の父親も間に入って収拾を図ったらしい。
「その辺のことは、姫子も詳しく話そうとしなかったから。交換条件として口止めされたのを、律儀に守ってたのかな」
そのわりには、近くのマンションに越してきたりするのは、どういうつもりだったのか。
「張り合う気持ちだけは強かったんだよ。自分が奥さんに負けたってのは認めたとしても、母親としてはさ」
瑠璃は、あの同窓会での姫子の赤いスーツを思い出した。どいつもこいつも野暮ったいと、どこか見下す気分でいた瑠璃の目を覚ますような、鮮やかで洒落たスーツだった。
そして、最初に会った銀座の路地で。展示会場への搬入の最中、話しかけてきた姫子は、両手いっぱいにブランドの紙袋を下げていた。あの赤いスーツも、そのとき買ったものかもしれない。だがあの量は、それだけではなかったろう。いつもあんな買い物をしていたとしたら。そして、このマンション。
「姫子には借金があったんじゃない? ここのローンは別として」
瑠璃は尋ねた。子供の前で、と思ったが、残された当事者といえば、この子だけなのだ。
借金、っていうか、とボン子は言葉を濁す。
「火の車、ってやつでした」と、史朗が口を開いた。
火の車。今の高校生がよく知り、使う言葉ではない。
日常的に、それを実感せざるを得ない状態だったということか。瑠璃自身、父親を失った頃を思い出した。
「母子家庭だから仕方がない、と母はよく言ってました。でも、だからって引けは取らせない、とも。矛盾の塊でした」
子供っぽくはなく、不満げな口調でもなかった。母親の死によってできた距離感も自覚している。賢い男の子だ。瓜崎家の子供らと張り合うなら、それだけで十分だったろうに。
「亡くなったときにあったカードローンやなんか、四百万ぐらいは親族で分担して返してしまったみたいよ。このマンションは残ったんだし」と、ボン子は取りなすように言う。
カードローン。それに学費と当面の生活費。この子は成人前から、親族にずいぶんと負い目を感じることになる。
「母は宝飾品とか、絵をだいぶ買ってまして。いざとなったら、それを売って、とよく言ってました。で、売ったんですが、まあ、二百万ぐらいにしか」
そうなのだ、と瑠璃は息を吐きそうになった。骨董ですら、一般には売値は買値の半分。ブランドの宝飾品は高級でも量産品に過ぎないし、現代絵画に至っては、よほど目が利かないかぎり、たいていクズ同然だ。よほど量があったのか、二百万円になったなら、まだいい方だろう。
ね、とボン子は、横から瑠璃の顔を覗き込んだ。
「姫子が亡くなったなら、瓜崎くんが後見すべきだ、って思うのは、当然じゃない?」
瓜崎は、姫子をよく知っていたはずだ。もとより、彼女が張り合おうとした気持ちを理解できないはずがない。
そう考えればそうだが、その瓜崎も死んでしまった以上、どうしろと言うのか。ましてや瑠璃に。
「瓜崎くんの遺産から幾分かでもくれるか、親族が少しでも援助金を出すか。どっちでもいいと思うけど」
どっちでもいい、とボンは軽く言うが、それは史朗を瓜崎の子と認めることになる。覚えのある本人が死んだ今、いっそう難しくなったに違いない。
「DNA鑑定してもらったら?」瑠璃は言った。「火葬される前にでも、髪の毛を取っておいてもらって」
「取っておいてもらってって、誰に頼むのよ」
瓜崎の家族がやってくれるわけはない。まだ検死してるならば、警察か。そういえば、瓜崎の妻の父親は警察官僚だった。しかし、だからといって邪魔立てなどするだろうか。
「弁護士に相談するしかないんじゃない? 子供の権利を守るために、強制的に鑑定する方法はないか、って」
弁護士費用なんて、とボンは呟いた。「持ち合わせてないよ、ね?」と、史朗の顔を見る。
「だって鑑定すれば、はっきりするじゃないの。そしたら瓜崎の家からお金が出るんだし」と瑠璃は言う。
