女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
目が覚めて一瞬ドキッとしたのは、天井が見慣れた眺めと違ったから。布団の中でおチビちゃんは再び目を閉じて考える。えっと、ここはどこ……? 寝ぼけた頭を何とか巡らせて十数秒。パッと答えが浮かんだ。そうだ、ここは大町の山荘だ。
一昨日、ようやく護衛役の所長が初台のマンションから帰ってくれた。浅利先生の命を受けてのことだと分かってはいるけれど、「護衛」をされている間は息が詰まって仕方なかった。アヤメさんは、あの日ホテルに一泊した翌日から旅公演。今日からは一人でのびのびと休めるわ、と喜んでいた矢先、稽古場の廊下で先生から「ちょっとちょっと」と呼ばれたのだった。まだ何かあるのかしら、と思わず身構えたおチビちゃんに、先生は「色々大変だったな」と微笑んだ。
「あ……、いや、そんな……」
「疲れただろう?」
「いや……」所長のせいで、とは流石に言えない。「何とか大丈夫です」
「そうか。ご苦労さん。あのな、明日から大町へ行くんだ。君も来るといいよ」
「え?」
「ほら、御家族も誘って。ね?」
「御家族?」
「そう。いい? 明日だからね」
今回の大町行きはこんな具合にあっさり決まってしまったのだ。本当はダビデさんと会いたい気持ちもあったけれど、先生のせっかくの申し出を断るわけにはいかない。だから今、隣の部屋には両親と高校生の妹・ミナミがいる。時間は午前七時前。お母さんは起きているかもしれない。お父様は昨晩ずいぶん疲れていたみたいだから、きっとまだ寝ているはず。ミナミはまだまだ夢の中だろうな。
さて、と起き上がったおチビちゃんは洗面所を目指す。そう、「目指す」という言い方が大袈裟にならない程この山荘は広い。何度来ても驚いてしまう。
最初は研究所に入った年の合宿。同期と先輩たちで来た。何だかとても昔のような気がして妙に懐かしい。確か帰りに松本城へ立ち寄ったはず。あの時は特に気にしなかったけど、三十人以上がちゃんと布団を敷いて寝られるということだ。そりゃあ広いわけよね、と欠伸を噛み殺す。まだ少し眠い。
冷たい水で顔を洗い、窓の外を眺めていると段々頭が冴えてきた。この二階から望む景色はいつだって綺麗だけど、一番好きなのは冬かもしれない。枝に雪が積もった様はまるで絵葉書みたい。ここ長野県大町市は豪雪地帯だ。今は六月。当然雪はないけれど少しだけ肌寒い。
次に向かうのはキッチン。浅野のおばちゃんがもう朝食の支度を始めているはずだ。自然と足取りも軽くなる。両親よりも年上だけど、この山荘を管理しているおばちゃんは心のオアシスだ。
これまでおチビちゃんが山荘に来る時は、稽古や合宿、もしくはスポンサーへの接待か先輩方のゴルフで、いつだって周りは目上の人ばかり。家族連れで来る方がいれば、奥様の話し相手になったり、お子様と一緒に近くの河原で遊んだり、ということもあった。別に嫌なことはないけれど、やっぱりどこか緊張しているし気は休まらない。
そんな中、唯一のびのびしていられるのは、浅野のおばちゃんと一緒にいる時だ。食事の支度を手伝ったり、お菓子を食べながらお喋りをしたり、一緒にお風呂へ入ったり。そうそう、ここのお風呂は男女別になっていて、ただ広いだけでなく温泉だから、昨日お母さんがとても喜んでいたっけ。
何だか親孝行をしているみたいで、照れ臭かったし嬉しかった。よかったじゃない、なんて大人びた感じで言いながら、浅利先生の優しさをしっかりと感じていた。忙しい中、時間を作ってくれただけでも恐縮してしまうのに、お父様と一緒に楽しみたいから、とわざわざゴルフ用具やウェアまで用意して頂いた。
と、バサバサと向こうで音がする。そっと居間を覗くと先生が新聞を読んでいた。浴衣に丹前姿で、熱いお茶を飲みながら梅干しを食べるいつものスタイルだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「あの、先生」
「うん?」
「本当、ありがとうございます」深々と頭を下げた。「父も母もミナミ……じゃなくて、妹もとても喜んでいます」
先生は何も言わずに小さく頷くと、「顔、洗ってこいよ」と再び新聞を読み始めた。今洗ったばかりです、なんて言えるはずもなく、「はい」と返事をしたおチビちゃんは浅野のおばちゃんの元へと向かった。
