世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十、今度は言霊
いやらしい夢を見た、気がする。起きたらそうなっていたとか、そういうことではない。さっき安藤さんの留守電を聞いた時に揺れ動いた血が、ねっとりしたまま残っている感じだ。簡単に言えば「物足りない」。乱暴に言えば「やりてえな」。
あーあ、と声に出して欠伸をする。まだ左足の付け根の違和感は残っていた。サラサラの下着は気持ちいいが、やはりソファーの上だと熟睡はできない。冷たい水を口に含みながら、また安藤さんの留守電を聞いてみた。俺はもしかして涙をこらえた声に欲情しているのかな、と考えていると後ろから「おはよう」と声がかかる。
「ごめん、寝づらかったんでしょ? あれからずっとソファーで寝てたの?」
大丈夫、と答えた俺の声はかすれていた。もしかして風邪ひいた? と覗き込むナオにもう一度「大丈夫」と告げて顔を洗い、時計を見ながら逆算する。安藤さんの留守電を聞いてから眠っていたのはだいたい一時間半。レム睡眠とノンレム睡眠、どっちが深い眠りなんだっけ。
「トースト焼くけど食べる? 何だかんだすごいお腹減ってんのよ」
「昨日ほとんど食ってないんだろ?」
「そうそう。で、食べる?」
「一枚ちょうだい」
ついさっきまで薄闇だった部屋に朝の眩しい光が入りこみ、俺たちはテーブルを挟んで向かい合っている。どことなく落ち着かない。俺はバター、ナオは甘そうなイチゴのジャムをトーストに塗りながら、今日の予定を確認し合う。飲むならどうぞ、と淹れてくれたコーヒーがいい匂いだ。口をつけたが熱くて味はまだ分からない。いつもはアイスコーヒーしか飲まないから、ずいぶん久しぶりな気がする。
午後イチにはまた病院行かなきゃ、と肩をすくめるナオに「俺は昼前には店に行ってないと」と嘘をついた。今日は遅番だと忘れたわけではない。オープンから出ますので、という安藤さんの留守電を覚えていただけだ。
「で、どうなんだ、お父さんの容態の方は? すぐ退院できそうなのか?」
うーん、とジャムたっぷりのトーストを噛んだままナオは言葉を選んだ。すっかり噛み終わって飲み下してからも、まだしばらく悩んでいた。
「別に上手くまとめなくてもいいからさ」
「……まあ、そうなんだけど、まとまらないのにベラベラ喋っちゃうと、なんか自分がそれに引っかき回されるっていうか……。ほら、言霊ってあるじゃない?」
生き霊の次は言霊かよ、勘弁してくれ。でも、分からなくはない。だからぐちょぐちょの時はあまり喋らない方がいい。思いがけない展開が待っていたりする。そう、例えばこの間の安藤さん。あれくらい喋り過ぎると、それはそれで新しい形が見えてきたりもするんだよな――。
「身体のことはそんなに心配してないんだけど、精神の方が心配って感じなんだよね。長引きそうっていうか、結末が見えなくて憂鬱な感じ、かな。今の気分は」
ようやく言葉にまとめたナオはコーヒーに口をつけた。フィジカルとメンタル、か。確かに「交通事故で全治三週間」とは意味が違う。
「外で呑んでて倒れたんだよな?」
「うん、普通の居酒屋だって。なんか一人で呑むなんて珍しいみたい」
「そうなのか」
「いつもは社員の人たちと一緒に呑んでるらしいから」
「やっぱり、卒婚なんて突然言い出されてショックだったんだろうな」
そうそう、とナオは相槌を打たなかった。トーストの残りを口に入れて言葉を待つ。思い浮かべるのは今日これからのこと。別に難しい話ではない。ここから真っ直ぐ店に行こうか、それとも一度家に寄ろうか。店がオープンして何分過ぎたら顔を出そうか。そんなことが俺の「今日これから」だ。
「精神はお母さんの方が参ってるみたいなんだよね」
