折笠美秋句集『北里仰臥滴々/呼辭記』
発行 二〇一九年十月十七日
定価 一〇〇〇円(税抜)
編者 寺田澄史
発行者 折笠美秋句集刊行会(代表林桂)
発行所 鬣の会
住所 〒371-0013群馬県前橋市西片貝町5-22-39林桂方
林桂さんの鬣の会から折笠美秋句集『北里仰臥滴々/呼辭記』が刊行された。折笠美秋は昭和九年(一九三四年)生まれで平成二年(九〇年)に五十五歳で亡くなった高柳重信門の俳人である。
折笠は生前刊行の句集に『虎嘯記』(昭和五十九年[一九八四年])、『君なら蝶に』(昭和六十一年[八六年])、『火傳書』(平成元年[八九年])の三冊があり、本書が第四句集になる。発行人は折笠美秋句集刊行会で十八人の有志が名前を連ねておられる。編集は寺田澄史さん、解説は岩片仁次さん、そして版元が林桂さん代表の鬣の会である。
散文の仕事では、エッセイ集『死出の衣は』が平成元年(一九八九年)に刊行されている。評論集に平成十年(九八年)刊の『否とよ、陛下』があるが、こちらは折笠美秋俳句評論集刊行会の編集・発行で死後刊である。
略歴をまとめておくと、早稲田大学時代に俳句研究会に所属し先輩の高柳重信と知り合った。昭和三十三年(一九五八年)の実質的に重信主宰の「俳句評論」創刊の際には、世話人の一人として参加している。卒業後に東京新聞に入社した。四十八年(七三年)に報道部デスクとなっている。ジャーナリストとしても優秀だった。ただ五十六年(八一年)頃から筋萎縮性側索硬化症(ALS)の症状が現れ始め、五十八年(八三年)には北里病院に緊急入院し、気管切開して人工呼吸器を取り付けられた。自力で呼吸すらできない辛い状態になったのだった。それでも奥様の力を借りて口述筆記などで作品を作り続けた。
重信が自らの前衛俳句を継ぐ作家として、加藤郁乎と折笠の名前をあげたことはよく知られている。俳句の後継者に郁乎を、評論の後継者に折笠を指名したのだった。ただ事は目論見通りには運ばなかった。郁乎は重信から離反して独自の道を歩み始めた。折笠は最後まで重信の高弟だったが病に倒れた。重信は昭和五十八年(一九八三年)七月に急逝してしまったが、翌年折笠が処女句集『虎嘯記』を刊行しているのは重信前衛俳句を継ぐという意思表示だろう。また五十九年(八四年)には「俳句評論」の精鋭十人限定の同人句誌「騎」を創刊して参加している。しかし志半ばで病魔に倒れた。
俳句で新しい表現を生み出したいと意気込んでいる現代の若手俳人たちは、一九七〇年代ほど前衛俳句と伝統俳句の違いにセンシティブではないだろう。重信系前衛俳句はすでに遠い過去の俳句遺産であり、斬新な表現というなら戦前戦中の新興俳句あたりから、参考になるものはなんでも活用すればいいと考えているはずだ。ただ結果がともなっているのかというと、そう簡単にいかないのが新たな表現の難しさである。
新興俳句から前衛俳句の流れは二〇世紀的な前衛の文脈に沿っていた。基本的には今までにない未踏の表現を追い求める前衛だった。重信は門弟たちに「それぞれ独自の俳句形式を持て」と命じ、形式・内容両面で次々に新たな表現が生まれた。しかし現代ではアクロバチックな前衛表現はほぼ出尽くしたと言っていい。前衛俳句や短歌は同時代の自由詩(現代詩)から強い影響を受けたが、小説や自由詩でも前衛の試みが停滞して久しい。現代では新たな表現を追い求めるとしても前衛の質が変わり始めている。