朝食はおチビちゃん一家と浅利先生の五人で一緒に食べた。先生の好物の「なめし」をお父様も気に入ったようだ。なめし、と初めて聞いた時は何のことだか分からなかった。夏目漱石の小説「坊っちゃん」にも出てくるというけれど、さっぱり想像がつかない。漢字を教えてもらってようやくイメージが掴めた。菜飯、と書く。ざっくり言うなら、青菜の混ぜご飯。土地柄、浅野のおばちゃんの菜飯には野沢菜が使われている。
あと、キャベツの千切りに天かすをまぶした御惣菜。これも先生の好物だ。ちょっと醤油をかけると更に美味しい。味噌汁はおすましの様に透き通っていて、ネギや里芋や油揚げなど具材は多め。そして焼き魚、という山荘の定番の朝食におチビちゃんも大満足だった。おばちゃんの料理は本当に絶品だ。
食事中、先生はミナミに何度か話しかけていた。気を遣って頂いたのかもしれない。
「ミナミちゃん、そこにピアノが置いてあるでしょう?」
「はい」
「少し前にね、あのピアノで西城秀樹が歌の練習をしていたんだよ」
ミナミは驚いたのか「えっ」と言っただけだったけれど、その時のことはおチビちゃんも覚えている。ひとり遅れて夜に到着したので、着の身着のままでベッドの上の段で寝ていたら、翌朝ハシゴを登ってくる人の気配で目が覚めた。恐る恐る目を開けると、覗き込んでいたのは西城秀樹さん。彼がトップ・アイドルなのは知っていたが、前からあまり芸能界に興味のないおチビちゃんは眠さも手伝ってそんなに驚かない。
「おはよう」
「……おはようございます」
「なんかコケシみたいな子だなあ」
そんな会話のせいで、そこからの数日「コケシちゃん」と呼ばれるようになったことと、作曲家の羽田健太郎さんがピアノを弾いていたことは覚えている。
ひと休みした後、先生とお父様は車で近くのゴルフ場へと出かけていった。二人が並んで歩く姿を見るのは不思議な感じがする。そうお母さんに伝えると、「私なんか昨日から不思議だらけよ」と笑っていた。娘が研究所に合格する前から、四季のファンクラブ「四季の会」に入っていた両親からすると、確かに現実みがないのかもしれない。
実はゴルフの話が出た際、いつもの大役を授かるのでは、とおチビちゃんは予想していた。その大役とはカメラマン。ここでゴルフをやる時は、いつも8ミリカメラでの撮影を任されているのだ。撮った映像は記録用。終わった後にみんなで見て、フォームをチェックしたりする。重要な役割なのは誇らしい。ただこの時代のカメラはめっぽう重い。撮影だけではなくテープチェンジなどもあり、か弱いおチビちゃんにはかなりの重労働だ。
無論いきなりカメラマンを命ぜられた訳ではない。当初、浅利先生はおチビちゃんの普段の動きから素質を感じたらしく、マンツーマンでレッスンしようと打ちっぱなしの練習場に連れて行ってくれた。しかしいざやってみると難しく、なかなかクラブがボールに当たらない。その時おチビちゃんが履いていたのはジーンズ。チャックは左右にひとつずつ。なんとそれが両方とも徐々に下がり始めてしまった。しかも当たらない焦りから全く気付かず、数十回目に思い切りクラブを振った瞬間、ジーンズの真ん中の部分がペロンと垂れてしまった。まるでふんどしだ。慌ててチャックを上げるおチビちゃんに先生は「もういいよ」と声をかけた。
「もうこれ以上やらなくていい。うん、分かった分かった」
落胆を隠さないその表情に、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、おチビちゃんは「すいませんでした」と声を振り絞った。
その一件を挽回するつもりはなかったが、カメラに関しては上達が早かった。「この子のカメラワークはばっちりだから」と先生が紹介することもあり、いつしかゴルフになくてはならない存在になってしまったのだ。
そのため今回もカメラマンをやるのかなと覚悟していたが、先生は「お母さんたちと大町にでも行っておいで」と言ってくれた。国鉄の信濃大町駅までは車で十四、五分だ。「カメラはいいんですか?」と訊こうとしたが、ヤブヘビになるかもと口をつぐんだ。確かに娘がそばで撮影をしていては、お父様だって落ち着かないかもしれない。
