今号の特集は「久保田万太郎~万太郎俳句はなぜ愛されるのか?」である。万太郎は明治二十二年(一八八九年)に東京の浅草田原町で生まれた。大店の足袋屋の息子で生粋の江戸っ子だった。若い頃から俳句を書いていたが、万太郎を有名にしたのは小説であり戯曲だった。新劇の戯曲家として戦前戦後の演劇界に君臨したと言ってよい。文化勲章を始め文壇や政府系の栄誉をほぼすべて手中にした文人だった。
俳句に本腰を入れたのは、終戦直後の昭和二十一年(一九四六年)に結社誌「春燈」を創刊してからである。安住敦らに担がれて主宰となった。ただ俳句は万太郎にとってあくまで余技だった。文壇と演劇界の重鎮として華々しくも多忙な日々を送った。昭和三十八年(一九六三年)に梅原龍三郎邸で開かれた美食会で赤貝のにぎり寿司を食べ、赤貝の誤嚥により死去。享年七十三歳。
島崎藤村先生の「生ひ立ちの記」を読みて
神田川祭の中をながれけり
万太郎代表句の一つである。藤村は木曾馬籠の生まれで八歳で上京したが、「生ひ立ちの記」には主に木曾での幼年時代が書かれている。万太郎は「生ひ立ちの記」を読んで自らの幼年時代に思いをはせ、「神田川祭の中をながれけり」を詠んだのだろう。
基本的に万太郎の句は、カッチリとしたホトトギス系の有季定型俳句である。実際夏目漱石松山時代の最古参の弟子で、後に子規派の主要俳人となった松根東洋城に師事している。しかし東洋城の俳風に染まったわけではない。高濱虚子傘下の俳人だったとも言えない。万太郎は頭の高い作家であり、その矜恃にふさわしい独自の俳風を持っていた。
大正十二年九月、浅草にて震災にあひたるあと、本郷駒込の縷紅亭に立退き、半月あまりをすごす。諸事、夢のごとく去る
秋風や水に落ちたる空のいろ
大正十二年十一月、日暮里渡辺町に住む。親子三人、水入らずにて、はじめてもちたる世帯なり。
味すぐるなまり豆腐や秋の風
長男耕一、明けて四つなり
さびしさは木をつむあそびつもる雪
鎌倉、一ト夏の仮住居にて
ながあめのあがりし灯籠流しかな
昭和十九年十一月一日以降、空襲しきりなり
国をあげてたゝかふ冬に入りにけり
終戦
何もかもあつけらかんと西日中
万太郎俳句には詞書きが付いているものが多い。天災や社会的事件だけでなく、日常生活で起こった様々な出来事を捉えて俳句を詠んだ。ただ万太郎は句を詠む際に感情を思いきり高ぶらせて直情を表現しなかった。万太郎俳句は常に淡い。
今日のこと今日すぐわする桐の花
いへばたゞそれだけのこと柳散る
うすもののみえすく嘘をつきにけり
ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く
いわゆる人事の句である。いずれの句も創作に際しては他者の姿が念頭にあったはずだ。しかし万太郎俳句に具体的な他者が登場することはない。俳句では社会や他者との関わりを表現する人事の句は、作家の思想や意志がこめられた述志の句になりやすい。しかし万太郎はその逆である。他者や社会が句に入り込むと万太郎は冷める。
よく知られているように万太郎は俳句で抒情を重視した。自由詩の抒情詩では作家はその昂ぶった感情を効果的な言語表現にまとめるのが普通である。短歌でも同様で絶唱が醍醐味になる。しかし万太郎は感情の一番の高みで俳句を詠わない。
天災、社会的事件、家庭でのいざこざなど、実生活で大きな事件が起こると人は激しく動揺する。作家はそれを感情の高みとして抒情詩などに表現するわけだが、事件が起こった瞬間に創作することは稀だ。短い時間であれ事件と創作の間にはタイムラグがある。たいていは事件そのものが終息した後に、起こった出来事を言語的に再構築する。つまり抒情詩は、ほんの一握りの絶唱を除いて周到に計算され、後から作られたクライマックスを持っている。特に持続的に作品を創作する作家の場合はそうだ。
