女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
浅利先生を交えたちょっと風変わりな家族旅行から帰ると、普段どおりの慌ただしい日々がおチビちゃんを待ち構えていた。大町の山荘に流れている時間はとてもゆったりしている。「こんなにのんびりしてちゃ東京に帰ってから大変だわ」と考えたりもしたが、どうやらそれは杞憂だったらしい。東京の喧騒、そして稽古場の熱気に触れることで、いつもの感覚は簡単に取り戻せた。ホッとする反面、なんだか惜しいような気もする。
目下、一番近い舞台は『ジーザス・クライスト・スーパースター』。ジーザス・クライストは鹿賀丈史さん、ユダとマリアはそれぞれ滝田栄さん、久野綾希子さんが演じる。四季にとって、そして浅利先生にとっても大切な作品だ。稽古をしていても自然と熱が入る。
それでなくとも今回演じる役――主人公ジーザス・クライストへ懸けた期待の大きさ故、彼への不満を募らせるイスラエルの聖地・エルサレムの「群衆」――は、「善/悪」という役割や、「好き/嫌い」という感想を越え、ひたすら生々しく重い。事前にキリスト教関連の本を読んだことも手伝って、役に対する理解は深まっていた。無論役者としては大切なことだが、その分負担も大きい。特にネガティヴな台詞や演技に身体を浸す瞬間、生身の自分が削られていくのが分かる。「もちろん辛い」と「でも仕方ない」の間を行ったり来たりするうち、いつの間にか体重は減っていた。
そんな状態の中、とうとう初日を迎えた。遂に来ちゃったか、と思わなくもない。場所は日生劇場。今日を皮切りに全三十三公演が始まる。
本番前の準備の時から、全体の雰囲気がいつもより尖っているような気がしたが、それは初日だからかもしれないし、単に自分がピリピリしているせいかもしれない。衣装に着替えてメイクを済まし、見た目は完全に聖地エルサレムに生きる「群衆」の中のひとりになった。楽屋には他の「群衆」たちがいて、自然と内側の準備も整っていく。開演まであと少し。独特の緊張感だ。
おチビちゃんはゆっくりと息を吸って呼吸を整える。次に椅子から立ち上がり、身体を伸ばそうとしたその時、室内据え付けの電話のベルが室内の空気を乱した。受付からの内線だ。みんな一斉に視線を投げる。本番前の楽屋に電話が回ってくるなんて滅多にない。いったい何だよ、という雰囲気が満ちる。しかも運悪く電話に一番近かった。もう仕方ないなあ、と手を伸ばして受話器を取る。もしもし、という声は少し機嫌が悪かったかもしれない。ただ受付の女性が呼び出す相手を聞いて、おチビちゃんは一段ボリュームを落とした。
「はい、すみません。私ですけど……」まさか自分宛てだなんて。
「本番前にすみません。あの、御家族の方からなんですけど、おつなぎしてもよろしいでしょうか?」
御家族? こんな大事なタイミングでかけてくるということはもしかして……。お願いします、と答えた声は更に小さかった。悪い予感がよぎり、動悸が微かに乱れる。待つこと数秒、受話器の向こうから馴染みのない声が聞こえた。
「もしもし」若い女性の声だ。
「……?」
「あれ? もしもし? もしもーし」
「……はい」
「あ、もしもし? 先輩?」
――ユウキちゃん……!
