世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十五、バッド・チューニング
「ていうかさ、まだ言ってなかったけど、私のお母さんってバツイチなんだよね」
へえ、と応じた俺の顔を見ながら「別に言う必要もないんだけどさ」とナオは軽く微笑む。思わず言葉を探したのはBGMがないからだ。
「じゃあお父さんって……」
「あ、本当の、っていうか血の繋がったお父さん」
「ん? じゃあお母さんが……」
「ううん、二人とも血の繋がった親。ただ、お母さんが再婚ってだけ」
ああなるほど、と頷いて「響」のハイボールを飲み干した。ただでさえ痣のことが気になっているのに厄介な話だなと思う。遠い地方のラジオを聞いているみたいだ。なかなかチューニングが合わない。
「そんなこと、子どもは知らなくてもいいと思うんだけど、ほら、前に言ったじゃない? お母さん、友達みたいな親子に憧れてるって。そうなり始めた頃にカミングアウトされたんだよね」
確かに親の離婚歴を知らなくても、大きな影響はないのかもしれない。念の為、というか重くなりがちな静寂を紛らす為に訊いてみる。
「じゃあ、知らなかった兄弟とかが……」
「腹違い的な? いないいない。最初の結婚は一年ちょっとだったんだって」
そうなんだ、と言いながら考える。ナオの母親が本当のことを告げたという証拠はない。本当はできちゃった結婚だったかもしれないし、その結果死産だったのかもしれない。離婚は一度だけではないかもしれないし、父親だってバツイチかもしれない。何故かこんな風に余計な妄想ばかりが広がってしまう。やっぱりチューニングが合っていない。
「まあ、別にそれが今回の卒婚話につながるとは思えないんだけどさ。でも本気なのは間違いなさそうなんだよね」
「いつから卒婚開始するのか決まってる感じなのか?」
「うーん、分からない。急に呼ばれた割には具体的な話、なかったんだよね。とりあえず二人は今も一緒に住んでるし、不動産屋に行ってるわけでもないみたい」
実はお母さんにはもう恋人がいて、そいつの家に行くことになっているのかもしれない……とはさすがに言えなかった。ナオは疲れている。親に対しての距離感が違うから、もし同じ立場になってもあまり疲れないような気がした。別に両親が離婚しても卒婚しても俺には関係ない。
「あ、ごめん。同じのでいい?」
空になったグラスを持って、ナオがカウンターの中に入る。礼を言い、そっと頭を二、三度振った。もう少し酔えば自然とチューニングは合ってくるのだろうか。いや、その逆かもしれない。まずは水を貰おう。そう思い、声をかけようとしたタイミングで電話がかかってきた。音は鳴らしていない。バイブのみ。ポケットに入れているので太腿に振動が伝わる。
「あのさ」
「ん?」
「トイレ行ってくる」
「場所分かる?」
「うん、大丈夫」
店の奥の狭いトイレに入って、水を貰い忘れたことに気付いた。慌てているのか、ぼんやりしているのかよく分からない。ただ、電話の相手なら分かる。安藤さんだ。参ったな、と短く息を吐きながら履歴を確認すると――「冴子」。
冴子?
妹からの電話に動揺するなんて情けない。留守電は入っていなかった。かけ直そうか。もしかけ直すなら、今。このタイミングだ。変に間を空けてしまったら、あいつはきっと出ないだろう。どうしよう。少し迷ったが答えは見つかった。妹に電話をしながらトイレから出て来る姿を、今のナオには見せたくない。もったいないが今回は見送りだ。
何の用も足さずに手だけ洗った。安藤さんだと確信していた自分を窘めながら席に戻る。何だかんだで未練がましいのは俺の方じゃないか。これもまた情けない。よいしょ、と声を出しながら椅子に座る。ナオが作ってくれた二杯目の贅沢なハイボールはやはり美味かった。
「お母さんは妙にさっぱりしちゃってたんだけど、お父さんはどこか無理してる感じだったんだよねえ」
さっきまでのやけっぱちは徐々に影を潜め、ナオは落ち着いた様子で話し始めた。でもいつもとは違う。その父親同様どこか無理をしているみたいだ。ふわっと軽く発した言葉が、ストンと落ちて積み重なっていく。
一向にチューニングが合わない俺は、もう一度冴子からかかってこないかとポケットのスマホを気にしながら相槌を打っていた。次は必ず電話に出る。そして安太が近くにいるなら直接「おめでとう」と伝えるんだ。
BGMのないこの店の床には、さっきからナオの言葉が落ち続けている。
そろそろ十時。冴子は電話をかけ直してこないし、ナオの話はちっとも響いてこない。途中一度、客が店の中を覗いていたが特に粘りもせず帰っていった。
「そろそろ『グレンリベット』で作ってみるね」
