女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#2(下編)
春がきて、古羊さんは社会人になった。
就職したのは小さな文房具の会社だったが、古羊さんが実際に会社に通うようになったのは入社式から二週間後のことだった。会社の上のほうの取り計らいで、入社早々であったものの、特別に休みをもらったのだ。
母親が亡くなったのが、ちょうど入社式の前日のことである。娘の就職が決まったことを、母は病床でとても喜んでいた。けれども母親が家に帰り、古羊さんの就職祝いをするという夢はとうとう叶わずじまいだった。
入社式から二週間後、出社してきた古羊さんの表情の乏しい顔を見てみんなが同情するのも、その無表情が肉親を失った悲しみからくるのではなく、どうやら古羊さんの普段の顔つきなのだと気づくのも、もう少し先の話である。
お休みをもらった古羊さんの姿は二階の自分の部屋にあった。子どもの時分から使い続けている傷だらけの天然木の文机の前に座り、ぼんやりとロケットペンダントを見つめている。ペンダントは机の上の鉄製のアームライトにぶらさがっていて、古羊さんは時おり人差し指で優しく弾き、その揺れるさまを眺めていた。
母親の葬儀のあと、古羊さんはロケットペンダントを母と一緒に燃してしまおうと考えていた。けれども葬儀の参列者から、燃やしてしまえば灰になるだけだから形見に残しておきなさい、と強く助言されたこともあり、こうしてずっとアームの部分に吊るしているのだった。
古羊さんは迷っていた。というのも、ロケットペンダントの構造上、蓋を開ければ何がしかの写真が入っている可能性があるためで、それを見てよいものかどうか悩んでいたのである。
形見として受け取ったものの、こうしてぶらぶらアームライトの端に引っかけて眺めているだけでは申し訳ない気がする。自分の胸元に提げるのならば、その中身が何であるか知らないでいるのも気づまりだ。そんな風につらつら考えながらここ数日を過ごしていた。しかし、いくらのんびりモノの古羊さんでも、来週にははじまる会社のことやら、これからの姉弟だけの生活のことやらを思うと、ひとつふんぎりをつけるためにも蓋を開けてみようと決心するに至った。
開ける前から古羊さんには予感があった。それは、写真の主が詩音であろうという予感だった。もしそうならば、ためらうことなく自分の首に提げるに違いないと古羊さんは思っていた。ためらうどころか、むしろ進んでそうするに違いないと。
古羊さんの予感は外れた。
小さな爪を引っかけて開けたペンダントの中を、古羊さんはじいっと見つめた。
「これは何なのかしら」
途方に暮れたような呟きがこぼれる。
「んー」
唇を引き結び、古羊さんは考えた。鼻からずり落ちそうな眼鏡をくいと上げ、食い入るように見つめている。意味もなく、開いたままのペンダントを裏に表に動かしてみても、聖母マリアさまは何も云わず、二枚の向かい合った小さな写真を胸に抱いているばかり。
粗雑な灰色を背景にして、黒く丸いモノが中心を占めている写真の切り抜きが二枚。どこかで見覚えのあるようなそれを古羊さんが思い出すまで、たっぷり半時はかかった。
「ああ、あれだわ」
ようやく合点がいった様子の古羊さんではあったが、「でもなんで二つなの?」と再び首を傾げた。
古羊さんが気づくまでにはもう小半時ほど要するため、結論から云うと、ペンダントの中身は肝臓の腫瘍の写真であった。医師から検査結果として渡された超音波検査のフィルムの切り抜きである。瓜二つに見えてもそれは、ひとつは母親の、もうひとつは父親のモノである。
詩音の写真でも、ましてや古羊さんの写真でもなく、自分と夫の命を奪った禍々しい写真を母は大切に持っていたのだった。
