世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十九、あれは生き霊
仕事へ向かう世田谷線の中から何となく気付いてはいた。足、特に左足の付け根の部分に違和感がある。そう思って振り返ると、真っ裸で土下座をしながら目覚めた時からかもしれない。動かしている時は骨が一本多いような、止まっている時はその余分な骨が膨張するような感じがある。簡単に言えば体調不良。早く治ってくれれば、と思いながら店をオープンした。
ほとんど差はないが、座っている方が立っているより僅差でマシ。それなのに今日は不思議と客が途切れない。あたふたする程忙しくはないけれど、一息つけない時間がだらだら続く。店を開けてから一時間ちょっとしか経たないのに、試着室へ四人も通したのは初めてだ。
客がいなくなったタイミングでいつものコンビニへ行き、サンドイッチとパックの牛乳を買った。今日は何も食べていない。普段はゆっくり帰るところだが、この流れがしばらく続きそうなのできびきび歩いて店へと戻る。一歩前へ出る度、やっぱり骨が多いような突っかかりがあった。歩くことに支障はないが気になって仕方ない。そしてどうやら予想どおり、朝からの流れは続いているようだった。
たった数分留守にしただけなのに、店の前には学生風の女の子がいて中を覗いている。遠くから見ても綺麗な色のワンピースだ。あの色は何だろう。黄色に少しオレンジが混ざったような色。山吹色、からし色、黄土色、と色の名前なら知っているが、肝心の色がはっきりと浮かばない。「イチョウ色」なんて名前の色、存在するのだろうか。とにかくそのワンピースを見て、俺は季節が秋になったことを知った。微かに残る夏の影も、あと数日で消えてしまうだろう。
「あ、いらっしゃませ。すみません。今すぐ開けますので」
仕事用のいつもより高い声を出しながらドアを開ける。すぐに入ってくるかと思いきやその気配はない。まあいいかとそのままレジ前に座って牛乳を飲んだ。やっぱり気にかかるのは左足の付け根。痣の次はこれかよ、と首の骨を鳴らした。玉子サンドを食べながら両足を軽く動かす。そんなに夢中になっていたつもりはないが、気付けばイチョウ色のワンピースを着た女の子がすぐそこに立っていた。
「あの……」
驚いて「おお」と声が出た。しかも変な格好で立ち上がってしまい、椅子が倒れてうるさい音を立てる。すいません、と謝ったのは女の子の方だ。
「大丈夫ですか。びっくりさせちゃって……」
いやこちらこそ、と言いながら彼女の声の低さに思わず顔を見た。視線が合ってしまったので愛想笑いでごまかすと、向こうも気まずそうに微笑む。僅かに残った口の中の玉子サンドを呑み込み、「何かお探しですか?」と尋ねた声はくぐもっていた。
「いえ、違うんです」
「?」
「アンドウさんが働いているのはこちらのお店でしょうか?」
アンドウさん、はあの安藤さんだろう。なんだ、知り合いだったのか。「そうなんですけど、今日はまだ来ていなくて……」とはっきりしない言い方になったのは、安藤さん本人が昨日、「顔出すかもしれません」と曖昧だったからだ。
そうでしたか、と更に低い声で呟いた彼女は「では、また来てみます」と頭を下げた。もし安藤さんと同じ歳だとしたら、ずいぶん大人っぽく見える。
「あ……、ちゃんと伝えておきますので……」
驚くほど当たり前の言葉しか出て来ない。綺麗なイチョウ色のワンピースは振り向くことなく店を出ていった。ドアが閉まってからようやく名前を聞き忘れたことに気付く。それでも追いかけなかったのは、足の付け根の違和感のせいだけではない。そろそろ安藤さんが来るだろう、という予感があったからだ。
ただ冷静に考えれば分かる。身体に不調を抱えているヤツの予感なんて当たる訳がない。その後、客の流れは途絶えがちになり、夕方が来る前にはいつも通りの状態へ戻ってしまった。本当、悪い予感以外はなかなか当たらない。もちろん安藤さんだって結局来なかった。連絡すらなかった。店長も休んだのでクローズまで一人きり。気楽といえば気楽だが、その分足の付け根の違和感が気にかかる。こういうのって病院行った方がいいのかなあ、と考えながら店を閉め始めていると、ようやく実のある連絡が来た。ナオからのメールだ。
連絡できなくてごめんね/お母さんを家まで送って、ようやくひとりです/今仕事? /今日会える? /お酒、付き合ってほしいです
ありがたい。付き合ってほしいのはこっちの方なんだ。今日一日、どうも調子がおかしい。空回りが続いている。元をたどればナオが出てきた昨日の濃厚な夢。いや、それ以前に安太の家に行ったところから、何かが段々とズレ続けている。了解、とナオに送るとすぐに返信が来た。
ありがとう/悪いけど一度家に帰ってシャワー浴びたい/こっちまで来てもらえる?