こういった時代に意欲的俳人が過去の前衛表現を参照し、それらを組み合わせてさらに新たな表現を生み出そうとするのは半ば必然である。しかし前衛にはそれを裏付ける思想が不可欠だ。思想がないまま過去の新しげな表現を手当たり次第に取り入れても、一過性の新し味で終わってしまう。作品を発表するごとに、あるいは句集を出すごとに作風が変わってしまい、収拾がつかなくなることだって起こり得る。思想という求心力がなければ作品が拡散してしまうのは当然である。
だからいっけん無駄で遠回りのようでも、過去の前衛の核心を掴んでおく作業は必須である。過去の前衛運動は何を求めて起こり、何を解決できないままその役割を終えたのかを把握することで真に新たな表現の可能性が生まれる。
重信系前衛俳句に関しては林桂さんの「風の花冠文庫」が立て続けに『加藤元重句集-戦後篇』や『高柳篤子作品集』を刊行しておられ、これらの本によって前衛俳句の細やかな機微まで知ることができる。今回の折笠美秋句集『北里仰臥滴々/呼辭記』も同様で、折笠の作風はもちろん、重信亡き後の前衛俳句の動向が作品から伝わってくる。
盃や無数の詩と友底に居り
今回の句集は『北里仰臥滴々/呼辭記』の二冊分の句集から構成されている。『北里仰臥滴々』は編者の寺田さんが「本稿は「俳句研究」誌上に昭和六二年二月号より平成元年十二月号まで、計三十五回に亙って執筆された「北里仰臥滴々」より採取したものである」と書いておられる。
死後刊であることから、単に発表順に作品が並んでいるのかもしれない。ただ巻頭の「盃や無数の詩と友底に居り」には当時の折笠の心情がよく表現されている。俳句は〝詩〟でありそれを信じる〝友〟がいるということである。〝利害〟ではなく〝理念〟で結ばれた友を信じられたのは、折笠が亡くなった一九九〇年頃までだったかもしれない。一九九〇年から二〇〇〇年までは、前衛を含む戦後文学の瓦解の時期だった。その意味でも折笠の死去は象徴的だった。
我れ病みたれば夢にも雪降る妻ならむ
雪の妻 泣くのは明日 泣くのは明日
風あれば風と化し来る春の妻
花に遅速ほんのわずかや人の死にも
抱き合いていのち減りゆく夕陽中
「生きたり」と水より漉ける和紙に書く
我死なば青紫蘇一枚揺れおらむ
相模野の時雨は死後へ降り続く
やさしく溶けよ妻が来る雪帰る雪
青空を舞落つ不覚の雪一ひら
胸中に同じ雪降る妻と我と
『北里仰臥滴々』は病が重くなった時期の連作であり、死が主題の作品が多くなるのは当然だった。『仰臥滴々』は正岡子規の『仰臥漫録』や『墨汁一滴』を想起させるタイトルだが、子規が脊椎カリエスで七転八倒の痛みにのたうち回ったのに対して、折笠の病は静かに進行してゆくものだった。いずれALSが命を奪うことはわかっていたが、それがいつ訪れるのかはわからないのだった。死が主題の句にはそれを少しでも遅らせようとする濃厚な時間が流れている。また「我死なば青紫蘇一枚揺れおらむ」「相模野の時雨は死後へ降り続く」と生の時間を永遠として捉えようとする祈念がある。
透明な羽とこころと上昇氣流
さればバベルの塔と燃え立つ友よ
花明かりしてわが心の大伽藍
銀河系大洪水のあとに百合
麺麭屋まで二百歩 銀河へは七歩
海の蝶最後は波に止まりけり
白繭や内なる俳句動きおり
白桃や愛するという包むこと
白桃や筆墨遠し遠く来し
厳しく残酷なことを言えば、病が重篤になり心身ともに衰弱した時期に、新たな形式、新たな思想を追い求める前衛を貫徹するのは誰にとっても不可能である。前衛は同時代精神を捉えた上で未来の表現を先取りした試行である。健康で張り詰めた精神と肉体を必要とするのであり、たとえ前衛作家であっても死の床では未来ではなく来し方の生の総和が襲いかかる。
そのため『北里仰臥滴々』には前衛表現そのものは存在せず、折笠の前衛への希求が表現されている。一種の述志である。それは「上昇氣流」「バベルの塔」「大伽藍」「銀河」と高みを目指して宙に舞い上がる。「麺麭屋まで二百歩 銀河へは七歩」にあるように、現世のパン屋よりも銀河の方が近しい。
