ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
9(後編)
「わたしはもう、引き上げさせてもらう」と瑠璃は言った。「あそこのツアー客たちについて右岸を行けば、戻れると思うから」
何しろ、靴がね、と、言い訳がましく足元を見る。
「わたしももう、戻ります」ふいに栞が言った。
意外な言葉に、瑠璃は栞の顔を眺めた。てっきり、鮎瀬が死んだ山の中まで入ってゆくつもりなのだと思い込んでいた。
「現場がどこかなんて、どうせわからないもの。調べてきたわけでもないし。でも、彼の足跡はわかったから」
「足跡?」
「そう。山に入るまでの」栞は言った。「ホテルを出てから、結局は今のルートでキャンプ地近くまで逆戻りして、登山メンバーの後を追ったんだと思う。キャンプ地にはまだ、わたしたちが残ってたから、顔を出そうと思えば、そうできたろうけど」
そうなのか、と瑠璃は初めて気づいた。
鮎瀬はホテルを出てから、山の中をショートカットして、登山ルートに接近したのだろう、と漠然と考えていた。というより二十年以上も前のそんなことについては、警察が捜査済みだろうし、今さら考える気にもならなかった。
「山の中をショートカットだなんて」と、栞は首を横に振る。
「迷うだけだし、木の根に足を取られて、よけいに時間がかかる。ホテルから梓川岸に出るまで十五分、観光客の倍のスピードで今のコースを行けば、彼なら登山を始めたグループに追いつける」
「彼なら?」
鮎瀬さんは健脚だったもの、と栞は呟く。
「肩の筋力も強くて、荷物を持っても身のこなしが軽かった。あのとき、単独登山するにはやや軽装備だった、って言われたけど、後から追いかける予定を最初から決めていて、スピードを出すためにそうしたんだと思う。山で迷ったり、一人でテントを張ったりするつもりはなかったのよ。鮎瀬さんはいつだって、ちゃんと考えてた」
栞の語る鮎瀬の姿は、瑠璃が知る同級生とは違っていた。
瑠璃と組んでいた実験のとき、鮎瀬はきわめて実際的で頼りになったが、同じ教室で当てられて返答できなかったり、試験前に慌てて他人にノートを借りたりもしていた。
肩の筋力が強い、先輩の鮎瀬。小柄、むしろ華奢で、物静かな少年めいた雰囲気の同級生の鮎瀬とは、違うものを栞は見ている。
亡くなった鮎瀬を愛惜はしても、長く恋慕する気持ちは理解できなかった瑠璃にも、やっとその理由の一端が覗けた気がした。
「そうすると、ホテルから追ってきた誰かが、山に入ってからの鮎瀬さんをどうこうするってのも、なかなか難しいっすね」
仁はそう言い、立ち上がると、セルフサービスのお茶を淹れ、プラスチックの湯呑みを三つ運んできた。
もう雨は止み、藁葺きの屋根越しに青空さえ覗いている。山の天気は変わりやすいというのは、こういうことだろう。
仁の言う通りだった。サークルの中でも健脚だったという栞の言葉が正しいなら、その鮎瀬を四、五時間も追い、さらに山で襲うなど、怪物並みの体力だ。瓜崎は論外だった。やくざ者と会っていた、という噂がどこから出たものにせよ、少なくともそいつはトレッキングシューズを履いてなくてはなるまい。一目でやくざ者と見られ、噂になるような誰かが、山で動きよい服装をしていたというのもおかしな話だ。
「さて。じゃ、行きますか」
ここまで来て、何も掴めたわけではなかった。瓜崎の行方もわからない。栞と仁とでたまたま符合した、やくざ者、と呼ばれる存在も、単なる言葉の一致に過ぎないものらしい。
今頃、瓜崎は自宅に戻っているかもしれない、と瑠璃は思った。
この短い旅から帰れば、瑠璃が巻き込まれたメールの件は何かの手違いで、姫子の死も結局は何ということもなく、過去の出来事とされているのではないか。鮎瀬の死が、そうだったように。
