女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
出てけ? え? そんなこと言われるの?
驚いて目を見開いたおチビちゃんに、浅利先生は苦笑いしながら囁いた。
「コーちゃん、すごく難しい人だから、なかなかみんな入れてもらえないんだよ」
更にプレッシャーがかかる。すごく難しい人、なんだ……。でも「どうしよう、大丈夫かしら」と怖気づいている時間はない。もう越路さんは稽古場で待っている。「さ、行ってみよう」。そんな先生の声に返事もできないまま、あれよあれよという間にドアは開かれてしまった。
まず感じたのは広さ。見慣れた稽古場がこんなに広いなんて。どうしてかしら、と考える余裕なんてない。先生はすたすたと先を歩いていく。その背中を見ながら、おチビちゃんは「あ、そうか」とひらめいた。稽古場が広く感じるのは、人が少ないからだ。演劇の時と違い、リサイタルの稽古は人が少ない。おチビちゃんには、ひとりポツンと立っている越路さんしか見えなかった。舞台上での堂々とした振る舞いが嘘のように、その姿はどこか儚げだ。年齢は五十代半ば。おチビちゃんとは親子ほどに離れている。
そこへ先生が近付いて耳打ちをした、気がする。越路さんがこっちをちらっと見た、気がする。確信が持てないくらいふたりの動きは小さく素早かった。よろしくお願いします、と慌てて頭を下げる。顔を上げた時にもうその姿はなく、淡々と稽古の準備が始まっていた。
おチビちゃんも邪魔にならないよう、忍び足で自分の居場所を探す。そういえば何をすればいいのかを聞かされていない。そっと先生の方へ近付き、「どうしていればいいですか?」と視線で訴える。ところがなかなか伝わらない。もう一度、もう一度、と何度か繰り返してようやく椅子に座ることができた。で、次は何をすればいいのかしら?
いつもなら先生の隣に座ってダメ取りをするはずだけど、今日はそういう雰囲気ではないしそもそも何の用意もしていない。ひとつ確かなのはとても緊張しているということだけ。もし「出てけ」と言われたら……。そう考える度に息が苦しくなる。
そのうちピアノの音が聞こえてきて、初めて他にも人がいることに気付いた。メロディーを奏でていたその人こそ、越路吹雪の夫にして音楽監督、公私ともにパートナーの内藤法美さんだが、もちろんおチビちゃんは知る由もない。ただただ邪魔にならないよう座ったまま静かにしていた。
内藤さんは越路さんよりも五歳年下。日本を代表するラテン・バンド、「東京キューバン・ボーイズ」でピアニスト兼編曲家として活躍していた二十代の頃に越路さんと知り合い、三十歳で結婚。作曲家としてもポップ・デュオ、トワ・エ・モワのヒット曲「誰もいない海」を手掛けている。
ちなみに結婚した時、二人は無一文同然。作曲家の古関裕而とコンビを組み、数々のヒット作を世に送り出した作詞家・菊田一夫が仲人を務め、麻布の鳥居坂教会で結婚式を挙げたが、日比谷の東京會舘で行われた披露宴に招かれた人々は、千円の会費を払って参加していた。現在では珍しくない会費制の先駆けだ。無論この時期、越路さんの人気は抜群だった。
元々は乙羽信子や東郷晴子と同期の宝塚歌劇団二十七期生。本名の「河野」からなる愛称の「コーちゃん」は、その頃に付けられている。彼女のファンは大人、それも東京の奥様方が多かったのが特徴だった。第二次世界大戦が激化し、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場が閉館、将来に不安を感じて退団する生徒が増える中、台頭してきた若手の一番手がコーちゃん。デビュー盤となったレコード「ブギウギ巴里」は戦後宝塚の最大のヒット、名実共に男役トップスターとして大活躍。退団後も東宝専属女優第一号としてミュージカルで人気を博し、「シャンソンの女王」と称されていたコーちゃんがどうして無一文同然だったのか?