「でも、卒婚を言い出したのは……」
「うん、お母さんなんだけどね」
「でもここまでじゃなくても、ダメージを与えることは分かってたんだろ?」
「と思うけど」
人間、歳とっても変わんねえなあ。そう思った。若い奴等の話とまったく同じじゃないか。もちろん口には出さない。言霊なんてどうでもいい。ナオに気を遣っただけだ。でもやっぱりこっそり思っている。俺だって昔は――。そう漏れ出したから慌てて踏み止まる。こうやって引っかき回されるんだな。これも言霊なのか? 分からない。声に出してないからきっと違うんだろう。
出掛けたのは俺の方が早かった。本当はもう少し遅くても問題なかったのに、もっともらしい言い訳をボソボソと並べて、サラサラの下着のまま狛江を後にした。気付けば足の付け根の違和感の話をしていない。一度家に寄るのかも、店に何時に顔を出すのかも決めていない。ナオの家で俺は何も考えていなかった。そんな事実を睨みつけながら、案外空いている小田急線に乗っている。この車両は老人だらけだ。
こんな狭い東京にこれでもかと線路を張り巡らせて、と言っていたのは安太……ではない。その後には「北海道なんてさ」と続いたのを覚えている。あれは誰だったのか、それとも呑み屋で隣り合った見知らぬ客の言葉だったのか。記憶をパラパラとめくっているうち豪徳寺に着いた。足の付け根のこともあり、動きが少し鈍い。ココデ降リテ世田谷線ニ乗リ換エロ。そんな指示に従って身体を動かしているみたいだ。
ナオは両親のことで悩んでいた。その感覚がちっとも理解できないから、一緒にいて話を聞いているのは辛い。答えのない問題を解きたがっている人に付き添うのは退屈だ。だから気を抜くと、安藤さんの顔や身体が思い浮かんでいた。やっぱり俺は何も考えていない。
駅を出ると小さい子どもを詰め込んだカートが二台、ゆっくりと引っ張られていた。あれで散歩になるのかな、と思いながら世田谷線に乗り換える。こっちは混んでいたけれど、車内はやはり老人だらけだった。
頭を使わなくても家までは帰れる。いちいち指示を受けなくてもいい。ドアの前で鍵を探しつつ、玄関先で冴子と電話をしながらナオを弄っていた夜を思い出す。多分、ああいう時の俺は何も考えてなくはない。もっといやらしく、もっと興奮するように、もっと気持ち良くなるように。もっともっと、と無意識のうちに求め続けているはずだ。求めよ、されば与えられん。元ネタはマタイ伝。罰当たりもいいところだ。
靴を脱ぎ、服を脱ぎ、サラサラの下着一枚になる。きっと眠っちまうだろうな、と予想しながら床に腰を下ろし、壁にもたれて目を閉じた。俺のすぐ隣にはユリシーズの写真。今頃ナオは出かける支度をしている。身体の力を更に抜く。もう一度、今朝のいやらしい夢を見られるかもしれないし、元々そんな夢なんて見ていないのかもしれない。眠る前はいつもこんな感じ。どっちだろう、と迷っていることが多い。ナオはしばらくあんな調子なのか、それとも数日経てば戻るのか、どっちだろう。安藤さんは今日、俺が早く来るのを予想しているか、していないか、どっちだろう。ナオと安藤さん、どっちだろう……。
いやらしい夢を見た。今度は間違いない。最後の方は半分起きていたくらいだ。相手は安藤さん。ひょっとすると、あの道玄坂のホテルの記憶をたどっていただけかもしれない。自白剤を飲んで質問に答えているだけなのに、どうしてあんなにいやらしいんだろう。ちょうど今頃、彼女は店を開けている。早く顔を出したからといって店では何もできないが、それでも俺は立ち上がった。