「ほんとにそっくり」
古羊さんは小さく嘆息した。そして、両親揃って同じ病で死ぬ確率はどのくらいあるのだろう、と思いを巡らした。それも揃って同じ場所に癌ができる確率なんて。
「それだったらいっそのこと、あの自動車事故で一緒に逝っちゃえばよかったのに」
仲がいいのか悪いのか、別々にゆっくりとこの世を去った両親を想いながら、古羊さんは捨て鉢に云った。
「ああ、もう。面倒なことばっかり」
ペンダントを手に、畳にごろんと仰向けに寝転がった古羊さんは、口調とは裏腹にどこかすっきりした顔をしている。
手を伸ばし、頭上高く掲げたロケットペンダントを見上げて、あとで埋めにいこう、と古羊さんは決心した。
あちこちのビルからいっせいに人が溢れだす。わらわらと増殖する制服やスーツ姿の男女を眺めていると、これだけの人間が今までどこに隠れていたのかと古羊さんは驚く。毎度のことながら驚いてしまう。
昼休憩である。
悠長に眼下を覗き見てそんなことを考えているのは、この人の波に完全に乗り遅れているからであり、就職から五年経った今ではもうそれは当たり前の光景だ。
この時間帯は周辺の会社もいっせいに昼休みをとるのでランチは争奪戦となる。安くて美味い店などはすぐにいっぱいだ。だから古羊さんはほとんどコンビニで買って済ますことにしていた。もちろんコンビニだって混雑しているのだが、贅沢を云いさえしなければ、ぺんぺん草程度の弁当は残されているのだった。
古羊さんが声をかけられたのは、そのコンビニに向かう途中のことだった。
「あの、ちょっと」
自分のことではないと端から思っているので、古羊さんが足を止める気配はない。すると声の主は慌てたように足をはやめ、今度は名を呼んだ。
「あ、あの、古羊さん」
「はい?」
呼ばれたと思った途端、古羊さんはくるりと振り返る。意外なすばやさに相手は思わずたたらを踏んだ。
「何でしょうか」
体勢を整えるのを待ってから訊いてみた。
目の前にいる人物が誰かはすぐには思い出せない。自分よりいくらか年上の、三十前後のスーツ姿の男性が立っていた。
はて見たことはある、と思うのだが、それがいつどこでだったか。
「さっき会社のほうにお邪魔したばかりなのですが……」
訝しげな視線を感じてか、目の前の男性は口早に説明した。
「ああ、はい」
どこかで、どころではない。ほんの少し前まで係長に会いにきていた取引先の営業二人組の片割れではないか。
「もっとも、しゃべるのは上司の桜井ばかりなので、わたしの影は薄いと思いますが…・・・」
「いいえ、そんなこと」
口先ではそう答えながら、古羊さんは実際にはこの人のことを覚えていなかった。桜井さんのほうは判る。背が低く、男性にしては甲高い声でしゃべる人物で、同じフロアにいれば嫌でも声が耳に入るのですぐ判るのだ。そのうしろでいつもサンプル品の入ったダンボールを抱えて立っている人、それがこの人ということになるのだろうか。
こんな人だったかしら。
古羊さんはまだ漠然とした感じで、あまり特徴のない、しいて挙げれば眉がやや太めで丸っこくびっくりしたハムスターみたいな瞳のその人を見た。ぼんやりと見ているうちに、そう云えば今日渡した資料の一部は自分が作成したモノだったことを思い出し、古羊さんは心配そうに訊ねた。
「もしかして、お渡しした資料に何か問題でもありましたか」
たっぷり間を置かれた挙句、予想外の台詞を云われたのか、相手はなぜか赤くなった。
「いえ、そういうのじゃありません」
「そうですか。なら、いいんですけど」
ほっとため息を吐き、そのまま去っていきかねない古羊さんを男は慌てて呼び止める。
「あ、待って。あの、そうじゃなくて、お昼……今からお昼を食べにいかれるんなら、ご一緒にどうかなと思いまして」
「はあ」
