人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚編集部
翌日の朝、「山に行って来ます」と軽く言うと、「やめなさい」と珍しく祖父が強い口調で制止した。僕は困ってしまった。ドルナ・アリニ村に来たのは、二十年前に僕が辿った山奥の村への道を、記憶の底から呼び起こすためだった。
しかし妻のイオアナに「危ないことはしないで」と言われていたし、祖父も止める。僕は山深くに分け入って、あの村を探すのはとっくに諦めていた。しかし村への入り口くらいは自分の目で確かめたかった。僕は祖父にふもとの渓谷に行くだけで、峰には絶対に上らないと約束してようやく出発することができた。
東カルパチア山脈を横断して西から東へと流れるビストリツァ川は、ドルナ・アリニ村のあたりで硬い岩できたピエトロスル山のふもとにぶつかって、北へ曲がっていた。ジュマラウ山の峰から流れ込む支流が合流してより大きな川となり、ジュマラウとピエトロスルの間の岩を抉るように東南へ流れていた。このあたりがズグレニ峡で、気軽なハイキングコースになっている。カルパチア山脈の絶景スポットの一つだ。
ビストリツァ川に流れ込む小さな川の一つがコルブ川。合流点を後にしてコルブ川沿いの美しい渓谷を登るとジュマラウ山の豊かな森に入る。ここは険しい山道で、苔に覆われた小岩が自然の階段になっている。もみの木の森の間から、すらりとしたララウ山の峰が見える。コルブ川の水音がなければ、山の中は完全な静けさに包まれているだろう。
まだそんなに山深くないので、ここには子どもの頃に何度か来たことがある。小さい頃は父に連れられていた。見たことのない色と形をした石や、もみの木の影に咲く珍しい花などに夢中になった。父は山の植物や、素早く現れすぐに姿を消してしまう山の動物について詳しく説明してくれた。
さらに山に分け入ると、遠くからあの音が聞こえてきた。いつ聞いても心臓がドキリとするような轟音だ。叫びの滝の水音は、地元では「地獄のうなり」と呼ばれていた。そのくらいすさまじい音だった。
「ここだ」
僕は呟いた。
確かにここがあの村の入り口だった。
しかし滝は天まで届くような岩の壁で、ここから上に登る道はなかった。僕がこのあたりで滑落事故を起こし、戻ってから小川の村人に助けてもらったと言ったときも村人が上に登るルートを入念に調査した。しかし見つからなかった。僕が手当を受けた小川の村も見つからなかったと聞いた。
だけど僕はここから村へ運ばれ、村から下りてきた。この滝の上にある小川の村を行き来した。見つからないだけで、道は必ずあるはずだった。村も絶対にあるはずだ。
一度だけ父に連れられてこの滝まで来たことがある。父は「コルブはこの峰の後ろから流れてくるだろう。この真上で別の川が合流して滝になってるんだ。すさまじい音だろ。だから叫びの滝と呼ばれているんだよ」と、滝が神秘なものであるかのように自慢げに説明してくれた。
父が僕を連れてきたのは、滝の後ろにある洞窟を見せるためだった。その洞窟に行くための道があったのだが、今は立ち入り禁止の札の下がる高い鉄柵が行く手を阻んでいた。乗り越えようとすればできるが、僕はグッとその気持ちをおさえた。イオアナにも祖父にも決して危ないことはしないと約束していた。
鉄柵から少し離れた場所に、背の低い石の慰霊碑が建っていた。叫びの滝が危険だということは誰もが知っていた。しかし昔から人々を惹き付けてやまない場所でもあった。父がなにを求め、なにを調べに、あるいは単なる冒険かもしれないが、どうして一人で叫びの滝に来たのかはわからなかった。慰霊碑のプレートにはここで命を落とした数人の名前が刻まれていた。父の名前もあった。