右岸路は板を張られた通路で、足元ばかり見るようではあったが、木々の間、また高い所から覗く梓川の流れは左岸以上に美しかった。明け方近くに起き出し、新幹線と高速バスを乗り継いでやってきたのは、ただ二人の勢いに押されただけだったが、まあ、甲斐もあったというものだろう。
河童橋まであと何キロ、という表示が目に入る頃にはしかし、瑠璃の足の痛みは限界に達しそうだった。いったい、こんなところまで何をしに、と馬鹿らしい気が強まった分、歩く速度はかえって早まることになる。
「大丈夫ですか?」
仁が振り返った。さっきまでと違い、おざなりな心配でもない顔つきだ。瑠璃は首を横に振った。
大丈夫なんかじゃないし、もう手遅れだ。やっぱり若い子は気が利かない。心配するなら歩き出す前に靴を見て、止めて欲しかった。
突然、目の前が開け、川の浅瀬が拡がっていた。
河童橋。さっき見たときは、これほど大きかったろうか。
栞は他の観光客をやり過ごしつつ、風景に立ちふさがるように立っていた。その後ろから仁が近づき、脇に立つ。
瑠璃は足を引きずり、ゆっくり二人に近づいた。
「どうします?」と、仁が呟いた。
「もう少し行った先の宿で、ひと休みしますか。温泉が出ているそうだし、空きがあればそこへ一泊しても」
「松本に行く」栞が言った。「さっきのホテルに、夕方六時半に松本行きの観光バスが着く。三人まで同乗させてもらえるって、そう交渉してあるから」
いつの間に、と思わず瑠璃は訊いた。
「昼食の前よ」栞は答えた。
「ホテルに着いたとき、観光ツアーと一緒になったでしょ。コンダクターに話して、会社に了解を取ってもらった。途中参加の申込書も書いた」
「なぜ松本に?」と仁が尋ねた。
「行くはずだったの、あのとき」栞は囁くように言う。「山から下りたら、キャンプのわたしたちと合流して、松本に行こうって」
「鮎瀬くんも?」
「鮎瀬さんが、よ」栞は瑠璃を見返した。「彼がそうしようって。松本城を見たいから、って」
「わたしは帰るわ」瑠璃は言った。
冗談ではない。こんな無為な旅は一日でたくさんだ。疲れ果てたなら一泊して、と頭の隅にはあったものの、日帰りと思えばこその夜明けからの強行軍ではなかったか。
そうっすね、と仁も頷く。
「僕も明日、仕事の打ち合わせがあるんで」
仁は、今さっき自分が、温泉旅館で一泊しようかなどと言ったのを忘れたようだった。
「ちょっと待ってて」仁はふいに河童橋に向かって走り出した。
そんな脚力がまだ残っている、若い背中を茫然と見るうち、仁はずんずん橋を渡り、向う岸の人の群れに紛れ込んだ。
「松本城を見たがったのは、本当に鮎瀬くんなの?」
瑠璃は栞に、そう尋ねていた。
「誰か他の人に、同調したわけではなくて?」
「間違いないわ。どうして?」
浅瀬の輝きを見つめたまま、強い口調で問い返す栞に、説明する気にはなれない。
やくざ者と談判した、ましてや山の中で襲われたというのは栞の聞いた噂に過ぎないにせよ、鮎瀬は瑠璃のことで瓜崎と話しに行ったのではなかったか。鮎瀬がどんなつもりだったにせよ、それは二十歳の男の子の思考回路に、かなりのプレッシャーを与えたはずだ。しかもそれが済めば、登山グループに追いつかなくてはならない。そんな厄介な計画を抱えた身で、帰りは松本で城を見物して、といった発想が湧くだろうか。理工学部だった鮎瀬の口から、瑠璃は少なくとも、城好き、歴史好きを思わせる言葉を聞いた記憶もない。
橋を渡って、仁が戻ってきた。
先ほどと違い、ゆっくりした足取りだった。二人に近づくと、向う岸の観光バスの一台を指差す。
「もう少し歩けますか?」瑠璃に訊いた。「あのバスが、これから大正池を巡って、長野駅に直行するそうっす。怪我人が出たからって、二人乗せてもらうことにしました」
「怪我人って、もしかして、わたしのこと?」
「そう。肩、貸しますから、足、引きずってください」
「嫌よ。みっともない」
「じゃ、どうするんっすか。あと二キロ半歩いて、温泉宿で休んで、タクシー呼んでもらいますか?」
