ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
10(前編)
リビングで電話が鳴っていた。
今、何時なんだろう。
明るいので朝には違いないが、瑠璃は枕から頭を上げることができなかった。
やがて留守電メッセージが流れるのが響いた。続いて誰かの声。ドア越しではっきりしないが、女だ。伝言を録音している。
もう眠ることはできなかった。瑠璃はベッドから起き出し、床に足をついた。足首からふくらはぎにかけ、両足に鈍い痛みが走る。
が、これなら筋肉痛の部類だ。変色までした爪先は大丈夫だった。
リビングまで行き、点滅する留守電ボタンを押した。
「ボン子です。ちょっと、ご相談したいことがあるんだけど。今日は家にいます」
ボン子? 何だろう。
すぐリダイヤルしたい気持ちを押さえ、瑠璃は服を持ってシャワーに向かった。
温い湯を太股から足へかけてゆく。痛みはない。痺れた頭がゆっくりと目覚めていった。
ボン子。鬱陶しいような警戒心が湧いてくる。あのパーティで再会した中で、最も好ましかったのに。無邪気でおおらかで、昔のままで。講座に来たときは、花材を扱うセンスに驚いた。それが。
本人からの連絡が途絶え、他人の口からあれこれ聞くと、実際以上の距離感を覚えるものなのか。今一瞬、留守電から流れたボン子の声で、その距離が唐突に縮まった眩暈に、本能的に警戒しているだけかもしれない。
シャワーを出ると空腹を感じた。夕べ、東京駅からタクシーで帰り着いた後に、冷蔵庫の残り物を少し食べ、病人のように身体を拭いただけだった。浴室に入るのが怖かったのだ。
タクシーを降りたとき、無論、周辺には怪しい影も車もなかった。それでも深夜になるまで、部屋の窓から何度も通りを見下ろした。
ぐっすり眠った今、尾けられ、追われているという妄想は、さすがに霧散していた。
瑠璃は紅茶を淹れ、冷凍したパンを焼いた。
栞から聞いたことは、どの噂とも違っていた。
とりわけ上高地で鮎瀬が会ったのがやくざ者で、証拠も残さずに彼を殺したのだ、といった話は二十年以上前にボン子から、後輩の栞に伝えられたという。だが、それも栞の言い分だ。ちょっとおかしな栞の頭の中で捏造されたのではない、とは言い切れまい。
しかし、ボン子の印象を変えた決定的な事実。実々から聞いたそれはおそらく、事実と思っていいのだろう。姫子の葬儀で見かけた少年にボン子が手を出し、怒った姫子と絶縁状態にあったという。
最初のボン子の姿がまた、メビウスの輪のように歪んで映る。
絶縁状態だったにも関わらず、姫子が倒れた後のあの会場で、ボン子はサンドイッチを摘みながら、まるで姫子の親友であるかのように、瑠璃にあれこれ話して聞かせたのだ。
ボン子が警察の事情聴取を受けているのは、ただ単に高校生とのアフェアを咎めるべきだから、というに留まらないだろう。そのことで姫子の恨みを買っていたから、というだけでもない気がした。
姫子からはさんざん罵られて、思い出したくもない相手だろうに、それをおくびにも出さなかった。ボン子の年齢に似合わない無邪気さと、それは符合するようで妙にずれている。
朝食を終え、瑠璃は電話機に向かった。三回のコールで、ボン子が出た。
「瑠璃です。相談って、まあ何ごと?」
逮捕でもされそうなの、と尋ねかけてやめた。それでも意識して、冗談めかしはした。先入観に捕らわれるまい、とも思っていた。
「相談っていうか」と、ボン子は珍しく口ごもる。「ただ話したくなって。ね、どうなってるの? いったい」
「何が?」
「瓜崎くん、いなくなっちゃって。瑠璃だって、そのことで」
「わたしは関係ない」と、瑠璃は遮った。警察に事情聴取を受けているボン子に、同類扱いされるのは真っ平だった。
「奥さんとの間で、何かあるんじゃないの? こっちには知りようがないことがあるのに、気を揉んだって始まらないでしょ」
「でも瑠璃、瓜崎くんの奥さんに会ったんでしょ」
