世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十四、痣
店に入った瞬間、昨日までとは何かが違うと感じたりはしなかった。もしかしたら、と思わなくもなかったが、俺はそこまで繊細に出来ていないらしい。その代わり安藤さんのタイムカードを見た瞬間、数時間前までのあれやこれやが蘇ってきた。
正直なところ、あまり深入りする気はない。あそこまで年齢が離れている子と付き合っていく自信はないし、ズルズルいけば嫌な終わり方をするだけだ。それどころか、店長にバレてこの職場を追われるかもしれない。でもなあ、とタイムカードを押す。もう一回、いや、あと十回くらいは安藤さんとしておきたい。それくらい良かったのは事実だ。
そんな不埒でふしだらな気持ちのまま開店準備を済まし、レジに座って水を口に含む。さっきから妙に喉が乾くのはケバブのせいか、それとも例の自白剤のせいか。もしそうなら、今頃安藤さんも喉が渇いているはずだ。彼女の綺麗な腹筋を思い浮かべながら、もう一度水を含む。さっきナオと電話をして、仕事が終わり次第「マスカレード」へ顔を出すことになった。きっと実家に呼ばれた理由の「大事な話」についてだろう。本音を言えば真っ直ぐ家に帰ってぐっすり眠りたかったが、なかなかそういう訳にもいかない。こっちにはホヤホヤの弱みがある。
午後四時を過ぎた頃、店長が姿を見せた。
「昨日は突然変わってもらってすみませんでした」
そのおかげで良いことがありまして、という言葉を呑み込み「気にしないで下さい」と微笑んでみる。
何だかいつもより疲れているように見えるが、それは俺が色々と事情を知っているからかもしれない。「ああ、開けてくれていたんですね。今日も遅れちゃってすみません」という言葉から、彼がシフトに入っていたことを知る。てっきり立ち寄っただけかと思っていた。いや、あの言い方から察するに俺は遅番だったんじゃなかったのか? シフト表を確認しようと思ったがやめておいた。万事結果オーライだ。
昨日の勤務中、店長から着信があったことにも俺から触れたりはしない。早く時間が流れてくれるよう祈りながら、何度目かのレジ金の勘定に取り掛かった。
トイレに行って気付いたことがある。
ヘソから数センチ下に赤黒い痣が出来ていた。親指の爪くらいの大きさをした楕円形。きっと安藤さんの跡だろう、と気にしなかったが段々と不安になってくる。このまま「マスカレード」に行って、ナオと向き合っても大丈夫だろうか。ちょっと前に右田氏の家でぐちょぐちょやったこともバレていた。あいつの勘が鋭いのか、俺が色々と甘いのか。きっと両方だろうな、と思いつつバックヤードの店長に声をかける。彼はさっきから篭りっきりだ。
「すみません、片付けは明日早く来てやりますから、今日、ちょっとだけ早くあがっていいですか?」
しばらく間があって「大丈夫ですよ」と返事が来る。助かった。これで一度家に帰ってシャワーを浴びれる。実は俺が気付いていないだけで、これ見よがしに昨日の痕跡が残っているのかもしれない。たしか安藤さんは香水つけていないはずだよな、と思った瞬間に店長が戻ってきた。嫌なタイミングだ。
「あのお、だったら今日はすこし早く閉めませんかね? いつも通り時給は出しますから……。いや、本当のこというと、少し具合が良くなくて」
こうして近くに来られると、俺も気付いていない安藤さんの痕跡を発見されそうで落ち着かない。「じゃあ、準備始めちゃいますね」と返事をして、また何度目かのレジ金の勘定に取り掛かる。
店長は何か言いかけたようだったが、「ではすみませんが、宜しくお願いします」と小さな声で告げるとバックヤードへと戻っていった。
期せずして三時間ほど余裕が出来た。早仕舞いを決断した店長に感謝しつつ、彼を動かした要因については考えないようにした。安藤さんが絡んでいることは間違いないが、だったら尚更だ。それでなくても仕事中、彼女の感触が生々しく浮かんできていた。
時間はあるのでどこかに寄って酒を飲んでもよかったが、真っ直ぐ帰ったのはそのせいだ。ヘソの下の痣のように、俺の身体にはまだ彼女の痕跡が残っているような気がしている。本当に店長は何も気付かなかったのか。気付いたけれど、あえて何も言わなかったのか。判断がつかない。というか、そもそも俺は彼のことをよく知らない。何度か店の近くの居酒屋で呑んだことはあるが、その記憶は何もない。きっとつまらなかったんだと思う。俺だけではない。向こうもだ。
呑み屋どころかコンビニにも立ち寄らず真っ直ぐ帰った。玄関から靴下を脱ぎ、シャツを脱ぎ、と服の道を作りながらシャワーへ。あの赤黒い痣はまだあった。どことなく大きくなっているような気がして、思わず数秒立ち尽くして覗き込む。よく見ると、よく分からない。