久しぶりに彼女の顔を思い出した。思わず「ちょっと!」と出かかった声を呑み込む。「家族だなんて嘘までついて何の用?」と怒ろうものなら彼女の思うツボだ。
「うん、そうだけど」
「ああよかった。電話切られちゃったかと思いましたよ」
あの浅利先生発案の極秘プロジェクト『アヤメちゃんを守る会』以降、あれだけ頻繁にかかってきた電話はパタリと止んだ。もしかしたら家族で山荘に行っている間、ずっとかけてきていたのかしら? いや、でも東京に帰ってきてからだって電話は一度もなかったし……。
「久しぶりね。どうしたの?」
努めて優しい声を出す。予想外の反応だったのか、ユウキちゃんが答えるまで少し間があった。
「今日はアヤメさん、福岡ですよね?」
「いや、私、そこまで知らないのよ」
誓って嘘ではない。マンションには帰ってこないので旅公演の途中ということは分かるが、さすがに行先までは知らない。でもきっと今日は福岡公演なんだろう。彼女の予定について詳しいのはユウキちゃんの方だ。
「あの、どうして邪魔ばかりするんですか?」
また堂々巡りの会話が始まった。今は大事な本番前、しかも初日だ。いい加減にしてほしい。でも、ここで電話を切ったらまた同じことが繰り返されるだけだろう。まずは彼女の居場所を突き止めないと。
「そんなことしてないでしょ?」
「しらばっくれないで下さい。アヤメさんと全然連絡取れないんですよ?」
「え、そうなんだ。旅先に電話してるの?」
「それだって全部邪魔してるじゃないですか。どうしてなんですか?」
やっぱり同じことの繰り返しだ。どうしよう、と小さく溜息をついた瞬間、彼女は「じゃあ、もういいです」と言った。思わず聞き返す。
「え? 何?」
「会わせてくれないなら、もういいから」
冷たい声だった。あの夜「しらけるんだよ」と言った時の怖い顔が浮かぶ。このままではまずい。とにかく電話を切られないようにしなければ。
「……誰がそんなこと言ったの?」
「ねえ、先輩」
「何?」
「私、これから遠いところへ旅立ちます。みなさんによろしくお伝えください」
その瞬間は何を言っているのか分からない。ガチャ、と電話が切れてから理解できた。
「ちょっと待ちなさい!」
突然のおチビちゃんの鋭い声に、楽屋がしんと静まり返った。みんなには悪いけど、今は気にしていられない。ツーツーツーという電話の不通音を聞きながら、次はどうするべきかを考える。――分かった!
エルサレムの「群衆」の姿のまま楽屋を飛び出す。向かった先は所長のところ……だったが見当たらない。急いで楽屋に戻り、内線で呼び出した。
「もしもし、もしもし?」
すぐ所長はつかまったものの、おチビちゃんの見幕に「ど、どうしたのかな?」と声が及び腰だ。実は……と周囲を気にしながら小声で事情を告げる。さあ、今度は所長が慌てる番だ。「え、それ本当に?」「本当なんだね?」と何度も確認をしてきた。
「……ということなので、所長。宜しくお願いします」
「うん、うん」
「私、これから本番なので、どうすることもできません」
本番、という言葉が効いたのかもしれない。
「わ、わ、分かった。君はそろそろ本番なんだから、あとは私に任せなさい!」
そう言うが早いか、派手な音を立てて電話が切れた。正直なところ少々心許ないが、とりあえずは任せておこうと思う。本番まであと数分。受話器を置いたおチビちゃんは、「今の電話なんだったの?」「何が起こったの?」と尋ねてくるみんなを何とかごまかすので精一杯だった。
いざ舞台が始まると、さっきまでのゴタゴタはどこかへ吹き飛んでしまった。余計なことが紛れ込む隙などないくらい、しっかり集中できたと思う。それが証拠に家へ帰るまでユウキちゃんのことは忘れていた。やはり一度舞台に立つと、役柄との距離感がぐっと縮まる。だから所長から家に電話がかかってきた時もピンと来なかった。知らないところで何かしでかしたかな、と不安に思ったくらいだ。だからとりあえず謝ってしまった。
「あの、すいません」
「え? 何が?」
「いや、あの、特に心当たりはないんですけど……」
「ん? 何言ってるんだ?」