あと二キロ半。
瑠璃は不承不承、仁に従うことにした。
「靴、脱いでみてごらんなさい」仁は言った。「怪我したに近い状態になってますって。俺、別に嘘ついたわけじゃないんで」
仁は腕時計を眺め、「時間、大丈夫っすか?」と栞に訊いた。
「六時半までにホテルに戻らないと。松本行きの観光バス、出ちゃいますよ」
梓川辺を栞は立ち去っていった。瑠璃より細い身体で、離れてゆくにつれて、足元のトレッキングシューズが固まりのように見える。その歩みは着々と逞しかった。
肩まで借りるのには抵抗があったものの、バスのコンダクターの視線を意識するまでもなく、仁の腕に縋って河童橋を渡るはめになった。立ち止まっていた間に、足に血が溜まって張れた気がした。が、靴を脱いで確かめるのは、我が家に帰ってからにしたかった。
観光バスのコンダクターは親切にも、車内を歩かずに済むよう、一番前の席を都合してくれた。ようは仁は、栞のやり方を即座に真似て手配してくれたわけだが、子供っぽかろうと何だろうと、その躊躇のなさは逞しさでもあった。
長野駅に着くと、別の乗客までもが瑠璃を気遣い、コンダクターが新幹線の切符を手配してくれると言う。
「指定が取れますから、ご一緒に」
「一枚で、いいです」と仁が応えた。「東京駅に着いたら、この人をタクシーに乗せてもらえますか」
僕、これから松本に行きます、と瑠璃に囁いた。
「松本? どうして」
瑠璃は思わず仁を見つめた。腕に縋りついたまま、そんな目で若い子を見るのは言うまでもなく、みっともなかった。
「城の写真、急に撮りたくなっちゃって」
仁は瑠璃と視線を合わせず、俯いて答えた。
新幹線の隣りは空席で、瑠璃はそっと靴を脱いでみた。
厚手の靴下を剥ぐと、左足は肉刺が三つ潰れていた。右足は一つ。ただし親指の爪が内出血して黒くなっている。これでは東京駅の構内を歩くのがやっとだろう。タクシーで自宅に乗り付ける以外になさそうだった。一泊の宿賃と思えば、タクシー代は惜しくないが、黒くなった足の指爪を眺めて、瑠璃は情けなかった。
仁が瑠璃とともに帰るふりをしたのは、結局は瑠璃を追い返し、栞と二人きりになるためだったのだ。
それならそうと、最初から栞と松本へ行けばいい。小知恵のつきはじめた若い子に、ダシに使われたのも腹立たしいが、自身が巻き込まれた意味不明のトラブルに関し、仁を一瞬でも頼みにしたのが何より悔やまれた。
誰もが自分のことで頭がいっぱいなのだ。ましてや、あんな男の子は。それにしたって変わった女の趣味だこと、と瑠璃は靴下を直し、靴を履いた。
車窓の外は暗く、すでに日はとっぷり暮れていた。
松本といっても広い。仁は栞と会えただろうか。
人の気の合う、合わないは微妙なものだ。栞の、死んだ鮎瀬に対する説明のつかない情熱とみえるものに、どうやら仁は本当に魅入られたらしい。それが実々との情事の寸前、同級生の瓜崎と遭ってからの彼女の態度に、その気が萎えたという繊細さと同じ類いの感覚かどうか、定かではなかった。
東京駅に到着する間際、瑠璃は立ち上がって足の感覚を調べた。
休めば休むほど、足が自分の具合の悪さに気づくみたいで不安だった。が、少しはマシになっていた。足首から先は相変わらずだが、ふくらはぎの筋肉痛が緩んでいる。
と、向うの座席の男と目が合った。七分刈り。黒のスーツ。そのシルエットがシャープすぎる。
男は視線を外し、真っ暗なだけの車窓を見た。が、注意はこちらに集中している。間に挟まった空気の振動で、それが伝わってくる。
七分刈り。まさか。
七分刈りの男なんて、世の中にいくらでもいる。だがなぜ、自分を見張っているのだ。
コンダクターの女性が立ち上がり、瑠璃に微笑みかけた。付けさせられたピンク色のツアーバッヂが気になった。男には、瑠璃がこのツアー客の一人だとわかったろう。バスに乗る前、コンダクターには交通費プラスアルファの現金を渡したが、連絡先を記した書類も書かされた。個人情報保護うんぬんといったところで、結局は誰も、何も隠せまい。