ただ折笠の述志の句には、「白繭や内なる俳句動きおり」「白桃や愛するという包むこと」「白桃や筆墨遠し遠く来し」と〝白〟が頻出する。「百合」や「麺麭」「銀河」「波」もまた白い。白は純粋を意味し白紙還元の白でもある。折笠の死は様々な意味で象徴的だったが、〝白〟が前衛俳句の行く末を示唆しているかもしれない。
君歌えよ
繚亂のとき
辭去のとき
*
荒れてこそ
海
詩を去りて
何の君ぞ
*
花吹雪
太刀佩け
弓を執れ
夢に
*
汝
いま
宵闇牡丹と
狂い咲け
*
友情は
しずかな闘志
吾亦紅
『呼辭記』は「俳句同人誌「騎」の第十号より十四号(昭和六十三年三月~平成元年十二月)までに連載された、折笠美秋最終の多行作品群である」(編者・寺田澄史)とあるように、『北里仰臥滴々』と平行して書かれた多行俳句である。
折笠生前刊行の句集は処女句集『虎嘯記』と第二句集『君なら蝶に』が一行形式で、第三句集『火傳書』のみが多行形式だった。一行形式と多行形式を併用しながら俳句を書いていたわけで、それは最後まで同じだった。
ただ重信前衛俳句の代名詞が多行形式だったのは言うまでもないことで、折笠の多行句集『呼辭記』は『北里仰臥滴々』よりもオフィシャルな作品である。それはタイトルからも知ることができる。『呼辭記』は「呼応」と「辞去」を組み合わせたものだろう。平たく言えば友に呼び掛けながら辞去する(この世を去る)ということである。
『呼辭記』も病臥期の作品であり、形式や内容面で新たな表現を生み出しているとは言えない。ただ折笠は友たちに「俳句を詩として捉えよ」「前衛の闘志を燃やせ」と呼び掛けている。文学的遺書の句集である。
この折笠の意志を少数だが継いだ俳人たちがいる。しかし文学者はある時期に寄り集い、結局は個々バラバラになってそれぞれの道を進んでゆくものだ。折笠の死去から数えてもすでに三十年近い時間が過ぎた。わたしたちは前衛俳句の遺産を当事者たちよりも正確に、残酷に分析するだろう。正と負の側面を等価に捉える。
折笠が利害ではなく、理念で結ばれた友愛を信じたままこの世を去ったことは『北里仰臥滴々/呼辭記』からハッキリ読み取れる。どんな時代でも前衛は孤独だ。世の大勢に反して新しいことを為そうとするのだから当然である。そういった孤独な作家たちが一時期であれ理念で結ばれた友愛に共鳴するから前衛文学運動は力を持つ。
折笠死去の平成二年(一九九〇年)で重信系前衛俳句の理念共同体はほぼ終わった。それは僕の実感ともピタリと合う。吉岡実は折笠と同じ平成二年に亡くなったが、自由詩の世界で現代詩に代表される前衛の理念共同体が存在したのは一九九〇年までだと思う。その後の詩人たちは利害集団を作り出すようになった。文学者が友や友情を口にする際には理念が必要だが失われた。自己と世界のために書く孤独な文学者に理念を共有しない仲間はいらない。
俳句に即して言えば、重信後の俳句前衛は多行俳句の継承にはない。ましてや正統後継者争いにあるはずがない。新たな前衛俳句が重信後の俳句前衛の意志と歴史を継ぐことになる。直系として重信前衛俳句を継ぐ人たちはそれぞれに当初の理念を貫き通されんことを。新たな前衛俳句を作り出そうとする若い人たちには、孤立を怖れず目先の利害の誘惑に惑わされないことを望みます。
鶴山裕司
(2019 / 12 / 06 11枚)
■ 折笠美秋関連の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■