僕は慰霊碑の前にしゃがんで、父の名前に手を当てた。ひんやりとした石の感触が伝わった。胸がズキリと痛んだ。
もう昼過ぎだった。山の中なのでどんどん気温が下がってゆく。もう一度プレートに刻まれた父の名前に手を合わせてから、僕は下山した。ズグレニ峡谷を抜けた頃には夕暮れになっていた。ふとポケットから携帯を取り出して見ると、イオアナから何度も電話がかかっていた。
「なんで電話つながらないのよっ」
叫ぶようにイオアナが言った。
「ごめんごめん、圏外だったんだ」
「もしかして山に入ったの? あれほど危ないことはしないでって言ったじゃない」
僕は焦った。危ないことはしてないよ、と言ってもイオアナの怒りは治まりそうになかった。「父さんが滑落した場所まで行っただけだよ。お墓参りみたいなものだから」と言うとようやくイオアナの怒りが少ししずまった。
「いつ帰るの?」
少しばかり口調を和らげていた。
「今晩はお爺ちゃんの家に泊まるけど、明日の夕方までには帰る。間に合えば保育園にセバスティアンも迎えに行くから」
「じゃあ、お願いね。あなたのいるべき場所はここだから。私たちがあなたの今なのよ」
「わかってるよ」
僕は困り果てた。言葉少なになった。
「明日の晩ご飯、何がいい?」
唐突にイオアナが明るい声で言った。
「なんでもいいけど・・・」
「おご馳走、作ってあげる」
僕は笑い出した。ときおりイオアナは僕をやり込めるけど、必ず日の当たるところへと連れ出してくれる。
「夕方には帰るのよね。遅れないで」
電話を切るとあたりはすっかり暗くなっていた。
ふと「私たちがあなたの今なのよ」というイオアナの言葉が蘇った。「君、ちょっと変だぜ」というガヴリレッツの言葉と混ざり合った。
「そんなことはない」
僕は頭を振った。僕は自分を助けてくれた小川の村人たちを救いたいだけだ。彼らがよそに移住してしまったのなら、その安否を確かめたい。それがわかるまで、調査を止められないのだ。
ドルナ・アリニ村から帰ると僕は図書館に通い始めた。少しでも小川の村の情報を集めるためだった。まずジュマラウ山脈に関する本を読んだ。登山家の手記やジュマラウ周辺の街や山村の歴史、山の自然生態や地質学の専門書まで読んでいった。朝から図書館が閉まる夕方まで読書室で本を読み耽った。しかし村の記録はどこにもなかった。自分の記憶が間違っているとは思えなかった。村はほんとうに人里離れた秘境にある、あるいはあったのだろう。
ジュマラウに関する本を十冊くらい借り出して順番に読んでいると、借りた覚えのない本があるのに気づいた。表紙にシメオン・フロレァ・マリアン著『ブコヴィーナの民謡集』と印刷されていた。読み始めると面白かった。百年前のブコヴィーナ地方の民族文化をまとめた学術書だった。民謡がたくさん採取されていて、畑仕事をする時の歌、日曜日のホラ踊りの歌、結婚式やお葬式の歌などカテゴリー別に整理されていた。木、花、山、川、空を歌った詩が多く、この地方の人々は自然と一体になって暮らしていたことがよくわかった。
「未婚の人の葬式の歌」という詩を読んでドキリとした。僕は確かにこの歌を小川の村で、喚く女が実際に声にして歌うのを聞いた。
我が子よ、行ってしまった
額に星を付けられ
もみの木に嫁いで
空へと運ばれた。
愛しい妹を迎えて
天使たちは歌うよ
喜びを祝うよ
星のように輝いて
永遠に彼らと歌って
我らを見守って
天の扉の前で
迎えに来てくれたら
嬉しいよ
そちらでまた会おうよ
なにが行われているのか知りたくて、クリスティーとマリオアラちゃんといっしょに墓地へ向かう人の群れを追いかけた。僕らは大人たちの足を掻きわけて前に進んだ。棺の中に真っ白な花嫁衣装を着た女の子が横たわっていた。彼女はとても安らかな顔をしていた。女の子の頭のところで神父さんが祈りを唱え、足元で黒い服に身をまとった母親が激しく泣きながら祈りを捧げていた。
