人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚編集部
「僕はあの村に行ったことがあるんだ。僕が生きて帰ってこられたのは、小川の村の人たちのおかげなんだ。だからあの谷に村がないわけないだろ。地図に載ってないなら、それは地図が間違ってるんだ。山の奥に足を運べば村があるってわかるよ。ダムを造るっていうのに、ちゃんと調査をしないなんて、無責任じゃないか」
上司のガヴリレッツに、僕はまた小川の村の話をした。ジュマラウの山奥にダムを造る計画は着々と進んでいた。しかしあの三つの峰に挟まれた谷には人々が暮らしている村があるはずなのだ。ダムを造るなら、当然村人たちを移住させなければならない。なのに県庁は、ちゃんと実地調査をせずにダムを造るための計画書に承諾のサインをしようとしていた。
「何度言ったらわかるのかなぁ。小川の村があるなんて、県庁の記録にはないんだよ。それにジュマラウ山脈でダムを造るための調査は三年前から始まってて、すべての候補地が調査されたはずだろ。あの谷には人が住んでないんだ。無人でダム建設には最適だからあそこに決まったんだよ。ダムを造るための道路工事だって、人を移住させなきゃならない土地より簡単だし、人が住んでないからこそ広い土地が確保できて、新たな観光資源のダム博物館建設も決まったわけだろ。あそこに村があるなんて話はもうやめてくれないか」
ガヴリレッツは心底うんざりした顔で言った。ふだんは気のいい上司だった。僕とあまり年が変わらず、スチャーヴァ県庁に入った時からずっと仲良くしてくれていた。申し訳ないなとは思ったが、僕は引かなかった。
「もちろん僕もあの調査報告書は読んだよ。だけど怪しくないか。写真がないし、あのくらいの情報は現地に行かなくても書ける。簡単に登れる岳ではないから、ダム調査のときも、人口調査のときも、あそこには誰も行っていないんじゃないのかな。僕はダム建設に反対してるわけじゃないんだよ。でももしあそこに村があるなら、どうする? 計画書を承諾する前に、ダムで湖になる谷をちゃんと実地調査しておいた方がいい。僕が言ってるのはそれだけだよ」
ガヴリレッツは眼鏡越しに僕を鋭い目で見上げた。県庁の職員には地域住民の安全を確認する義務があった。万が一という考えが彼の脳裏をかすめたようだった。
「そこまで言うなら調査に行こう。だけどもしあの奥山の谷に何もなかったら、始末書ものだぜ。お金も労力もかかるんだから」
「でも、もしあそこに村があるなら、もっと大変なことになるんじゃない?」
僕は言い張った。
「わかった。手配する」
ガヴリレッツは厳しい口調で言った。
僕はようやく小川の村の調査に行くことができるようになった。
調査の日、僕は早朝にガヴリレッツと彼の秘書といっしょに県庁の車で出発した。ちょっとものものしいなと思ったが、ガヴリレッツは「おはよう」と言ったきり黙りこくったので僕も黙っていた。
てっきり駅で電車に乗り換えて麓の村まで行くのだと思っていたが、車は郊外の飛行場で止まった。大型のヘリが用意されていて、登山靴をはいた三人の男が待っていた。「紹介するよ」とガヴリレッツが三人に引き合わせてくれた。二人は農林水産部森林政策課の役人で、もう一人はダム設計を担当するエンジニアだった。
僕はようやくガヴリレッツが「調査は大変だよ」と言っていた意味を理解した。ガヴリレッツは県知事の次席でダムプロジェクトの総責任者だから、この調査は内々のものではなく公式に行われ、公文書として残るのだった。
僕は調査が大ごとになっているのに驚いたが、ガヴリレッツはポンと僕の肩を叩き「行こうか」とだけ言った。僕らは大型ヘリに乗り込んだ。
ヘリが上空に舞い上がり地上が小さくなると、僕は久しぶりに空から見る風景に夢中になった。晴れた日で遠くまではっきりと見渡せた。