サラサラの下着はそのままで身支度を整える。いやらしい夢のせいで妙に前のめりだ。仕事が終わった後、安藤さんと中華街に行ってもいい。旨い麻婆豆腐を食べた後、きっと膨れた腹を晒しながらホテルのベッドで仰向けになるだろう。そんな俺の上で激しく腰をグラインドさせる安藤さんを思い浮かべながら、さっき脱いだ靴を履く。求めよ、されば与えられん。寝不足気味の罰当たりは、駅前のコンビニでプレーンの炭酸水を買った。
ん? と思わず声が出た。店が開いてないじゃないか。あれ、安藤さん、遅れてるのかな。まあ、鍵なら持ってるし、最悪俺が開ければいいんだけど。ぬるくなりかけた炭酸水を飲みながら店の前に立つ。ん? ともう一度声が出た。おかしい。
目隠しの布で中は見えなくなっているのに、WELCOMEと書かれたダサい足拭きマットはちゃんと敷かれている。昨日俺がしまい忘れて帰った可能性はほぼゼロ。ということは……。そっとドアを押してみた。鍵はかかっている。頭の中を整理するため、俺は一旦店の前を離れた。
少し離れた自動販売機まで歩いて、飲み終えた炭酸水のペットボトルを捨てる。無論、そんな短時間では何も浮かんでこない。頭を整理するどころか、中は空っぽ。馬鹿らしい。そして俺はまた店の前に戻ってきてしまった。
耳を澄まして十数秒。中からは何も聞こえないし、これではただの不審者だ。警官が通りかかったら、確実に職務質問をされてしまう。ふっ、と短く息を吐いてから、音がしないよう気をつけつつ店の鍵をバッグから取り出す。何とか静かに開錠成功。まずは首だけ突っ込んで様子を窺う。傍から見たら不審者を通り越して物盗りだ。物盗り――?
まさかとは思いながらも緊張感が増す。店内の灯りは消えているし、人の姿はない。けれど気配はする。きっとバックヤードだ。そっと鍵をかけ、息を殺しながらバックヤードに近付く。ドアが半分開いているせいで、気配だけでなく物音も聞こえてきた。そして遠慮のない足音が二度続く。レジまであと数歩。寝不足気味の罰当たりの頭でも、さすがに予想はつく。中にいるのは安藤さんだけではないだろう。きっと店長がいる。物盗りがこんなに静かなはずがない。
とにかく一度中を覗いてみよう。それから速やかに外へ出る。俺の予想が当たっているなら、見られて困るのは安藤さん、そして店長の方だ。なにも怯むことはない。物盗りの動きでドアの前まで移動して、蝶番の隙間から覗き見る。視界は広くないが、かろうじて人の足を捉えられた。ドアを動かせば角度は変わるが、さすがにリスクが高い。俺はそっと身体の向きを変えた。瞬間、結構な音量で音楽が流れ、内側がきゅっと縮まる。ガサガサとノイズが入ったクラシック音楽。多分ラジオだ。店長はよくバックヤードでニュースや競馬中継を聞いている。
この音でごまかせると思ったのか、咳払い、そして呻き声が続けて聞こえた。気を取り直してもう一度、蝶番の隙間に目を近付ける。ようやく見えたものはジーンズを膝まで下ろした男の後ろ姿、定期的に揺れ動く情けない尻だった。立った状態で後ろから、だろう。となると、壁についたあの手は安藤さんに違いない。あああ、といういやらしい声が変な感じで途切れる。店長が慌てて口を塞いだはずだ。汚いクラシック音楽に紛れて、肌と肌がぶつかる間の抜けた音が連続して聞こえてきた。そして遂には声まで。
「なあ、いいだろう? なあ、なあ」
そんな捻りのない台詞、そして女の口を塞ぎながら自分が声を出す馬鹿馬鹿しさを俺は笑い飛ばせない。している時なんて大抵あんな感じだ。途切れ途切れに聞こえるモゴモゴとくぐもった声は安藤さん。まだ口を塞がれているのか、何を言っているのか聞き取れないままだ。段々と尻の動きが早くなり、ぐうううと店長が口を閉じたまま呻き始める。そろそろ終わるかもしれない。
「ダメダメダメ、ダメダメ」
塞がれていた手が外れたのか、突然安藤さんの声がはっきり聞こえた。店長も自分のことに夢中で放っといている。もうラジオの音では隠しきれない。