母親を囲んで女たちが泣きながら歌っていた。その言葉が本の中の言葉と重なり、僕の中で音になって歌になって大きく響いた。僕はニコライおじさんが怖い顔をして近づいてくるのを見た。
「さあ、こっちで遊んでなさい」
僕らはニコライおじさんに手を引かれ、人々の間から連れ出された。青空にカンカンという音が響いた。きっと棺桶を釘で打つ音だろう。母親のひときわ大きな嗚咽が聞こえた。ただ大人たちにさえぎられてもう何も見えなかった。
僕はあわてて注釈を読んだ。「ジュマラウ山のふもとの村で聞いた歌である。奥山のほうでは、「星のように輝いて」は「月のように輝いて」になっているが、ほかに違いはない」とあった。「奥山のほうで」というのは小川の村で間違いないだろう。僕は興奮した。初めて小川の村の手がかりを得た。思わず椅子から立ち上がった。
「あの、この本は誰が集めたというか、僕に渡してくれたんですか?」
カウンターの中年の女性司書は怪訝な顔をした。「なにか問題でも?」と聞いた。
「いや、この本、借りた覚えがないんですが混じっていて。でもとっても助かりました。それでちょっとお礼が言いたくて」
「ああそれじゃぁなにかの手違いですね」ホッとした顔で司書はツッと視線を奥に向けた。「マリアさん」と呼んだ。
「はい」と答えて若い女性が振り向いた。まだ大学生くらいの女の子だった。近づいてくると胸元の名札に「マリア・フィリップ 研修中」と書いてあった。大きな青い目をしていた。
「この本なんですけど、僕は借りてないと思うんです。だけどホントに助かりました、参考になりました。あなたがこの本を渡してくださったんですよね」
「ああ」マリアさんは含み笑いをした。
「もう何日も、ララウ・ジュマラウ山に関する本ばかり借り出していらっしゃるでしょ。あんまりこの手の本、借りる方がいないので、毎回倉庫の奥まで本を探しに行ってるんですよ。この本は注文なさった本と同じ棚にあったので、お役に立てるかなと思って混ぜておいたんです」
「そうですか、ありがとう」
「失礼ですが、なにを調べておられるんですか?」
マリアさんの目に明るい好奇心が宿っていた。少し迷ったが、僕は「ジュマラウの山の奥にある、小川の村について調べています」と答えた。
「へぇ」しばらく間を置いて、「あの山の奥地に村なんてあったかしら」
マリアさんが言った。
「あるんですよ、いや、あった。かな」
「実際に行ったこと、あります?」
「あります」僕は語気を強めた。
「それって、面白いというか、ロマンがありますね。わたし、大学で民俗学勉強しながら図書館司書の資格も取得してるんですよ。ジュマラウの奥地に村があるなんて、初めて聞きました。よかったら、その村のこと、話してくださいませんか。民俗学のレポートの参考になりそうだし」
マリアさんはいたずらっぽく笑った。
僕は迷ったが、すぐに話してみようと決めた。子どもの頃、何度も何度も母や祖父母に話したが、大人になってからはすべての記憶を掘り起こしたことはなかった。マリアさんに話すことで、記憶を整理できると思った。
「わたし、研修は今日が最終日で、仕事は午前中で終わりなんです。午後は少し時間があります」
そう言ったマリアさんと、図書館の団体用の図書室で話をすることにした。
図書室には白いテーブルが部屋の中央に据えられ、窓からは向かい側の修道院の塔が見えた。
「さあいいですよ」
マリアさんはテーブルになにも書かれていないまっ白なノートを拡げ、ペンを手に取った。
なにかの事情聴取のようでおかしかったが、僕は昔の記憶を話し始めた。
(第02回 了)
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