そう言いカウンターの中に入ったナオの足取りは少々危なっかしい。多分これ以上呑ませていいことはないだろう。ただ今日に限っては事情が違う。いつものしっかりしたナオよりは、この方が俺には都合がいい。さっきトイレに行った時、痣の具合を確認すれば良かった。
「うちのお父さん、風俗OKだったのよ」
「え?」
「だった、って過去形にすることはないか。OKなのよ、今でも。そうした方がオンナが出来る心配が無いって、お母さんが言ってたわ」
そう言って浮かべた笑顔もどこか疲れている。俺はわざと明るい声を出した。
「案外そうなるとさ、行かなくなるんじゃない? 風俗」
昔はぼちぼち行ってたみたいよ、と答えた笑顔も明るくはない。ハイ、と手渡されたハイボールの旨さだけが救いだ。ナオは席に戻らずカウンターの中でハイネケンを飲み始めた。客が座る椅子よりも、そっちの方が落ち着くのかもしれない。
当然だが俺たちの親世代だけでなく、そのまた親世代、更に親世代、そのまた更に上の世代にもぐちょぐちょはあった……と安太に教わったことがある。だから年寄りになっても性欲に悩まされる、という話だった。どんな流れでそうなったかは忘れたが、あれは安太のアトリエでぐちょぐちょやった翌朝だ。
「親のやってる姿なんて見たくないよな」
全裸で寝そべりながらそう呟いてからかわれた。意外と優等生、みたいな言われ方だった気がする。
安太はそれから「赤線」「青線」「チョンの間」に始まり、「売春は人類最古の職業」説まで、ぐちょぐちょの歴史を楽しそうにレクチャーしてくれた。原始時代、またそれ以前のケダモノだった時期から、ヒトの営みの中にはぐちょぐちょがあった、というのは本当だろうか。少なくともお医者さんごっこはなかっただろう。そもそも医者がいないはずだ。
年寄りになってからの性欲。俺にイメージできるのは「熟女キャバクラ」や「高齢者向けAV」くらいだけど、いつしかああいうモノのお世話になる可能性はゼロではない。ふと思い浮かんだのは、モーパッサンのバーバラこと忰山田女史。彼女が五十八歳だったことを考えると、そんなに突飛な話ではないような気もする。もう彼女の顔は思い出せないが、新宿の美術館に飾られていた安太の絵ならはっきり覚えている。絵っていうのは意外と良いもの、かもしれない。
それにしても冴子のヤツ、どうしてもう一度かけてこないんだ。あいつは昔からそういうところがある。
「あのさ、両親って仲いい?」
カウンターを挟んで左半身を向けているナオが、横顔のまま小さな声で尋ねてきた。自分の両親に関しては、もう話し尽くしたのかもしれない。
「うーん、どうだろう。興味ないっていうか、そういう風に考えたことがないからな」
だからかな、とナオが答えるまで結構な間があった。横顔は眠たそうだ。いずれにせよ呑み過ぎている。
「……だからかな、妹さんと仲がいいの」
ゆっくりとこっちを見て呟いた。別に嫌味や皮肉を言っている訳ではない。それが分かる声だった。カウンターの向こうのナオは、今とても鈍い。実はその妹からの電話を俺が待っているなんて思ってもいないだろう。きっと左腕のユリシーズも同じだ。御主人様同様、起きているだけで精一杯だから、俺のヘソの下の痣に気付く筈もない。
ナオ、と呼びかけると「ん?」と反応はあるし、話してみれば会話は噛み合っている。ただ一度間が出来ると長くなる。どっちみち、この調子では一人で帰らせられない。狛江まで送っていくか、それとも家に泊まらせるか。どっちにしよう、と考え始めて数秒、太腿に振動が伝わった。冴子から電話だ――。
とりあえず店の外に出て話そう。ナオには後で説明すればいい。あの調子なら気分を害することもないだろう。そう決めてポケットからスマホを取り出す。表示されていたのは……職場の番号だった。冴子からではなかったので一瞬驚いたが、これはきっと安藤さんだ。とりあえず電話が切れるのを待つ。慌てて立ち上がらなくて正解だった。
「ねえ」
ようやく切れたと思ったらナオに呼ばれる。顔を上げるとこっちを見ていた。「何?」という俺の声は微かに掠れている。
「もう飲んじゃったでしょ? 新しいの作ろうか?」
「いや、まだ大丈夫。それよりあまり呑み過ぎるなよ?」
はーい、と間延びした返事をしてナオはまた横顔を向ける。しばらく沈黙が続いた。太腿にさっきと違うタイプの振動が伝わる。知らない番号から電話、ではなくショートメールが届いていた。きっと安藤さんからだ。そういえば昨日、俺は自白剤を飲んで住所や星座と共に電話番号も訊かれるがままに答えている。あの妙な瞬間を彼女は覚えているのだろうか。
何度も連絡してごめんなさい/さっき電話した後、色々あって店に戻ってきました/明日、また話を聞いて下さいね/おやすみなさい
留守電じゃなくて良かった。素直にそう思った。それでなくても昨晩の記憶が、つい二十数時間前の感触が、頭の中にぶちまけられそうになっている。ナオの横顔を前にして安藤さんの声なんか聞いたら、チューニングは狂ったまま元に戻らないだろう。