ヘリは高度二〇〇〇メートルまであがり、ジュマラウ山の峰の上を快調に飛行した。山頂には少しはみ出ている岩がいくつか見えるだけで、尖ったところはなく、褶曲山地らしい穏やかな線を描いていた。ここには背の低い高山植物しか生えない。
山頂から少し下ったところからもみの木の森が始まっていた。ヘリは川の流れに沿って水源を遡っていった。しばらく岩と梢の上を飛ぶと、三つの峰に囲まれた谷が見えてきた。川はこの谷で穏やかな流れになるが、広い谷の出口近くで河床が狭くなる。水は小さな自然の湖となって溜められ岩の向こうにあふれ出し、四〇メートルもの滝となって流れ落ちていた。
ヘリから谷口の岩の壁が、自然のダムとして機能しているのがはっきり見て取れた。だからここにダムを造り、水力発電所を作るというアイディが生まれたわけだ。今までは電力を隣のネアムツ県にあるビカズ発電所に頼ってきたが、両県の人口が増えてそれでは間に合わず、スチャーヴァ県で独自の発電方法を検討しなければならなくなったのだった。
ヘリは谷口の湖のほとりに着陸した。雲一つない快晴だったから、太陽の光が湖に反射してまぶしかった。目が慣れるとさっそくあたりを見回した。谷底を川が流れ、峰のふもとにあるもみの木の森まで、背の高い草が鬱蒼と生えていた。僕の記憶にある、放牧された羊たちがのんびり草を食べていた谷とはずいぶん違う風景だった。視線の届く限り、家らしきものは見えない。
「小川の村はどこにあるんだ」
ガヴリレッツが遠くを見ながら言った。
「それは・・・」と答えたが言葉が続かなかった。
「きっと村から離れた場所に着陸したんだよ、探してくる」
「一時間だぞ、一時間でここに戻って来い」
チラリと腕時計を見ると、ガヴリレッツは滝の再調査に向かうメンバーたちの方に歩き出した。
僕は川沿いに山を登りはじめた。谷の脇にある森を目指したが、腰まで生えている灌木を掻きわけて進むのは無理だった。上流にもっと歩きやすい場所がないかとさらに川を遡った。足元だけを見つめる急坂で息が切れた。顔を上げて峰を見ると、山の輪郭は子どもの頃に見た風景で間違いなかった。
もう二十年も前なのに、僕は村の風景をはっきり覚えていた。目に焼き付いていた。丘の上に二十軒くらいの家がポツポツと建っていた。家の大きさはほぼ同じで、かやぶきの屋根の下は真っ白な壁だった。屋根を支える柱にはきれいな模様が彫られていた。羊や牛を飼っている世帯だけ、母屋のほかに動物のための納屋と倉庫があった。森の近くに七本のもみの木に囲まれた教会があり、敷地内に学校があった。友だちになったクリスティー君に連れられて、学校の中に入ったことだってある。
しかし息せき切ってたどりついた丘の上には何もなかった。どこを見ても草が生えているだけだ。二十年間で村が跡形もなくなるなんて信じられなかった。僕は教会があった場所を探した。村人たちがどこかに移住して家が朽ち果てたとしても、教会は大きな建物だからなにか残っているはずだ。それに墓地。教会の裏には墓地があった。ソフィアお婆さんが、お墓のロウソクに火をつけるために毎日通っていた墓地は、村人の移住後も残っているかもしれない。
隣のネアムツ県でビカズダムが建設されたとき、いくつもの村の住民が移住することになった。住宅や教会、お店や学校などが解体され新しい村に運ばれて建て直されたのだが、問題は墓地だった。誰もが墓を掘り返すことに抵抗を感じた。しかし他界した大切な人たちをダムの底に沈めるわけにはいかなかった。そこで長い議論の末に、最終的に柩を掘り起こして新しい村の墓地に再埋葬することに決まった。それは小川の村人だって同じだろう。まだ墓地が残っているなら、ダムの底に沈む前に移転させなくてはならない。