「実を云うと、さっき美味いそば屋を教えてもらったんですが、どうもひとりでは行きにくくて。ついて来ていただけると助かるのですが」
微妙にニュアンスを変え、古羊さんを昼食に誘う。
そういうことなら、と承諾し、でもこの時間だといっぱいじゃないかしら、と古羊さんが腕時計を見ながら昼休憩の残り時間を案じていると、なぜか「大丈夫です」と自信ありげに彼は胸を叩いた。
「裏通りの目立たない店なので、客は案外少ないんですよ」
そう云うと迷うでもなく、一本二本と奥の路地を進んでいく。さっき教えられたにしては軽快な足さばきである。古羊さんは遅れないようついていくのに必死だった。
たどり着いたのは夕方からの営業が多い飲み屋が連なる界隈で、ほとんどの店がシャッターを下ろしている。その中でぽつんと暖簾を出している小さなそば屋があった。なるほどこの場所なら知っている人も少ないのだろう。古羊さんは納得しながら続いて暖簾をくぐる。
「割子天ぷら、二つ」
入るなり、男はそう云って席についた。急に大声を出されたものだから、古羊さんはどぎまぎしてしまう。普段無口な荷物持ちの彼ならなおのこと、ついでにひとりでは行きにくいなどと云っていたのに妙に慣れた様子なのも手伝って、いっそうどぎまぎしてしまう。
「そばの美味い店は天ぷらも美味いんです。天ぷら、お嫌いでしたか」
注文したあとに訊かれても、と思いつつ、いえいえ大好きです、などとまあまあ好きなくらいなのに思わず口走ってしまう古羊さんである。
やってきた割子そばはたいそう美味しく、天ぷらもさくさくと軽い口当たりで食べやすい。ボリュームはあるけれどつい箸が伸びてしまう。結局、すべて平らげてしまった。
食べ終えてみれば、心もお腹もいたく満足した古羊さんだったのだが……。
「デートだね」
その夜、家で豆乳ゴマ鍋をつつきながら古羊さんが昼間のできごとを報告すると、詩音はそう断言した。
「そうかしら?」
何となく釈然としない感じで、古羊さんはくったりとした水菜を箸で掴んで云った。どうも昼間の南瓜の天ぷらが胸につかえているようであまり食欲がわかない。
「今度映画にでも行きませんか、なんて、デートの誘い以外の何モノでもないよ」
「でも、今日のお昼に偶然会ったばかりなのに?」
詩音は呆れたように眉を上げた。
「莫迦だなあ、姉さん。何云ってるの。わざと声かけたに決まってるだろう。姉さんが出てくるのをどこかで隠れて待ってたのさ。じゃなきゃなんで仕事で話したこともない姉さんの名前を知っているんだよ」
指摘されて、ああそうか、と古羊さんは得心した。そうかそうか、だからお店もはじめてじゃなかったんだわきっと。でもそうなると、お昼をおごってもらった手前断りにくくて、今度の日曜日映画に行くのを承知してしまった自分が間抜けに思えないこともない。
「騙されたのね、わたし」
「そういう云いかたはよくないな。好意を持ってくれてるってことだろ」
好意、かあ。
嬉しいというよりも、戸惑いのほうが大きかった。何か向こうが大きな勘違いをしているのかもしれない、と古羊さんは思う。面倒なことにならなければいいけど。すでに逃げ腰の古羊さんであった。
「で、何の映画を見にいくの?」
「聞いてないわ。ただ待ち合わせの場所だけで」
「ふうん、変なの。まあいいや。でさ、その人ってどんな人?」
よく知らない」
滅多にない姉の浮いた話題におもしろがって詩音はいろいろ訊いてくるが、古羊さんには答えようがない。もったいぶっているのではなく、ほんとうに知らないのだから仕方ない。けれども詩音はその態度を照れ隠しだと信じているのだ。
あいかわらず判り合えていない姉弟はそれでも平和に鍋をつつく。詩音との会話の途中で古羊さんはある重大な見落としに気づいていた。桜井さんの部下であるあの人の名前すら、自分は知らなかったのだということを。