万太郎はクライマックスが過ぎ去った後の抒情を詠う。簡単に言えば余情を重視した。それを俳句創作の上のテクニックとして継承するのは可能である。しかし常に的を、クライマックスを外したような万太郎の表現は彼の俳句文学理解に直結しているだろう。万太郎は、俳句はストレートに激情を表現する文学ではないと考えていた。
一句二句三句四句五句枯野の句
ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪
たけのこ煮、そらまめうでて、さてそこで
「一句二句三句四句五句枯野の句」は枯野を詠み込んだ句などいくらでもあるといった、皮肉とも投げやりとも解釈できる句である。しかし万太郎句には熱がない。むしろ俳句はそのような言語芸術であるという諦念に近い肯定がある。「ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪」は寿司ネタを並べた句だが、それらは食べてしまえば当然春の雪のように消える。「たけのこ煮、そらまめうでて、さてそこで」はこの三句の中で最も万太郎らしい句である。万太郎の諦念には先がある。「さてそこで」があるのだ。
竹馬やいろはにほへとちりゞゝに
「竹馬や」も万太郎を代表する句である。樋口一葉作品を読んで書いたと言われるが、それはどうでもいい。万太郎の時代、「いろはにほへと」は子供が最初に覚える字だった。またいろはにほへとは書道の初歩であり、かつ魅力的な書にするのが一番難しい字である。魯山人を始めとしていろはにほへと屏風を作った文人墨客は多い。仮名の散らし書きにも通じる句であり、江戸っ子万太郎らしい秀作である。
万太郎は俳句で生活の糧を得る必要のない人だった。小説や戯曲で十分な収入を得ていたからというより、端からそんなことは考えたことがないだろう。若い頃から俳句はあくまで余技だった。ただそれは万太郎が俳句に真剣でなかったことを意味しない。余技だという諦念が彼の俳句文学の捉え方である。そして語弊はあるが、万太郎の認識は正しい。
俳句でいくばくかの収入を得ているか、俳句だけで文学者として立とうとしているのかは別として、俳句は一所懸命になればなるほど作家の表現欲求とズレてしまう文学である。俳句に複雑な思想を乗せ、現代詩のような複雑な言語表現で作品を飾ることはできる。しかし作家オリジナルの思想と技法で俳句を染めようとすればするほど、俳句は本来の姿からかけ離れた異様な姿になってゆく。俳人はいずれかの時点で俳句と闘うのを止めなければならない。俳句に一所懸命になるということは、何らかの方法で俳句の裏をかくことである。俳句を余技と捉えるのはその一つの方法だ。比喩的に言えば、余技だと俳句を油断させ奇襲をかけるわけである。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
万太郎の最初の妻・京は、彼の浮気が原因で睡眠薬を飲んで自殺した。二番目の妻・きみは気の強い女性で家庭はギクシャクした。別居した万太郎は晩年に愛人・三隅一子と同棲したが、一子は帰りの遅い万太郎を門の前で待っている時に脳溢血で倒れ急逝した。「湯豆腐や」は一子を失った後に書かれた句である。そのため一子との関わりで読解されることが多いが、句には一子への思慕は一切書かれていないわけだから深読みする必要はない。
「湯豆腐や」の句が万太郎代表句になっているのは、この作品が「うすあかり」に届いているからである。その光はこの世のものであってこの世のものではない。抒情といっても激情ではなく余情に赴こうとする万太郎は、ある意味彼の自我意識を抜けようとしている。「いのちのはてのうすあかり」はエゴにまみれた自我意識を超脱した人にしか見えない。そしてその光こそが、俳句なのかもしれないのである。
岡野隆
■ 久保田万太郎の本 ■
■ 金魚屋の本 ■