列車が停まった。通路を伝い、駅のホームに降りた。コンダクターが瑠璃の背中のすぐ後ろについてくれる。他の乗客たちに紛れ、ツアー客らはエスカレーターを使い、コンコースの空きスペースに集った。小学校の遠足のような閉めの挨拶は、さすがにない。コンダクターが一度、旗を振って会釈し、散会となった。
コンダクターは瑠璃に寄り添って、タクシー乗り場まで連れていってくれた。とはいえ彼女が手に持った旗が気になる。ピンクの旗は振らなくとも十分、目立ち過ぎた。
タクシー乗り場には四、五人の客が並んでいた。タクシーは次々に流れて来る。
「どうもありがとう」瑠璃はコンダクターに言った。「もう、大丈夫ですから」
彼女は瑠璃の足元を確認するように眺めたが、形ばかりの礼儀であるらしかった。「では、お気をつけて」
ピンクの旗が遠ざかっていったことに瑠璃は安堵し、ツアーバッヂを外した。タクシー乗り場の順番は、もう次だった。
一つだけの手荷物を後部座席に放り込み、右足先を庇いながら乗車しようとしたとき、通りの後方が目に入った。
二、三十メートル手前で、誰かが道路に飛び出し、タクシーを停めている。
あの男だ。瑠璃は大急ぎで車に乗り、「青葉台」と告げた。が、目の前の信号は赤だ。
なぜ。瑠璃は振り返った。男に停められたタクシーの運転手は、ダメと言うように掌を振っていたが、男はその前から退かない。乗り場で待っている客らも何ごとかと、また不満げに首を傾げ、そちらを眺めている。
急いでいるだけなのか、偶然か。
あの広い東京駅のコンコースを横切り、山ほどの人混みをくぐって、同じ顔を見るとは。それも七分刈りの。
信号が青に変わった。
後方のタクシーは渋々、男に向かってドアを開いていた。
「混むようなら、脇道に入ってもらえますか」
瑠璃は運転手に言った。多少、遠回りされても仕方がない。行き先をわからなくするか、さもなくば後ろの車をまいて早く自宅に着くか、だ。
走り始めると、二台のタクシーの間にはトラックが入り込み、流れに従って何台もの乗用車が後方に付いたり、逸れたりする。
少しずつ瑠璃の気持ちは落ち着いてきた。いったい、何を考えていたのだろう。普段なら自分に男の目が留まることなど、何とも思わない。むしろ、当然だ、と感じるぐらいには自惚れている。
仁に、栞に見変えられて気が弱ってでもいるのか。あんな男の子の思いつきに振り回されて。だがそもそも、仁がちゃんと新幹線まで一緒にいてくれたなら、あの男がその七分刈りかどうか、と瑠璃が独りで気を回す必要などなかったのだ。
仁に言ってやる嫌味の一つでも、と考えながら、ふと思いついた。
もし、あの男が瑠璃を追っていたとするなら、どこから可能だったろう。観光ツアーに合流し、バスに乗った段階では、行き先も予定もわかってしまう。長野駅で先回りしていてもおかしくない。
それより前、梓川縁を歩いているとき、すでに尾けられていたとするなら。
鮎瀬の場合とはわけが違う。バレエシューズじみた靴を履き、足の痛い瑠璃を含めた三人連れだ。あの男の足元を見ておくべきだった。たとえ革靴だったとしても、ホテルからでも、さして苦もなくついて来られたろう。もしも男が瓜崎と一緒にいた七分刈りだったとするなら、ただ仁にさえ顔を見られないようにすれば。
二十二年前、鮎瀬の身に起こったのではと噂され、今日、あり得ないだろうと判明した尾行が、同じこの日に、瑠璃たちには起こり得たのかもしれなかった。
(第18回 第09章 後編 了)
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*『本格的な女たち』は毎月03日にアップされます。
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