「でもさ、弁護士だの、強制だのって騒ぎになると、みっともないから。あっちの家はすごく嫌がると思うよ」
「嫌がることをさせるのが、強制じゃないの? はっきりさせなきゃ、何もしようとしないんだから」
「だからさ、はっきりさせるんだ、ってわからせれば、それでいいんだってば」
どういうこと、と瑠璃は訊いた。まったくボン子の物言いは、およそ技術者とは思えないときがある。
「もし鑑定すれば、史朗くんが瓜崎くんの子だって、はっきりするんだぞって。それさえ相手に伝わったら、もう鑑定するには及ばないでしょ?」
まあ、そうだけど、と瑠璃は渋々、頷いた。要するに脅迫に近いし、そんなふうに持って回って考える必要があるのか。
「だから、瑠璃が言ってくれればいいのよ。瓜崎くんが、自分の子だって言ってたって」
「そんなこと、」
「ねえ。でなきゃ、姫子が浮かばれないじゃない。姫子、かわいそうだ。皆、瑠璃のこと恨むよ」
なんで恨まれなきゃならないのか、瑠璃には理解できなかった。
「だけど、そんなことで向うの家族が納得する? 結局、鑑定しなくちゃならないなら、嘘の証言まですることないでしょ?」
「違うよ。瑠璃の口から、そう言ってくれることが大事なんだよ。そしたら向うは、もし鑑定したら、はっきりしちゃうかもって思うよ。そういう手助けをしてくれることで、瑠璃自身も」
もういいです、と史朗が遮った。
「僕は誰の子でもいいです。瓜崎さんも、もう亡くなったし」
母が悪いんです、と呟く。
少年にそう言われると、瑠璃は返事に窮した。
瑠璃はボン子とともに、マンションを出た。気まずい雰囲気はまだ残っていたが、コンコースを歩きながら、瑠璃は尋ねた。
「姫子って、わたしのことが嫌いだった?」
どうして、とボンは瑠璃の顔を見た。が、さして意外な質問ではないようだった。
「瓜崎くんが言ってたから。まあ、酔っぱらって言い合いみたいになったからね。口からでまかせだったかもしれないけど」
そんなことを話すつもりはなかった。これ以上、自分の評判を傷つけることはない。が、嘘の証言をしろなどと、理不尽な要求までされているのだ。今さらこのくらい、どうということもない。
そうね、とボンは頷いた。「好きではなかったかも」
「どうして? 比目子って、わたしが付けたんじゃないのに」
「そうじゃなくて。瑠璃が瓜崎くんを振ったから。瓜崎くんから、まんまと逃れたわけだよね」
「逃れた、って。ただ、あのときは」
「姫子は瓜崎くんと付き合ったこと、後悔してたと思う」と、ボン子は呟いた。
「あの子が産まれたじゃないの。それに、」
瑠璃は後ろを振り向いた。姫子は、そびえ立つあちらのマンションに住む瓜崎を追いかけ、こちらのマンションに越してきたのだ。
ボンは黙って首を横に振ると、山の頂から下りるスロープのようなエスカレーターに乗った。
ボン子とは、東戸塚の駅の改札で別れた。
彼女と史朗の関係は、叔母と甥みたいだった。史朗は利口そうだが、大人しい少年で、母親の友人とどうこうなど思いもよらない感じだ。少なくとも、いかにも肉体関係があるようには見えなかった。
携帯が鳴ったのは、駅のホームだった。仁からだった。
「はい」
反対側のホームに電車が滑り込んできた。
「何? よく聞こえない」
メールしてちょうだい、と叫んだ。
めんどくさいっす、とだけ、仁の声が聞こえた。連絡してきておいて、面倒臭いという言い草があるか。
わかりましたよ、とも言っているようだった。わかったというので電話を切ろうとした。
「記憶、失うこと、あるっすね。マイオトロンで、やっぱ」
(第24回 第12章 後編 了)
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