再び「了解」と送りながら、レジ金の勘定を始めたがここでもまた調子がおかしい。二度試してみたが、どうしても百十円足りない。レジ金が合わないなんて何ヶ月ぶりだろう。深く考えずに自分の財布から足しておく。明日見つかるならそれはそれで構わない。どっちみち店長はあんな感じだ。たとえ一万円足りなくても気付かないだろう。
北沢の駅へ向かう前に「大金星」へ顔を出し、その前には「マスカレード」の様子を窺った。一昨日ハイネケンを失敬した負い目があるので店には入らない。ナオ以外には雇っていないはずなので、店を開けているのはマスターのはずだ。去年、還暦パーティーをやったというから六十一歳。久しぶりに外人でしか勃たない彼の顔を見たかったが、酒の肴にするにはちょっと弱い。俺はそのまま「大金星」に移動した。誰かいるだろう、という予想は見事に外れ、店内には見知らぬ若者グループが二組と何度か見かけた中年バンドマン風モヒカンがひとり。やっぱり今日は調子がおかしい。何も言わずに「これでいいですか?」と大瓶を持ってきてくれたマドカちゃんが唯一の救いだ。
「お、ありがとう」
「今日はみんないないんですよ」
「また近くに安い店ができた?」
「だったら私もいませんよ」
ザーサイを乗せた冷奴をつまみながら、左足の付け根の不調を訴える。それは病院行かなきゃダメですよ、というマドカちゃんに「だよねえ」と頷き、「こういうのって何科に行くんだろ?」と訊いてみた。
「えーっと、正直分かんないですけど、骨ですよねえ。ってことは外科?」
「そうだよなあ。内科でも精神科でも眼科でもないよなあ」
「それは私にも分かりますよ」
出口の見えないこんな会話もいい肴だ。今日は知っている顔がいなくて正解だったかもしれない。何の話をしていても、最後は安太の話になりそうな気がするし、ならなかったらならなかったで気にしてしまうだろう。
いつもより早いペースでもう一本貰う。あいよ、と応えた店主のキンさんが「それって整形外科じゃないかな?」と話を進めてくれた。へえ、と感心した俺に「うん、多分整形外科ですね」と重ねたのは、斜向かいの中年バンドマン風モヒカンだ。立ち飲み屋は話が早い。そうですか、と応じると評判がいい病院を教えてくれた。下北沢の駅から徒歩十分圏内。出来るだけ早くに行ってみよう。助かりました、と礼を言って店を出てから思い出したのは、昼間に店に来た女の子のこと。イチョウ色という色があるどうかも、あのモヒカン紳士に訊けばよかった。
殺人的とはいかないまでも、肩と肩、背中と背中がくっつくぐらいに電車は混んでいた。当然座れないし、足の付け根をかばおうとしても、思うようには動けない。このまま狛江まで二十分弱。満員電車は本当に苦手だ。学生の頃はもっとひどかった。毎朝、乗車率百パーセントをオーバーしている状態の電車に乗り込まなければいけなかった。
真後ろにいる小太りの親父は、さっきから汚らしい咳を繰り返している。次、どんな仕事をやるにしても、こんな目に遭わないことが第一条件だ。ふう、と静かに息を吐く。やっぱりケチらずにタクシーを使えばよかった。
電車を降りてすぐ、ホームからナオに電話をかける。結構な数の乗客が降りていた。何も慌ててあの群れに混じることはない。大瓶二本で潤したはずの喉がもう乾いている。
「もしもし、もう着く?」
「うん、駅」
「え? あ、そうか、電車ね」
「たまには節約しないとな」
ウイスキーならあるよと言っていたが、まだビールがいいのでコンビニに寄った。念の為にと買ったロング缶四本を見て、「どこかで呑んできたんでしょ?」と笑ったナオの顔は疲れている。まあ無理もない。ユリシーズの青もくすんでいるみたいだが、それは多分勘違いだろう。
「色々大変だったな」
「はい、非常に大変でございました」
おどけて敬礼をした後に抱きつかれた。短パンにタンクトップのラフな格好。そこから漂う風呂上りのいい匂いを受け止める。まだ靴も脱いでいないし、左足の付け根が微かに疼いたけれど構わない。このまま寝るなら朝まで頑張るだけだ。
「昨日ね」肩に顔を埋めているから、声が身体に響く。
「うん」
「病院の待合室で横になってたんだけど」
「きつかったろ?」
「うん。でもそれより会いたかった。会いたいなあ、会いたいなあって思いながらウトウトして、気付いたら夢見てたの」
「夢?」
「うん。夢。この間、泊めてもらったじゃない? だからだと思うんだけど、私、勝手に家に上がり込んでるの」
内側がぞわっとする。昨日の夜、ナオは来た。これが現実の話なら噛み合わないが、夢の話だから辻褄は合う。
「鍵は?」
「だから夢なんだってば。何だか分からないけど家の中に入ってたのよ」
「俺は?」
「そんなにちゃんと覚えてないんだけど、多分寝てたんじゃないかな」