「あー、ダメダメ。あー、あーダメ、ちょっと、ちょっと、トウコさあああん」
そうだった。安藤さんは四歳年上の先輩・トウコさんとしていると思い込むのがお気に入り。店長もそれに付き合わされているのか。あの中高時代の話は本当だったんだなと、変なことに感心してしまう。
ぐう、ぐう、ぐうと断続的に呻き、店長の背筋が一気に伸びてから四、五秒、徐々に身体が右に傾いていく。代わりに見えた後ろ姿の安藤さんは真っ裸。壁に手をついたまま、両足を開いている。この距離からでも全部見えてしまいそうだ。
「トウコさん、私もうダメ、ねえねえトウコさん、聞いてる? 聞いてるの?」
こうして言葉を発することで、感情が波打ちやすくなっているような気がする。これも言霊なんだろうか。聞こえているはずの店長は無言のままフラフラしている。ジーンズを脱ぎきっていないから、今にも転びそうだ。それでも器用にバランスを取りながらコンドームを外して指で弾く。ほらこっち、と立ったままの安藤さんの腰を持ち、床に寝かそうとするがなかなか動いてくれない。パンと軽く尻を叩くと「やめてよー、トウコさん、やだー」と言いながら、安藤さんが振り向いた。その紅潮した顔に俺の内側が反応する。湿ったハンカチに包まれたような感じ。きっとこれは嫉妬だろう。今までもずっと彼女だと分かって覗き続けてきたのに、なぜか平気だった。
「あ、あれ? あー」
うまく動けない安藤さんはぺたりと床に座り込んだ。だったらという感じで店長は、コンドームを外したばかりのそれを顔に近付ける。
「な、ほら、な、これ。ほら、ほら、口開けて、ほら」
ぼんやりした表情で言われるがまま口を開ける横顔。萎えているせいで、なかなかうまく口に入らない。ベトベトの口元がキラキラと輝いている。
「口、ほら」
「え? 口?」
「そうだよ、開けて」
「え、トウコさん、何で?」
「ほら、これ、好きなやつ」
店長が安藤さんの頭を押さえて固定した。今すぐにでも中に入っていきそうな衝動が、俺の内側にはある。中に入って、店長を追い払って、代わりに突っ込みたい。やっぱり顔は重要なんだと分かった。
ああ、と間抜けな声を店長が出し、安藤さんが苦しそうに頬張りながら噎せた。その度に間抜けな声が響く。あまり役に立たなくなったラジオは演歌を流し、俺は嫉妬しながら左足の付け根に血が集まるのを感じていた。粘度の高いねっとりした血。安藤さんの顎から濁った液体がダラダラとしたたり落ちる。
店長がようやくジーンズを脱いだ。特徴のない中肉中背だが何度でもできるらしく、座り込んだままの安藤さんを今度は床に寝かそうとしている。ああ、と体勢を崩した彼女が一瞬こっちを見た。目が合ったような気がして、俺は蝶番の隙間から慌てて目を離す。次にまた覗くと仰向けに寝転んでいて、全裸の店長に足の指を舐められているところだった。「トウコさあああん、くすぐったいよお」という声を聞きながら、俺はドアから身体を離した。これ以上見ていると、どうなるか分からない。ぐっと堪えて、さっき来たルートを逆に戻る。役立たずのラジオは関東地方の天気予報を伝えていた。
外に出てまずしたことは深呼吸。気持ちを落ち着けておかないと、午後から仕事だ。少なくとも安藤さんには会う。どこで時間を潰そうかな、と考えていると「あの、すいません」と声をかけられた。
「はい」
「まだお店、開かないんですか?」
振り返ると、立っていたのは女性。一瞬、誰だか分からなかったのは、綺麗なブルーのワンピースを着ていたせいだ。
(第30回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『助平ども』は毎月07日に更新されます。
■ 金魚屋の本 ■