彼女は数字に弱く、旅行と買い物が大好きだった。パリに行けば、方々のショーウインドウを見て回り、気に入った靴を片っ端から買いまくる。次はそれに似合うドレスをと何着も選ぶうち、いつしかまた靴を買い求めている。挙句、この調子だと持ち運べないからと、大きなトランクをいくつも買ってしまう。万事そんな調子なのだ。
高級ブランド、エルメスのケリー・バッグは皮、色違いで全て所有し、パリは「ジョルジュ・サンク」、ロンドンは「クラリッジス」と定宿を決めていた。まさしく昭和の大スターだ。まだ日本人の海外出国者数が十万人程度の時代、当然渡航にかかる費用だけでも桁違いな額となる。コーちゃんは映画嫌いなのに、出演本数は生涯五十九本。彼女の買い物への情熱を思えば、その理由が「ステージの収入よりも割がいいから」という話には真実味が出てくるし、会費制の披露宴にも頷ける――。
そんな諸々はつゆ知らず、おチビちゃんは緊張しながら先生と越路さんのやり取りを見つめていた。そろそろ二時間を過ぎる頃、本来ならお尻が痛くなってもおかしくないが、極度の緊張のせいか何も感じない。初めて経験するリサイタルの稽古は、劇団のそれとずいぶん違っていた。
基本的に登場人物は越路さんだけなので、まるで浅利先生がマンツーマン指導をしているように見える。おチビちゃんは自分がとても場違いな気がして、途中からなんだか心細くなってしまった。越路さんは歌う時も声を張らないし、先生もあまりダメを出さない。出す時は短めに、それを受けた越路さんはすぐに修正する。まさに阿吽の呼吸だ。稽古と呼ぶにはずいぶん静かな時間が続く。だから終わった瞬間もよく分からなかった。ただ越路さんと話していた先生が、リラックスした表情で近付いてきたから「もう終わりかな」と思っただけ。慌てて椅子から立ち上がる。
「よかったな」
「?」
「大丈夫だったぞ」
「……え?」
どうやら「すごく難しい」越路さんからオーケーが出たらしい。それは嬉しかったけれど、だから今後どうなるのかは謎だ。何ひとつ分からない。不思議そうな顔で「あ、あの、お疲れ様でした」と頭を下げるおチビちゃんに、先生は笑いながらオーケーだった理由を教えてくれた。
「まったく存在を感じなかったんだってさ」
「……」
「いやあ、君、存在感なくて良かったなあ」
はあ、と答えはしたものの女優としては少々複雑な気分だ。離れた場所で内藤さんと話している越路さんの横顔を見ながら、おチビちゃんは遅れてやって来たお尻の痛みを感じていた。
次に越路さんと会う機会は意外と早く巡って来た。当然『ロングリサイタル』の稽古があるので、そんなに遠い話ではないと分かっていたけれど、その場所が大町の山荘というのは予想外だった。しかも越路さんの別荘も車で数分の近所にあるという。冷房が嫌いだから涼しい大町を選んだそうだ。
昼過ぎになると、お手伝いさんが運転する大きな車に乗って、越路さんと内藤さんが山荘にやって来る。そこから数時間稽古をすると、越路さんたちは一度自分の別荘に帰って食事を済まし、夜に再び山荘へ戻ってくることが多かった。それからの時間はもう一度稽古……ではなく純然たるリラックス・タイム。酒と煙草、そして麻雀だ。
またゴルフをやる日は午前中の時間にやって来て、近くのコースへと繰り出す。もちろんおチビちゃんも御伴する。ゴルフはやらないけれど、8ミリカメラでの撮影という大役を任されているからだ。山荘へ来る度に経験を積んでいるので、おチビちゃんの撮影技術はかなり上達していた。ちなみにゴルフをする日は稽古は休み。体力的なことを考えれば賢明な判断だと、ひとり群を抜いて若いおチビちゃんは思う。プレイと同じくらい、いやそれ以上にカメラを担ぎ続けての撮影は体力を消耗させるのだ。
初めて稽古に立ち会った時と違い、山荘で会う越路さんはとても気さくだった。すごく難しい人、というイメージとはかけ離れている。たとえば稽古に入る前、越路さんはストレッチをするのだが、本当に驚くほど身体が柔らかい。お相撲さんがやる股割りのような体勢だって難なくこなしてしまう。その隣で身体の硬いおチビちゃんも懸命に頑張ってみるが、当然見様見真似でどうにかなるものではない。
「越路さん、すごく身体が柔らかいんですね」
「そう? あなたがちょっと硬すぎるのよ。ほら、ここのところをこうやってみて」
アドバイスどおりに動かしたくても、身体はなかなか言うことを聞いてくれない。苦悶の表情を浮かべながら頑張るおチビちゃんに、笑いながら「ほら、頑張んなさい」と声をかけてくれる。一度打ち解けてしまうと、越路さんはとても接しやすかった。