「すいません……」結局謝る羽目になった。
「そんなことより、ねえ、本当によかったよ」
唐突な所長の言葉に、思いがけず声が裏返る。
「よかった?」
「ああ。あのタイミングで連絡をしてくれて本当によかった」
そこでようやく思い出した。そうだ、ユウキちゃんの件だ。
「あの、よかったというのはいったい……」
実はね、と始まった話はおチビちゃんの予想を遥かに上回っていた。
あの後急いで所長が向かったのは、吉祥寺にあるユウキちゃんが住んでいるマンション。ドアを叩いてもチャイムを鳴らしても応答はなかった。ただどこか引っかかるものがあったので、管理人さんに事情を話して鍵を開けてもらうと、ガス栓をひねって倒れているユウキちゃんが見つかったという。
「え!」大きな声が出た。「大変じゃないですか!」
「うん、驚いたのなんのって……」
「彼女、無事だったんですか?」
幸いそんなに時間が経っていなかったので大事には至らなかったものの、結局警察沙汰になってしまい色々と大変だったらしい。そう言われれば声がずいぶん疲れている。
「本当、色々すいませんでした」
そう謝ったおチビちゃんに、「何で君が謝るんだ?」と所長は笑っていた。
その後、ユウキちゃんが四季に戻ってくることはなかった。所長から聞いた話だと、九州にある心の病院に入院をしたという。アヤメさんも一時期はしょんぼりとしていたが、少しずつ元気になってきた。
そんなこんなで一年が過ぎたある日、おチビちゃんは日生劇場を訪れていた。ちょっぴりおめかしをしているのは女優としてではなく、一観客として四季の公演を観に来たから。ここで直接劇場に入らなかったのが運の尽き、いや、運命の分かれ道だった。隣の帝国ホテルに立ち寄り、化粧室で手を洗っていると目の前の鏡に人影が――。そっと視線を上げると、鏡に映っていたのはユウキちゃんだった。思わず息を呑む。
「お久しぶりです」
確かにそう聞こえたが、どう応えたかは覚えていない。慌ただしく帝国ホテルを出た後も、まだ鳥肌が立ったままだった。彼女と会ったのはそれが最後。いまだに思い出す度、背中の辺りがぞくっとする。
数ヶ月後、おチビちゃんはまた大町へ行くことになった。今度は家族旅行ではなくお仕事。迫り来る公演に向けて、あの山荘で集中的に稽古を行う。とはいっても、通常の舞台ではない。コンサート、つまり演奏会だ。
浅利先生が演出を行うそのステージは、当時最もチケットが取りづらい公演のひとつと言われ、それは大変な人気だった。タイトルは『ロングリサイタル』。歌うのは宝塚歌劇団出身のシャンソン歌手・越路吹雪。紅白歌合戦通算十五回出場の記録を持つ国民的な人気者、日本が誇る「シャンソンの女王」だ。
先生は彼女のことを「シャントゥーズ・レアリスト」、即ち「真実を歌う歌手」と呼び、彼女は後年、先生との仕事を「人生で最高の時」と振り返っている。二人の間には確固たる信頼関係が築かれていた。
テレビには滅多に出ない彼女だったが、「ラストダンスは私に」「ろくでなし」「サン・トワ・マミー」「愛の讃歌」など、フランスの大衆歌謡であるシャンソンや海外のポップスに、作詞家・岩谷時子の訳詞を乗せる形で数多くのヒット曲があった。
ただ世代のせいか、おチビちゃんにはあまり馴染みがなく、名前こそ知っているけれど唯一の印象といえば、研究生時代のアルバイトまでさかのぼる。当時稽古場で公演チケットの電話予約の受付をしていた時、彼女のリサイタルのチケットだけは物凄い勢いで完売してしまうのだ。チケットを買ってもらう苦労を知っているだけに、そのインパクトは相当強かった。
だから彼女の稽古が始まった日に先生から呼ばれ、「今日からなんだけど、ちょっと入ってくれるか」と声をかけられた時に、「ああ、あのチケットが売れる人だ」と浮かんだ。もちろん断ることはない。はい、とおチビちゃんが即答すると、言いづらそうにしながら先生はこう続けた。
「あのさ、コーちゃん、難しい人だから、出てけって言われたらゴメンね」
(第10回 了)
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