きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり 高柳重信
今月は特集「恋の句の引力」が組まれていて、七人の俳人と女優の富士眞奈美さんが好きな恋の句をあげて短いエッセイを書いておられる。高柳重信の「きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり」をあげたのは、俳句結社「古志」の若手のホープ、西村麒麟さんだ。雑誌では便宜上「きみ嫁けり/遠き一つの/訃に似たり」と三行で掲載されているが、この句はもちろん重信代名詞の多行俳句ではない。若書きの初期作である。そのあたりは西村さんも承知で、「恋の句を挙げようと、よく知られている過去の句をいくつか思い出してみた。あなたが好きだ、愛している、というタイプの句よりも、不思議とこの重信の句に最も心惹かれた」と書いておられる。
俳句だけでなく、短歌、自由詩の世界でも一九六〇年代から八〇年代頃まで強い影響力を持った前衛運動は、すでに過去のものとなっている。もう少し正確に言うと、戦後の前衛は詩のジャンルにおけるメインの創作方法(あるいは姿勢)ではなくなったということである。戦後前衛はそれ以前にもたくさんあった前衛的文学運動と同様に、あまたある文学手法、あるいは思想の一つとして相対化されたということだ。これは基本的にいいことである。
ただ文学は常に新しい表現方法を求めている。特に社会的事件や風俗をメインにして描くわけではない詩の世界では、詩の書き方(創作方法と思想)自体で現代社会を捉えなければならない。それをわたしたちは前衛と呼んできたわけである。現代を的確に捉える前衛的パラダイムが存在しなければ、現代詩人たちはバラバラになってしまう。詩は前衛あるいは現代的なパラダイムをいつの時代でも必要としているわけだが、新たにそれを創出するためには正確に近過去を検証して超克しなければならない。批評意識なしに、なしくずしに「もう古いよね」で過去を忘れてはならないのである。
韃靼は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
雪はげし抱かれて息のつまりしこと 橋本多佳子
虹二重神も恋愛したまへり 津田清子
恋の句で印象に残る秀句を詠んだのは女性俳人たちである。口語俳句で女性俳人が多かった黛まどかさんの「ヘップバーン俳句」でも恋の句が多かった。俳壇はなんやかんや言って男社会であり、高濱虚子の「ホトトギス」は孫の稲畑汀子さんが長く主宰を務められたが、九〇パーセント以上の結社主宰が男性だろう。これは日本社会を反映しているというより、俳句の特性だと思う。
俳句は観念を表現する文学ではないが、かといって情念を盛る器には適さない。いわばさらりとした枯淡表現を最も得意とする。そのため煩悩にまみれながら、結局は現世的煩悩から後退してゆく男の方が表現しやすいところがある。下世話に言うと、男は母と子の密着した関係から疎外された働き蜂で、社会的栄誉を得てもその空しさにさいなまれる動物である。年齢を重ねると一本の枯れ木のように孤独になりやすい。
もちろん古今・新古今の和歌はもちろん、近代与謝野晶子の「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」と比較しても、引用した女性俳人の句はあっさりしている。恋の句といっても短歌の恋歌のような迫力はない。また女性俳人たちの句は現在形だ。句には表現されていないが、特定の恋する男(対象)が措定されている。女性俳人の恋の句の大きな特徴である。
蔓もどき情はもつれ易きかな 高濱虚子
春暁やひとこそ知らね木々の雨 日野草城
特集であげられた男性俳人の恋の句だが、男性俳人の恋の句は概して淡い。虚子は恋心を含む人の「情」を達観したように表現している。草城の句をあげたのは後藤比奈夫さんだが、「春の暁の雨を、このようにやさしく詠んだ句も珍しい。雨と木々の交情(恋情のように私には思えるのだが)を、まだ安らかに眠っている人は誰も知らぬ。作者はそれらのことを静かに傍観している」と評釈しておられる。
なるほど後藤さんのように評釈するのが正しいと思うが、草城の句のインパクトは女性俳人たちの恋の句と比較しても、他のテーマの秀句名句と比較しても弱い。ただこういった穏当な句をじっくり味わうのが俳人の俳句読解(評釈)の王道である。大多数の俳人の俳句上達とは、微細な差異を味わう力を養うことだと言っていい。
私にも『憧れの名句』(NHK出版)があるが、掲げた三百九十句の中で、恋のつく句は、