安藤さんの身体に俺の痕跡は残っていないと思う。うまくいったかどうかは分からないが、気をつけたことは覚えている。そんなこと、初めてかもしれない。すぐに顔を合わせる職場の同僚だから、というつまらない理由だが、あの店長の様子から間違いでなかったことは分かる。
磨りガラスの窓の外はまだ暗くない。ぼんやりと明るい風呂場で、世田谷線の踏切の音を聞きながらシャワーを浴びる。少し頑固だったが、そのうち昨日の夜は剥がれ落ち、排水口に吸い込まれていった。外からは何やらやり合う子どもの声も聞こえる。あれは中学生じゃない。小学校低学年くらいかな。安藤さんは俺のことを「お医者さんごっこをしたがる男の子に似ている」と言っていた。今振り返ると妙に分かりやすい。ぐちょぐちょの説明としては、かなりいい線いっている。
ただ、俺にはお医者さんごっこの経験がない。どういう風にするのかも知らない。案外みんな経験があるんだろうか。安藤さんも経験があるから、ああいう言い方をしたんだろうか。
いつの間にか子ども達の声は消え、また踏切の音がカンカンと鳴り響いている。さあ、早く支度を済ませて出かけよう。「マスカレード」でナオに会う前に、どこかで軽く呑んでおこう。
よく身体を洗ったつもりだが、夜とは違って剥がれ落ちないらしく、痣は依然としてヘソの下にあった。こういうのって何日くらいで消えるんだっけ? 壁にはナオが貼ったユリシーズの写真が一枚。俺は痣を隠すようにして服を着た。
どこで呑もうかと考えるまでもなく、足は「大金星」へ向いていた。湿度が高いせいか、夜を剥ぎ落としたばかりの身体にうっすら汗が滲んでいる。そろそろ喉が渇いてきた。羽根木公園の入口では近所の女子中学生がスマホを回し合いながら、「ヤバい、ヤバい」と歓声をあげている。お嬢さんたちもお医者さんごっこ、したことあるのかい?
とりあえず一時間くらい呑んでから「マスカレード」に移動すればいいかな、なんて歩きながら考えているうちは良かった。でも「大金星」に近付き見慣れた風景になるにつれ、段々と一昨日の記憶が戻ってくる。たった二日前のことなのに何だか遠い。もしかしたらあの自白剤のせいで、記憶や時間の感覚がゆらゆら揺れているのかもしれない。
そういえばドリンク百五十円の店のせいでガラガラだったな、
そうだ、トミちゃんが安太の絵を買ってたんだ、
あれはたしか、七万五千円だった――。
七万五千円、と小さく口に出してみてようやく思い出したことがある。俺は絵で受賞した安太に、「おめでとう」と言うつもりだったんだ。でもなかなか電話が通じなくて、まだ何ひとつ伝えられていない。
まあ忘れてちゃ世話ねえな、と頭を掻きながらスマホを取り出すと、職場から電話がかかってきた。何だ、まだ店長帰ってなかったのか。
「もしもし、お疲れ様です」
「あれ、店どうしたんですか?」
安藤さんの声だ。思わず立ち止まる。店ってなんだ? 状況を把握したいが、彼女はとても矢継ぎ早だ。
「なんか閉まっちゃってて、中にも誰もいないんですけど、え? 本当にどうしたんですか、これ? あれ、あの、私、何か勘違いしてます?」
わざわざ店内まで入っていったのか、と内心驚いたがこういう時は黙っておくに限る。俺まで喋ればきっと収拾がつかなくなる。案の定、安藤さんはしばらくすると落ち着いてきた。なるべく穏やかな声で経緯を説明する。店長が早仕舞いを提案した、と告げるのは少々気が重かったが仕方ない。
「……そうだったんですね」
「うん、明日は俺が店開けるんだけど、安藤さん、シフト入ってるんだっけ?」
夕方からです、と彼女が答えた後、お互い言葉に詰まった。不思議だ。こうして実際に話していると、あの綺麗な顔と身体が思い浮かばない。一昨日までの安藤さんと話しているみたいだ。だからだろうか、「今、どこにいるんですか?」という突然の問いかけにも「そろそろ家に着くところなんだよね」と嘘で切り返せた。今、彼女は三軒茶屋にいる。「下北だけど」と素直に答えていたら、紆余曲折はあっても、また道玄坂のホテルにいたかもしれない。
「電話しちゃってすいませんでした。では、明日もまたお願いします」
聞き慣れた一昨日までの安藤さんの声のまま、ようやく電話は切れた。
電話の最中、肩の辺りに感じていた疲れは顔にも影響を及ぼしていたらしく、「大金星」に入った瞬間、店主のキンさんに「なんだかお疲れみたいだねえ」と言われてしまった。店内は今日もまた客の入りが悪い。
「一昨日のさ、新しく出来たっていう店のドリンク全品百五十円、終わったんだよね?」
そう尋ねると「そうそう。今日、人がいないのは百パーセント私のせい」と笑っていた。
結局来る道すがら考えていたように、約一時間、大瓶二本を飲んでから「マスカレード」に向かう。
今、大金星出たところ/これから行くけど大丈夫?