考えてみれば明日は店を開けなければならない。ナオを狛江まで送って帰ってきても、そのままナオの家に泊まっても、睡眠時間に影響が出そうだ。
「なあ、今日は家に泊まっていけよ」
はーい、とまた間延びした返事をして、ナオはふらふらと立ち上がった。「じゃあ支度するね」
「タクシーの方がいいよな?」
「いや、歩いているうちにシャキっとして、そのうち大丈夫になるから大丈夫だよ」
その言葉を信じた訳ではなかったが、万が一大丈夫になられても困るので、店を出てすぐにタクシーを拾った。俺だって出来るだけ早く寝た方が良いはずだ。現段階でほとんど自覚症状はないが、昨日はあまり寝ていない。
さすがにタクシーの後部座席に座り、心地良く揺られていると欠伸が出たが、気付けば隣のナオはもう寝息を立て始めている。こういうのは早い者勝ちだ。結局車を降りるまで、俺はウトウトすることもなかった。
家の玄関から敷きっぱなしの布団まで、靴を脱いだナオの背中に手を添えて連れて行くのは簡単だ。わー、と間の抜けた声を出し倒れるように寝転がった姿を見ながら、俺はハイネケンを一口含む。さっき「マスカレード」から一本貰ってきた。別にこれ以上呑みたいわけではない。ただタクシーの中で、再び太腿に振動を感じたのでスマホを確認しておきたかった。
今度こそ冴子か、と思ったが正解は安藤さん。メールではなく電話、しかも留守電に入れていないので用件が分からない。まだ終電はある時間だ。会えるならば会いたいと願っているのか、昨日のぐちょぐちょのことを悔やんで思い詰めているのか、まさかこれから死のうとしているのか。眠いせいか想像がどんどん暗くなっていく。このままではまずい。今日はこれ以上考えるな、と目を閉じて自分を戒めた。今日はもう外に出られないから、ではない。このままだとチューニングが安藤さんに合ってしまうからだ。
俺の布団の上で着の身着のまま、何も掛けずに寝ているナオの顔をハイネケン片手に覗き込む。今も彼女は不安なはずだ。両親の卒婚という理由にはあまり共感できないが、こうして一緒にいることがきっと大事なんだと思う。お医者さんごっことは別、いや正反対の感覚かもしれない。
例えばナオの両親にもこういう感覚はあっただろう。でもそのうち変わったり失われたりして、「卒婚」という結論に達したのなら、何だかとても安心できる。良いとか悪いとかではなく、ヒトなんてそんなもんだ。決められたルールやパターンを守り続けるのは、虫やケダモノの方がずっと上手に違いない。
早く眠ればいいのに、ハイネケンを呑み終わった後もまだ起きていた。あの後もう一度、安藤さんから連絡が来たからだ。今度はメールだった。
もう家に帰りましたが、なんだか眠れなくてまたメールしちゃいました/本当にしつこくてごめんなさい/寝てしまえば大丈夫だと思います/明日はいつも以上に働くので安心して下さい/あと、今朝のハチ公との写真、とても嬉しかったです/ありがとうございました!
今となっては、なかなか文面どおりに受け取りづらい。この感じだともう一度くらいは連絡がありそうな気がする。もちろんただ待つだけではキリがないので、あと二十分経ったらスマホの電源を切り、ナオの隣で眠るつもりだ。
ふと思い立ってヘソの下の痣を確かめてみる。赤黒い色は少し薄くなった気がするけれど、あまり自信は持てない。濃くなったと言われれば、そうかなと納得してしまいそうだ。だから「明日の朝、ナオとユリシーズに見つかりませんように」と半ば本気で祈った。聖書の授業で習ったように五本の指を交互に組んで祈ったが、こんな不埒な願いはきっと叶わないだろう。
ナオが寝返りを打つのが見える。もし彼女と結婚したらこういう景色が当たり前になるはずだ。そう思ってはみたものの、あまり現実味がないからすぐに気持ちが逸れてしまった。 続けて浮かんだのはあの二人のこと。安太と冴子は結婚を考えているのだろうか。まさかとは思うが、もしそうなったらバツイチの安太は義理の弟になるんだな――。
それはちっとも面白くない想像だった。ぞっとしない、とは正にこのことだ。しかめっ面で時間を確認するともう二十分が過ぎている。今日のところはもう寝よう、とスマホの電源を切ろうとした瞬間、電話が来た。安藤さん、ではなく冴子からだ。俺は反射的に「通話」を選んでいた。
「もしもし、お兄ちゃん? 今大丈夫?」
声が変わっていないことに安心したせいで、「大丈夫」という一言がなかなか出て来ない。とにかくナオを起こさないよう、静かにサンダルを履いてこっそりと外へ出た。
(第25回 了)
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