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
だけであった。この句は人の恋にも通ずるところがあり、耕衣の体臭も加わっていて面白いが所詮猫の句。自然と自然の存問に耳を傾ける草城の句に私は心惹かれるのである。
(後藤比奈夫)
後藤さんが特集に寄せたエッセイだが、このあたりが伝統俳句と前衛俳句の分かれ目になっているようでとても面白かった。後藤さんは耕衣「恋猫」の句を完全な現実描写として評釈しておられる。発情期の猫がみゃーみゃーとうるさく鳴いていて、追い払っても脅しても鳴き止まないという解釈である。
しかし耕衣「恋猫」の句を単なる現実描写で解釈するのは正しくない。この句が表現しているのは恋情という執着である。あるイデアへの憧憬があり、なにがあってもそれに近づこうとする者の意志が恋猫の姿で描かれている。伝統俳人は草城の句に人と自然が一体化したような境地――それも一つの観念である――を読み解くことはできても、ストレートに極へと向かおうとしする作家の観念はたいてい読み落としてしまう。あるいは俳句にはふさわしくないと切り捨てる。前衛と伝統俳人の分かれ目というのはそういうことである。
冒頭に掲げた重信「きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり」でも、「遠き」とあるわけだからかつて恋した女性の結婚の報せはもはや現実世界の喪失感を抜けている。それはより大きな喪失として表現されている。耕衣「恋猫」の句のみゃーみゃー鳴きながら強い恋情を押し通す存在と同じ何かを指向しているのだ。簡単に言えばそこにはロマンがある。
もちろん俳句で恋情を詠う場合は虚子や草城のような表現方法の方が正しい。俳句を量産するなら彼らのような恬淡とした書き方に徹した方がいい。しかしそれだけでは俳句は貧しくなる。
いまさらの物言いだが、俳句は恋を詠うのに適していない。また実際それほど優れた恋の句は存在しない。にもかかわらず恋の句が重要なのは、俳句がパッションとロマンを必要としているからである。女性俳人たちはストレートに特定の男を念頭に置いて恋の句を詠う。重信や耕衣の前衛俳人はほとんど到達不可能なロマンとして恋の句を表現する。伝統俳句の恋の句よりも、女性俳人たちの恋の句と前衛俳句の方が共通点が多いのである。
たまに来た古郷の月は曇りけり
たまに来た古郷は秋の夕哉
思ひなく古郷の月を見度哉
寝にくても生在所の草の花
古郷や又あふことも片思
秋の夕親里らしくなかりけり
たまに来し古郷も月のなかりけり
たまゝゝの古郷の月も涙かな
今号では特集「故郷を想う」も組まれていて、引用は特集総論を書いておられる大輪靖宏さんが引用なさった一茶の連句である。これらの句について大輪さんは「この八句は全部、ふるさとが俺に冷たいと言っているのだ」(大輪靖宏「故郷の句の味わい方」)と書いておられる。
万葉集の防人の歌以来、望郷の歌で切迫感のある詩はやはり短歌に多い。「俳句界」編集部は意図したわけではないだろうが、恋も望郷もともに俳句が得意とする主題ではない。つまり「俳句界」は俳句が不得意としながら、俳句文学には必要な恋や望郷の主題を特集に組んだわけである。このあたりが「俳句界」の面白いところである。
恋の句でも望郷の句でも、表現されているのは喪失感だ。成就する恋も人を優しく包み込んでくれる故郷も結局は幻であり、だがそれでも充足したイデア(理想)を求める恋情が作品を成立させている。それは前衛と呼ばれる新たな表現、新たな思想獲得への大きな原動力と通底している。
俳句は現実世界を切り取るように表現するのに適した文学である。有季定型写生で淡々と瞬間瞬間を切り取るように表現するのが基本であり、作品を量産する方法でもある。しかしこの方法では作家の個性は表現しにくい。作家性とは作家の肉体的実存に即した統一的全体性のことだが、恬淡と現実世界を切り取る俳句では強い作家性を表現しにくいのである。
端的に言えば俳句にとって恋や望郷の主題が重要なのは、それらが俳句に全体性をもたらすパッションとロマンを持っているからである。ロマンは茫漠とした憧れではない。詩と戯曲と小説的物語を統合したゲーテの『ファウスト』が典型的なように、ロマン主義は本来は全体性への指向である。そしてロマンはあらかじめ失われているがゆえに、完璧な理想的イデアを前提としなければ成立しない。前衛は完璧なイデアの影として生み出されるわけであり、それゆえ新たな思想と表現になり得るということでもある。
岡野隆
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