次の日の出社早々、古羊さんは机の引き出しから名刺ホルダーを引っ張り出すと順にめくっていった。桜井さんの名刺はすぐに見つかった。その下のポケットに同じ会社のロゴマークが入っている名刺がある。これだわ。ほっとしたのも束の間、取り出そうとした古羊さんの手が止まった。
ひとつのポケットに、名刺が二枚入っている。そのせいで窮屈になったポケットから重なった二枚を取り出して、指でずらしてみた。上が小松、下が吉田。
古羊さんは悩んだ。肩書きも部署も同じ、で、名前だけが別々の名刺。つまりどちらかが配置換えなり退職なりで去り、どちらかが新しく配属されたということになる。ダンボールを抱えた人物がいつの間に入れ替わっていたのか、古羊さんには見当がつかない。名刺だってこうして二枚持っているのだから、それぞれの人物から手渡されたことは間違いないのである。でも記憶は見事にすっぽり抜け落ちていた。
古いモノを捨てられない癖がこんなところに出てしまったと悔やんでも仕方ない。常識的に考えれば、新しい人物の名刺が表側に入っている筈だった。絶対の自信はないけれど、今度一緒に映画を観にいく予定の彼は「たぶん小松さん」なのだろう。
日曜日、待ち合わせの映画館に「たぶん小松さん」は先に来ていた。ジーンズに長袖のシャツという可もなく不可もなくという恰好だ。古羊さんのほうも地味なワンピース姿なのだから、似たモノ同士と云えなくもない。
「じゃあ、入りましょうか」
「ええ」
古羊さんを促し中に入ると、振り向きもせずにすたすたとスクリーンに向かって歩いていく。古羊さんはわずかに眉をひそめた。嫌な予感がしたのだ。
案の定というか、彼は前から三列目の真ん中の席に陣取った。古羊さんが映画をひとりで見る時は、後方寄りの端の席で観ることにしている。こんな大劇場に足を運ぶこと自体珍しいことで、行くのは大抵世間から忘れ去られてしまったような小さな映画館である。そこで判らない映画を判らないまま観るのが好きなのだ。
臨場感、というのを求める人なのかもしれない。古羊さんはそう思うことにした。
映画がはじまって、あながち自分の考えが間違っていなかったことを古羊さんは思い知らされる。スクリーンの中では巨大なハリケーンが渦を巻き、家がなぎ倒され、車が舞い上がり、牛や馬が飛んでいく。巻き上げられた大型トラックが画面の外に飛び出す勢いで大音量とともに眼前に迫る。古羊さんは思わず目をつむった。けれどもそんなシーンは一度や二度じゃなく、途中から視線をどこに定めていいのか判らなくなって、古羊さんはくるくると目をまわしそうになった。
映画が終わった時にはすっかり三半規管をやられてしまっていた。
「いやあ、すごい迫力でしたね。おもしろかった」
映画館を出てすぐのカフェに入り、古羊さんが船酔いのような身体の揺れと闘っていると、「たぶん小松さん」は興奮気味にしゃべった。今のところ古羊さんは名前を呼ぶのを避けている。
「……ほんとに」
相槌を打つので精いっぱいだ。ふわふわと頼りない気分。
「僕はいつもああやってかぶりつきで観るのが好きなんです。すると映画と一体化できるというか……顔色が少し悪いですね、大丈夫ですか」
さすがに気がついたのか、気遣わしげに古羊さんの顔を覗き込む。
「もしかして、こういう映画、嫌いでしたか」
観終わってから訊かれても、そうです、とは云える訳がない。いえいえそんなこと、すみません今日はちょっと体調がすぐれなくて、と弁解し、早々に家に帰ることにした。心配して途中まで送ってくれたのが何だか申し訳ない気がして、次の夕飯の約束をしてしまう古羊さんであった。
数日後には約束通り、古羊さんは彼と向かい合って座っていた。約束を守ることにかけて、古羊さんは律儀なほうである。