メールを出して十秒ほどでナオから「大丈夫よ」と返ってきた。ずいぶん早いが、今日はどこも客の入りが悪いのだろうか。下北の街自体はいつもと変わらず人が多い。普段なら混雑を避けて裏道から行くところだが、今日はわざと喧騒の中を突っ切りながら「マスカレード」を目指した。まだ剥がれ落ちていないものがあるなら、この人いきれで何とかしてしまいたい。
昨日の渋谷とは違って外国人観光客は多くないが、代わりにずっと住んでいるような外国人は多い。ふと反対側から歩いてくる女の子が安藤さんに似ている気がして、思わず顔を伏せてしまった。その不自然な体勢をキープしながら角を曲がると「マスカレード」が見えてくる。さあ、着いた。
シャワーは浴びたし、人混みにも揉まれたものの、どこか緊張してしまうのは、やはり赤黒い痣のせいだ。ナオは難なくあの存在に気付いてしまいそうな気がする。
きっと最初に異変に気付くのはユリシーズ。ナオの腕からひらりと抜け出し、俺の赤黒い痣目がけて突っ込んで来るかもしれない。そんな妄想をしながら店の前に立つ。ドアには「準備中」の札が掛かっていた。これ間違えてるんじゃないのか? いくら何でも閉めるには早過ぎる。それとも、そんなに大事な話をしようとしているのか――。
「おーい、いるのか? 入るよ?」
当然店の中に客はおらず、カウンターに座ったナオが「お疲れ様」とグラスを掲げた。
「店、どうした? まだ早いだろ?」
「さっき閉めた。今日はもういいや。夕方に来た外人のカップルにチップ貰ったし」
「……何飲んでんだ?」
「ハイボール。『響』で作ってみた。さすがに美味しいよ。飲んでみる?」
「贅沢品だなあ」
「いいじゃん、私の奢りだからさ、遠慮せずにやっちゃって。あとね、『グレンリベット』の高い方で作っても美味しいから。後でやってあげる」
御機嫌といえば御機嫌だが、どこかやけっぱちな感じもするし、営業中からちびちび呑んでいたようにも見える。この調子なら赤黒い痣には気付かないだろう。ナオが酔っていればユリシーズの動きも鈍るはずだ。
はい、と目の前に置かれた「響」のハイボールで乾杯をする。確かに旨い……けれど濃い。そう訴えると「あれ、弱くなったんじゃない?」とおどけてみせた。やっぱりこれは、やけっぱちの方だろう。一度落ち着きたいが、カウンターだけの店はこういう時に不便だ。
「なあ、なあ、もう酒は作らなくていいからさ、こっちに来て座ってろよ」
俺の言葉に反応するでもなく、自分の分のハイボールをナオは作っている。BGMのない空間はこういう時に不便だ。作り終えるまで待って、もう一度座るよう促すと今度は素直に従った。
「親は元気だったか?」仕方なく俺の方から水を向ける。「それとも具合が悪いから呼ばれたのか?」
ううん、と首を振ってから作ったばかりのハイボールをナオは飲んだ。そして「やっぱり濃いかも」と顔をしかめコップの水に口をつける。「だろ?」という俺の声にもう一度顔をしかめてから、「元気だったのよ、二人とも」と話し始めた。
「お母さんは会ったことあるから分かるでしょ?」確かにメッシュのオカッパはなかなか忘れられない。「あの人はいつでも元気。で、お父さんは私が学生の頃に交通事故をやっちゃって、今も肘が全部は曲がらないんだけど、それ以外は健康みたい」
「お父さんの仕事って?」
「あ、言ったことなかったっけ? 工務店の社長」
「お、社長さん」
「小さいところだからね。別に毎朝ハイヤーが迎えに来るわけでもないし、小ぢんまりとしたマンション住まいだし」
正確に覚えているわけではないが、きっと俺もナオに親の話はしていない。話せるほどよく知らない、という部分も正直なところある。
「まあ、結構急な感じで呼ばれたからさ、なんか私も緊張しちゃって」
「それ、やだね。俺なら病気かなって思う」
「そうそう、私も同じ。どっちかがガンにでもなったのかと思って、一応そういう覚悟はしておいたのよ」
冴子に失踪の手伝いをしてほしいと頼まれた日のことを思い出した。あの時、俺には覚悟なんて何もなかった。覚悟が出来ていれば何か違ったんだろうか。
「今、妹さんのこと、考えてたんじゃない?」
別に、と言いながら軽く鳥肌が立つ。やはりナオは勘がいい。俺は痣を隠すように腹の前で腕を組み、「でも病気じゃなかったんだろ?」と話を促した。
「うん、卒婚を考えてる、って言われた」
「ソツコン?」
「そう、何て言うの? 結婚からの卒業、みたいな」
「離婚……とは違うのか?」
「うん、籍は抜かないらしい」
「じゃあ何が変わるんだ?」
「やっぱり住むところかな。どうやらお母さんの方が別居したがってる感じなんだよね」
話が妙な方向へ転がった。でも油断は禁物だ。俺は相槌を打ちながら、腹の前の腕をゆっくりと組み変えた。
(第24回 了)
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