ある晩、くわえ煙草で麻雀を打つ彼女の姿を見ながら、おチビちゃんは考えていた。もしかしたら浅利先生は、実際の稽古よりもまず越路さんをほぐしてリラックスさせたいのかもしれない。そしてそれが舞台の上で良い結果を出す、一番確実な方法なんじゃないかしら――。
麻雀を打つ時に内藤さんの姿はない。一足先に自分の別荘へと戻っている。浅利先生や、四季の創立メンバーである照明の沢田祐二さん等と他愛のない、でも品のある会話を楽しみながら牌を並べ替える越路さんは心底楽しんでいるようだ。
おチビちゃんは麻雀の輪には入らず「ここで見てなさい」と言われた通り、先生の傍に座ってお茶汲み係に徹していた。別に麻雀が出来なかった訳ではない。神奈川の実家にいる頃は、家族や親戚で麻雀大会をやっていた。ただ先生は、おチビちゃんが麻雀をできないと思い込んでいるようで、やれるかどうかを尋ねられたこともなかったし、あえて自分から「私、できます」と立候補するつもりもなかった。
おチビちゃんが気になるのは勝負の行方よりも、みんなが交わす会話の方だ。大人っていいなあ、と素直に思える豊かな話題、冗談、雰囲気。麻雀の邪魔をしないよう、大人しくそのムードを楽しんでいるつもりだったが、実は先生から何度か「そういう顔しちゃダメだよ」と言われたことがある。おチビちゃんの位置からは先生の手牌が見えているので、その表情や目線から相手に手の内がバレてしまうというのだ。
本当は先生、私が麻雀できるって分かってるのかも……。
そう思うと見透かされているようで怖い反面、何でもお見通しなんだなと改めて感心してしまうのだった。
山荘での稽古も、やはり普段のお芝居の稽古とは少し勝手が違っていた。リサイタルといっても台本はちゃんと用意されている。浅利先生が最も大切にしているのは「テーマ」だ。単に歌を聞かせるだけなら、演出は必要なくなってしまう。越路さんの素晴らしい歌を、より効果的に聴衆の心へ響かせるにはどうすればいいのか。それを内藤さんが奏でるピアノと力を合わせ、徹底的に考えなければならない。
当然台本には一曲一曲の歌詞も載っているので、「何について歌っているのか」という部分がとても重要になる。その歌詞、特にシャンソンの訳詞をすべて手掛けているのが作詞家・岩谷時子さんだ。ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」、加山雄三の「君といつまでも」、ピンキーとキラーズの「恋の季節」などの大ヒット曲を生み出した後も、本業を問われると「越路吹雪のマネージャー」と答えていたので、一般的にはそのイメージが強いかもしれない。
元々は宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長で、越路さんは八歳年下のタカラジェンヌという関係性。退団するタイミングで自身も退職して一緒に上京し、マネージャーとして越路さんをずっと支え続けていた。また劇団四季との関わりを挙げれば、『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『ウエストサイド物語』の訳詞は彼女によるものだ。
その多彩かつ充実した仕事ぶりが示すように岩谷さん自身も忙しく、いつでも越路さんと一緒にいるという印象はない。ただそれも勘違いかしらと、おチビちゃんが自分の記憶をちょっぴり疑うのは、岩谷さんの声がとても小さいからだ。かなり近い距離で話をしていても、なかなか聞き取れないほどで、実は最初に越路さんと出会った四季の稽古場にもいらっしゃったのでは、と今も密かに思っている。もちろん二人が一緒にいる時は本当に仲睦まじい様子で、越路さんの精神的な部分においても優秀なマネージャーであることが伝わってきた。
浅利先生の隣に座ってダメ取りをしていると分かる。越路さんが声を張って歌うことは滅多にない。それは東京に戻ってから行なった、マイクを持ちながらの立ち稽古でも同じだった。
「そうそう、ここで振りつけがあってね……」
そんな浅利先生の言葉に即座に反応し、越路さんはアイデアを形に変えていく。
勘が鋭く、バックの演奏が少しでも音を外すと影響を受けてしまうという歌声。彼女は「~さ」「~よ」という語尾につく終助詞を強調し、時折りガギグゲゴのガ行を鼻から抜きながら、まるで語りかけるように歌う。そして、それを支える「意味の分からないシャンソンを歌ってもしょうがない」という信念。浅利先生のアイデアを具現化していくその進化を目の当たりにすると、実際には放たれていない歌声が聞こえているような、不思議な感覚におチビちゃんは陥るのだった。
(第11回 了)
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