何が、でも、なのか。それをなぜ、知っている。あの四人、柿浦からでも聞いたのか。
「ええ。奥さんが訪ねてみえたけど。つまり、それは」
「姿を消す前、最後に会ったのが、瑠璃だった」
今度はボン子が瑠璃を遮った。「しかも、瓜崎くんと瑠璃が一緒にいると思われてた」
「誤解よ」瑠璃は言った。「メールのことも、知らないわ」
「メール?」オウム返しにボン子は呟く。どうやら柿浦も、そこまではしゃべらなかったらしい。
「夫婦の問題があるとすれば、きっと姫子とのことでしょ。他には考えられない。だって現に、子供がいるんだから」
そのボン子の言葉に、瑠璃は血の気すら引いた。なんという厚かましい。その子供に、ボンは何をしたのだ。
そうか、とやがて腑に落ちた。ボン子は、瑠璃がまだ何も聞いてないと思っているのだ。
「子供って、もう高校生でしょ」瑠璃は言ってやった。ボン子に、いつまでもこんな態度をとらせていてはいけない。
「あなた、その子と親しくしてたのよね」
そりゃ、とボン子は平気で返事をする。
「姫子が命懸けで産んだ子だもの。瓜崎くんに似てるよ、頭よくてね。お年玉だって、毎年上げてたんだから」
お年玉。瑠璃は苛々した。中学生になったら、セックスがお年玉か。
「わたしも訊きたいことがあったのよ」瑠璃は言った。「警察の事情聴取の内容。姫子の解剖結果って、結局どうだったの? ボン子が事情聴取されたのは、その子が十八歳未満だから? それとも、そのことで姫子と険悪だったから? その子と会えなくなって、姫子をひどく憎んでたと疑われて?」
受話器の向うは、しんと沈黙していた。
「姫子には絶交されてたんでしょ。同窓会で久しぶりに会って、仕返しの機会は、あのときしかなかったんじゃないか、って警察で言われたの? 姫子が運び出された後、あそこでわたしとサンドイッチなんか食べて、それも毒なんか入れてません、ってポーズかって訊かれなかった?」
警察に代わってでも、瑠璃自身が問いただすべきだろう。アリバイ作りか何かのために、何も知らない自分を利用したのか。
ボン子が姫子に何をしようと、問題ではなかった。ただ、あの同窓会場からおかしくなり、面倒に巻き込まれたのだ。受話器に向けられた自身の言葉に煽られ、瑠璃の苛立ちは頂点に達した。
「同級生の息子に手なんか出して。それは勝手だけど、何なの? まるで、なかったことみたいに。警察が疑ってたのは、そういう人間性なんじゃないの?」
高梨に似ている、と一瞬だけよぎった。この責め方、いきり立ち方が感染したかのようだ。が、募る勢いでそれも振り払った。
「あんたの後輩の栞。そう、講座のチケットを譲った栞よ。彼女に、あることないこと、言ったでしょ。わたしがやくざの女だとか、鮎瀬くんがあんな目に遭うのを知っていて行かせたとか。覚えてないかもしれないわね、二十年も前だもの。あんたは本当に便利この上ない善人だわね。都合の悪いことは全部、」
何のこと、と囁き声が聞こえた。
「そう? 何のことか、教えてあげる」
まったく、やくざの女めいた脅しに聞こえていたかもしれない。このボン子は、青山の教室で優雅に花材を扱っていた瑠璃の姿を見ているのに。が、もはや気取っている堪え性はなかった。どう思われようが、互いにただの同級生なのだ。
「栞のお陰で、ひどい目に遭ったわ。昨日なんか上高地に行かされたのよ。この足、見せてあげたいわよ。それも、あんたが栞に嘘八百、でたらめばかり吹き込んだからよ」
そして仕事仲間の若いカメラマンまで瑠璃をコケにし、七分刈りの男に追われる恐怖に晒された。すべてこいつのせいだ、と瑠璃は思った。
「栞は、うちの店のショーウィンドウをめちゃめちゃに毀したのよ。あんたにも損害賠償請求するからね。この足の治療費と、」
わかんないよ、と堪りかねたようにボン子が叫んだ。
「何なの、それ。言ってること、一つもわかんない」
逆切れか。都合の悪いことは認識しない、か。が、瑠璃はふと、冷静に返った。