教会の目印になっていた七本のもみの木はすぐに見つかった。しかしもみの木の周囲を探してもなにもない。教会の壁の残骸も墓地の囲いも十字架も、なに一つ残っていなかった。僕は身体をかがめ、やがて地面にはいつくばって草を掻きわけた。礎石までなくなるとは思えなかった。しかしない。ない。僕は丘の上に立ち尽くした。ふと腕時計を見ると、ガヴリレッツが言った一時間はとっくに過ぎていた。
とぼとぼと川沿いを下り始めると、「アンドレィィィィィ、早く戻ってこぉぉぉぃ」というガヴリレッツの声が谷いっぱいに谺して響いた。僕はガヴリレッツに手を振ると足を速めた。
「あったか」
戻った僕にガヴリレッツはまずそう聞いた。
「いや、ないんだ。確かにここに村があったはずなんだ」
僕は怒鳴られるのを覚悟した。念のためとはいえ、調査はヘリをチャーターして森林政策課の役人も同行させる大規模なものになっていた。なにもなかったら確かに始末書ものだった。しかしガヴリレッツは怒鳴らなかった。
「気が済んだよな」
低く静かなガヴリレッツの声に僕はハッとした。
「気が済んだって・・・」
「いや、もう言うな。ここには村なんてないんだよ。前から言おうと思ってたけど、ダム建設のプロジェクトが始まってから、君、ちょっと変だぜ。なんか普通じゃない感じで焦ってるよ。僕には理由はわからないけど、疲れてるんじゃないのか。プロジェクトはすごいハードワークだったからな。しばらく休んだらどうだ。しばらく休んで、心と身体をじゅうぶん休めて、また仕事に戻ればいいじゃないか」
ガヴリレッツはさとすように言った。役所で一番親しい、信頼し合っているガヴリレッツにそんなことを言われたのはショックだった。自分の心の内を探っても、思いあたることがあるような、ないような、不思議な感じだった。
しかしガヴリレッツの言葉を無視することもできなかった。思わず「そうした方が、いいのかな」と聞き返した。
「そうしろ」
ガヴリレッツは強い口調できっぱり言った。
僕は役所を休むことにした。ただあの村が存在しない、存在しなかったとは、どうしても信じられなかった。
県庁で仕事を始めてからほとんど有給休暇を取ったことがなかったので、まとめて申請するとたっぷり二週間休めることになった。
実際に調査に行って、小川の村が見つからなかったのは事実だ。しかしほんの数時間しかいなかったじゃないか。僕にはあの谷に村があるとしか思えなかった。もしかすると、似たような場所に迷い込んでしまったのかもしれない。僕は二週間の有給休暇を村を探す調査にあてることにした。
もっと正確に二十年前の記憶を辿るために、僕は祖父が住むドルナ・アリニ村に行くことにした。「お爺ちゃんに久しぶりに会うのね。でも心配だわ」妻のイオアナは顔を曇らせた。いっしょに行きたそうだったが、まだ小さい息子のセバスティアンの世話をしなければならなかった。「危ないことはしないから」と何度も言ってイオアナを安心させ、僕はカバンに三日分の着替えと祖父へのおみやげを詰めると、朝早くから西にある山の方へ車を走らせた。
祖父の村であるドルナ・アリニ村に行くのは久しぶりだった。生まれたばかりのセバスティアンを祖父に見せるためにイオアナといっしょに訪れたきりで、もう何年も前のことだった。
山と森に囲まれたドルナ・アリニに入ると、地元の美しい家が目に入ってきた。新しくて現代風の家が多く、昔に比べて村人の生活はずいぶん楽で便利になったようだ。村の向こうにそびえる山の半分もドルナ・アリニの一部だ。
山と森に囲まれたドルナ・アリニ村は、父親の生まれ育った場所で、子どもの頃に夏休みにここに来るのがとても好きだった。しかしここは父を山の滑落事故で亡くし、僕自身も滑落事故を起こしてしまった場所だった。街で暮らしていると、あの不幸のことをあまり考えずにすむことができたが、ときおり刺すようにあの事故の痛みが蘇った。それで祖父には申し訳ないのだが、なんとなくドルナ・アリニ村から足が遠のいていた。
祖父の家は、村の中心からかなり離れた山のふもとにあった。車を止め門を開けて庭に入ると、縁側で煙草を吸っていた祖父が僕を見て立ち上がった。駆け寄ってきて「おおアンドレイ」と言ってきつく抱きしめてくれた。