先生たちを見送りに建物の外に出た際、運転手さんとも挨拶を交わした。おチビちゃんはこの人とも仲がいい。隣接している松本市出身なので、遊びに連れて行ってもらったこともある。先生は電車を使いたがらないので、夜遅い時間に都内まで迎えに来たり、逆に送り届けてくれることも多い。
車内でもおチビちゃんには大事な役割がある。先生や、同乗している先輩やスタッフの為にお酒を作るのだ。後部座席の真ん中の辺りを開くと、そこにウイスキーやグラス、そして氷も収納されている。お酒作りは極端に体力を使うものではないが、普段一滴も呑まないおチビちゃんは作っているだけで直ぐに酔っ払い、気持ち悪くなってしまう。しかも車の中では寝られない。同じく後部座席に座っている先生は、車の中では思い切り楽しみたいタイプ。うっかり寝ようものなら先生から起こされてしまう。
トイレに行きたくなったら、車を真夜中の塩尻峠で急停車させて、男女問わず暗闇の中で用を足したり、美味しそうなリンゴが生っていたら、頂く代わりに枝にお札を巻き付けてきたり……と、先生は子どもみたいに楽しむ。車中、シラフなのはおチビちゃんと運転手さんだけだ。
「あ、後で大町の方に送っていくからね」
「はい、宜しくお願いします」
その話を聞いていたミナミが「ねえねえ」と袖を引っ張る。
「ん? なあに?」
「お姉ちゃま、そのオオマチって何があるの?」
パッと思い付いたのはパチンコ屋。よく先輩の女優さんたちが打ちに行く店がある。それ以外だとアーケードの商店街くらい。どっちにしても女子高生の興味は引かなそうだ。行けば分かるわよ、と濁しておチビちゃんは山荘の中へ戻った。
再び五人全員が揃ったのは夕食の席で、ゴルフから帰って来たおチビちゃんのお父様と浅利先生はすっかり打ち解けていた。そのせいか朝食の時に比べると食卓がぐっと賑やかで、特に両親と先生は途切れることなく話を続けている。
「ねえねえお父さん、ゴルフはどうだったの? ちゃんと出来たの?」
そんなミナミの問いかけに答えたのは浅利先生の方だ。優しい笑顔で口を開く。
「うん、パパさんはとても上手だったよ。きっと筋が良いんでしょう」
パパさん、という聞き慣れない呼び方に驚いているおチビちゃん姉妹をよそに、「何かスポーツはされてたんですか?」「いや、テニスを少し……」「ああ、そうですか」と会話はどんどん進んでいく。まあ盛り上がっているに越したことないわよね、と箸を伸ばしたのはトンカツ。その隣の皿には天ぷら。偶然だろうけどパパさん、いや、お父様の好きな物が並んでいる。後で浅野のおばちゃんにお礼を言っておこう。それでなくても今日は御馳走だ。魚の煮付けにお刺身もある。
気付けば話題はお父様の職場、つまり中学校の話に移っていた。この年は数年前から社会問題となっていた校内暴力の件数が増え続けていて、遂に中学生の検挙・補導人員数が五千人を突破していた。翌年には人気学園ドラマ『3年B組金八先生』が、非行少年や校内暴力といったテーマを取り上げることになる。
おチビちゃんが研究所を受験する時に英語教員だったお父様は現在教頭先生で、「ニッセイ名作劇場」で小学生を無料招待している浅利先生も色々訊きたいことがあるようだ。年齢はお父様の方が五、六歳上のはずだけど、こうして話し合っている姿は同級生同士に見えなくもない。
先生には伝えていないが、実はお父様は熱血タイプの教師で、自宅に成績の悪い生徒を招いて教えたり、不良の子の家を訪ねたりしていた。またそれが災いしたのか、生徒が校舎の二階から落とした窓枠に直撃して入院したこともある。
白熱した会話は食事が終わっても続き、二人はそのまま晩酌に突入した。先生はいつもスコッチウイスキー「オールド・パー」を呑んでいて、偶然お父様もウイスキー党。こうして二人が乾杯をしている姿も不思議な感じがする。
「ねえ、先生」
「はい」
「うちの娘は何て言うか、すごいですよねえ?」
突然、お父様が変なことを言い出すのでびっくりした。ちょっと何言ってるの、と止めようとする間もなく浅利先生が「ええ」と頷く。
「パパさんの言う通りだと思いますよ」
微笑んではいたけれど、特に冗談めかす感じでもなかった。どうしていいか分からないおチビちゃんはそっと席を外し、浅野のおばちゃんのいるキッチンへ向かう。気付けば頬っぺたが微かに熱くなっていた。
(第09回 了)
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