「……それから?」
「だから覚えてないってば。でもね……」
「ん?」
「私から誘ってしたような気がする」
「何を?」
もう、とナオが身体を離す。再び「何を?」とは訊かなかった。余裕がなかったからだ。昨日、夢とはいえ本当に来ていたという事実にはそれくらいのインパクトがあった。
「ごめんごめん。とりあえず上がって」
靴を脱ぎ、テーブルの上にビールを置き、洗面所で顔を洗っても、まだ妙な興奮が続いていた。どうせならシャワー浴びちゃったら、という声に従っている間もそうだ。物心がついた頃から、オバケやUFOの存在を疑ったことはない。そりゃいるんじゃないの、という感じ。積極的に信じるというより、「世の中広いし宇宙はもっと広いんだから、存在しててもおかしくないよね」と思っている。だけど我が身に起こるとは想像もしなかった。きっと、昨日のあれは生き霊……。
どうしようかな、と迷う。俺も昨晩こういう経験をして、と打ち明けた方がいいのか。それとも黙っておくべきか。悩みながら浴室を出ると、真新しいシャツとトランクスが置いてあった。遠慮なく着させてもらう。サラサラの肌触りが気持ちいい。
「これ、着させてもらったよ。ありがとう」
返事がない。もしかしたら、と寝室へ行くと案の定ベッドの上で眠っていた。忍び足で電気を消してドアを閉める。また足の付け根が疼いたけれど、もうあまり気にならない。あとはゆっくり寛いで、眠たくなったら寝るだけだ。昨日生き霊相手とはいえ、ナオとはぐちょぐちょしたばかり。不発だったが構わない。俺はソファーに座って缶ビールを流し込んだ。まだ十一時前なのにこんなに眠いのは、生き霊のせいか、安太のせいか、それともこのサラサラの着心地のせいか。
まだ中味が残っている缶をテーブルに避難させたのが合図だった。全身の力が抜けていく。明日は予定どおりなら遅番だが、今日の感じだと店長も安藤さんもどうなるか分からない。というか、こんな感じであの店は大丈夫なのか。できれば次も満員電車に乗らなくて済む仕事にしたい、何なら家の近所限定で探そうか、今度はもう少し稼げるヤツがいいな、稼げる仕事って何だろう、いや、続かなきゃ意味ないしな――。
人の気配で目が覚めた。ソファーの上で上体を起こすと、その物音でナオが驚く。
「ああ、ごめん。どうした?」
「ちょっと喉が渇いちゃって」
時間は午前三時。タンクトップ姿のナオは魅力的だったが、どう考えても今は寝た方がいい。
「ソファーじゃ身体痛くなっちゃうよ。こっち来てベッドで寝たら?」
「いや、でも……」
「うん、私途中で寝ちゃうかもしれないけど」
だったら大丈夫かな、という気持ちを隠しながら立ち上がると、足の付け根に軽く響いた。ぬるくなったビールを台所に流してから電気の消えた寝室に入り、手探りでナオの隣に横たわる。今日は間違いなく本物だ。生き霊とは違って病院の匂いなんかしない。どことなく甘ったるい香りを吸い込み、うっすら浮かぶ半開きの口に舌を入れた。でも反応は薄い。軽く唇で挟まれただけ。タンクトップ越しに乳房をつまんでも同じだった。軽く身をよじるだけ。これでいいんだ、と目を閉じる。今日は俺も疲れてるんだから、これでいいんだこれでいいんだこれでいいんだ……。
朝になってもナオは目を覚まさなかった。俺はそっとベッドを抜け出し、薄闇の中ソファーの上に寝転がる。正直なところ、眠るだけならナオの隣よりこっちの方が快適だ。スマホを確認すると、一時間前に安藤さんから着信があった。どうしてメールじゃないんだろう、と思いながら残された留守電を聞く。
「もしもし、変な時間に電話しちゃいました。迷惑ですよね。ごめんなさい。今日、というか昨日は、お店に行くようなこと言ってたのに、すいませんでした。明日、じゃなくて今日は、ちゃんとオープンから出ますので、シフト通りで大丈夫です。こんな時間にすみませんでした。では」
内容は事務的だったが、それを告げる声がヤバかった。涙をこらえているような湿った声。何度か鼻もすすっていた。きっと何かあったし、それを伝えたいのだろう。昨日は店長と一緒だったのかもしれない。まあいい。それも数時間後に顔を合わせれば聞くことができる。
とにかく遅番が確定したので眠ることにした。実は少し腹も空いているが、今から食べれば目が冴えてしまうに違いない。もう一度安藤さんの留守電を聞いてみる。声の湿り具合を確認したかったはずなのに、日付けが変わってもまだ俺の調子はズレたままらしい。彼女のべちょべちょに湿った声は、あの道玄坂でのぐちょぐちょを蘇らせ、いつしか左足の付け根近くにはねっとりした血が集まっていた。
(第29回 了)
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