「お爺ちゃん、ごぶさたしてごめんよ」
「いいんだいいんだ、イオアナとセバスティアンは元気だよな」
「うん、もちろん」
少しシワが深くなったように思ったが、いつもの優しい祖父だった。「とりあえず荷物を置いておいで」と祖父に言われ、僕は久しぶりに家の中に入った。
なにもかも昔と同じだった。奥の壁にはマリア様と子どものイエスのイコンが掛けられていて、その前でロウソクの火が揺れていた。窓際のテーブルの上に麻のタオルに包まれたパンが置いてあるのも同じだった。向かい側の壁に沿って祖父のベッドがあり、ストーブが据えられていた。入り口右側に食器などを置くための棚があり、その上にまだ現役だけど、恐ろしく古い型のテレビが乗っていた。ベッドの上に敷いてあるブドウ色のブランケットの下に、清潔そうな真っ白な枕が見えた。部屋の中は、昔と変わらずメボウキの香りがする。祖父はきれい好きで家の中はきちんと片付いていたが、祖母が他界してから、一人暮らしの寂しい家になっていた。
僕は客間に入った。電話してあったので、祖父がベッドをきれいに整えてくれていた。窓際に写真が飾ってあった。僕とイオアナと生まれたばかりのセバスティアンが写った写真などはカラーだったが、父の写真はモノクロだった。口ひげを生やし、僕にしかわからないような笑顔の父の写真を見ると、胸がズキンと痛んだ。
縁側に出ると気持ちのいい夕暮れだった。祖父は村のスーパーで買ったオレンジジュースをグラスに注いですすめてくれた。「電話で話したけど、ダムのことで、ちょっと調べる必要があるんだよ」と僕は言った。
「ダムのことぁ、市役所の人から聞いておるよ。我々の暮らしぁ、変わることぁないって言っておったけどなぁ」
「ここはなにも変わらないよ。ビストリツァは同じ川床で流れるからね。僕が心配しているのは山奥の村のことだよ。小さい頃、僕を助けてくれたあの山の人たちの村が心配なんだ」
「ああ」と呟いて祖父は黙った。幼い頃はうんうんと村の話を聞いてくれたが、大人になるにつれ、この話はしたがらなくなった。それが少し僕には不満で不可解でもあった。あんなにお世話になったのに・・・。
「お爺ちゃんは信じてくれたよね。僕が山で行方不明になってから、三週間も経ってから無事に帰れたのは、山の奥に住んでる人たちに看病してもらったからだっていう話。お爺ちゃん以外、お婆ちゃんも母さんも信じてくれなったけど」
「わしにわかるこたぁ、お前がぁ山から生きて帰ったことだけよ。そりゃ神さまに感謝しておる。でもうちの村の人たちやぁ、誰もその山の村の人に会ったこたぁ、ないよ。その村のこたぁ、だぁれも知らん」
「でも確かに山の奥に村があったんだよ」
僕は言葉に力をこめた。
「おおそれでええんじゃ。昔やぁ、山の奥に人が住んでたかもしれんからの。おじいさんが、お前の曾じいさんが、この村の、コルブの水面に、復活祭の赤い玉子の殻ぁ浮かんでたって言っておったからの。春ごとに、山頂から流れてくる赤い玉子の殻を見たそうや。山奥に、わしらのようなキリスト様の信者がぁ、暮らしておるかもしれん、と言っておったわい」
「その話は僕も聞いたことがあるよ」
「お前の父さんも、いつか調べてみたいって言っておったわい。お前が助かったのも、神様と死んだ父さんのおかげじゃ」
祖父は暗くなり始めた空に上る、煙草の煙を目で追いながら言った。
父は街の高校に通うために村を出たが、大人になってからも山奥の村の話にとても惹かれていた。僕にも何回かその言い伝えについて話してくれた。村のことを調べるために父は山に入り、滑落死したのではないかと考えたこともあったが、本当のことはわからなかった。
(第01回 了)
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