「史朗くんとは昨日、一緒に食事したよ。姫子と喧嘩なんかしてないし、史朗くんに手を出したって、何なの? 姫子のことで警察が来たのだって一度だけだし、そんなことなんか」
そんなことなんか、警察で訊かれてないとでも言うのか。
「誰が言ったの? そんなひどいこと」
「誰って。実々が」
「実々が。どうして?」
どうしてだろう。瑠璃は考えた。
実々。仁に手を出そうと画策していた。男の子に関心があるのは、彼女の方だ。ただ、皆が言ってると言っていた。つまりは、噂だ。
「事情聴取は、一回だけだったの?」
そうよ、とボンは答えた。
「毒を盛られたって、何のこと? そんなの聞いてないよ。急に亡くなったから、警察が一応、調べてるだけって」
単なる病死。では何だったのだ。高梨に言われたことは。
「だけど会場のビデオ、警察に提出したって」
「防犯ビデオのこと? 何かあったら見るんじゃないの。どうせ警察が立ち会わないと見られないし」
そうなのかもしれなかった。集合住宅や公共施設の防犯ビデオは、プライバシーの問題が出てくる。
「悪かったわね。突然」
瑠璃は言った。姫子のことで警察が動いているとは思えないというのは、少なくとも朗報ではある。信じてよいものかどうかわからないが、瓜崎や柿浦の言葉も結局、高梨一人の言い分を受けてのことだとしたら。
「だけど、じゃ、どうして電話してきたの? 相談ごとでもないって言うなら」
ううん、とボン子は口ごもった。
「やっぱり相談かな。史朗くんのことだけど。姫子の息子よ、さっき話に出た」
もう、そんなこと言われてるなんて、とぶつぶつ言う。
「男の子に親切になんか、するもんじゃないわね。でもとにかく、あの子は身寄りがなくなったわけでしょ」
「そう?」
姫子の葬式では、親族らしき人たちと一緒にいた。身寄りがない、という大時代な言い方はそぐわない。
「うん。今は一時的に姫子の妹宅にいるけど。お祖母さんは身体を壊して、長男と暮らしてるから」
「大学進学に支障があるとか?」
かといって、瑠璃に何の相談だろう。カンパなのか。
「姫子は預貯金も残してると思う。勤め先は給与もいいし、姫子は無駄遣いなんか、しなかったし」
そうだろうか。銀座の路地でばったり遭ったとき、姫子が下げていたいくつものブランドの紙袋を思い出した。
「買い物は? 服を買うのが憂さ晴らしだったとか、ないの?」
沈黙があったが、「ううん、」とボンは否定した。
「五年でも、十年でも前の服を着てたよ。史朗くんのために、本当に一生懸命に髪振り乱して働いてます、って感じだった」
瑠璃はそれ以上は追及しないことにした。いろんな人の、いろんな記憶がある。二十数年前の瑠璃に関してもそうなのだ。まして、死者をや。
「だけど高校生で、お母さんを亡くして。父親もいないんじゃ」
かわいそうで堪らない、といった口調で、やや情緒過多な女教師じみていた。
「それで、このところしょっちゅう食事を作ったげたり、映画で気晴らしさせたりしてるの。ひどいこと、言う人がいるんだなぁ」
瑠璃は返事しなかった。それも傍目から見れば、四十過ぎのボンが高校生に遊んでもらっているだけだろう。ボン子と姫子が親友だったと思われているならともかく、また母親が死んだのをいいことに、と誤解されても仕方ない。
「で、瓜崎くんにあらためて、史朗くんを後見してもらいたいって」
「誰が? 姫子の親族が?」
ううん、あたしが、とボンは答えた。
「あたしがね、史朗くんを見ててさ。やっぱり父親に何とかしてもらいたいって思うんだ」
父親。しかし、まさにその点が、争われるんじゃないのか。
「たぶん、ね。だけど史朗くん、瓜崎くんとよく似てるよ」
そうだったろうか。瑠璃は少年の顔つきを思い出そうとした。
どちらかというと線の細い子だった。瓜崎の押し出しのよさとはかけ離れた印象がある。この歳になった目には、高校生など皆、頼りなげに見えるのかもしれないが。
(第19回 第10章 前編 了)
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