アルコールが入ってリラックスしたのか、「たぶん小松さん」はさっきから「俺が俺が」を連発している。
「俺が思うにね、古羊さんはとてもきちんとしている」
「古羊さんは長女かひとりっ子。ね、絶対そうでしょ」
「そばを食べる時、髪を括ったの、俺はいいと思った」
そうですか、長女です、あれ癖なんです。
はじめは小さな声で返事をしていたのだが、目の前の彼はそんなことも耳に入らない様子で延々と話し続けている。返事などどうでもいいらしい、と古羊さんは思う。アルコールが入るとこの人は饒舌になるらしい、とも思う。
洒落た感じのイタリアンの店で、料理もワインもすばらしく美味しくて、食べることに関してこの人はセンスがいいと古羊さんは認めた。こうして面と向かい合うのも三度目だが、ようやく三度目にして、詩音が指摘する好意とやらを本格的に自分が抱かれているらしいと感じはじめている。会話の大半は褒めてくれているようでもあるし、それが勘違いであれ幻想であれ、いちいち否定していくことはずいぶん骨の折れる作業だと半ば諦めはじめていた。たとえ否定してみせたところで、聞く耳を持たない相手にするだけ無駄というモノだ。
古羊さんは途中から会話を放棄した。考えてみれば最初から会話は成立していなかったようにも思う。
目下の悩みは目の前の彼を「小松さん」と思いきって呼んでみるかどうかということである。わたし↓僕↓俺。会うごとに一人称を変えながら距離を詰めていこうという気概のある青年を前に、古羊さんの熱はなかなか上がらない。
その時、さらにヒートアップした「たぶん小松さん」が古羊さんの目のあたりを指さして云った。
「それ、ないほうがいいと思う」
「これ?」
釣られたように自分の眼鏡を指さし、首を傾げる。
「ないほうがいけてるよ」
「そうかしら」
「うん、絶対外したほうがかわいいって」
熱っぽい口調で大きく頷く。
子どもの頃からかわいいと云われるのは詩音の専売特許のようなモノだったから、不意を突かれて古羊さんは必要以上におろおろした。おろおろした気持ちを懸命に鎮める一方で、そんな一昔前の少女漫画みたいなことが実際に起こると思っているのかしらこの人、と冷静な目で見返してしまう。そんな視線に気づかないまま、「たぶん小松さん」はひょいと手を伸ばしてきた。
「ほんとにさ、ちょっと外してみてよ」
ぱちん。
触れる直前に開いた手のひらと、それを払った古羊さんの手の甲があたって音を立てた。空気の入った丸いモノが弾けるような小気味よい音だった。それはたぶん二人が出会ってから、一番息の合った瞬間であったに違いない。完全な拒絶に遭った彼は、びっくりしたハムスターのような瞳をさらにびっくり丸くしながら、面喰った様子で訊ねた。
「もしかして、俺……僕のこと、嫌いですか」
急にしゅんとなって、テーブルの下に両手をしまい込んだ。叱られた子どもみたいだった。
判らない、と古羊さんは思い、いえいえそんな、とは口に出さなかった。その代わり、勝手に口が動いていた。
そうかもしれません。
家に帰ってため息を吐くと、古羊さんは上着も脱がず縁側にぺたんと座り込んだ。何だかとても疲れていた。
玄関の明かりだけが背後から古羊さんの背中を照らしている。詩音はまだ帰ってはいない。そのことにほっとしてるような、はやく帰ってきてほしいような、複雑な気持ちになる。
しばらく庭の暗がりに視線をあずけていると、雑草の生い茂るあたりから虫の音が聞こえてきた。澄んだ虫の音に意識を集中させてから、古羊さんはあの人の何が嫌だったのかを挙げてみようと思い立った。
こっそり待ち伏せしていたかもしれないところ。勝手に注文したところ。前から三列目に座ったところ。なれなれしさに比例して一人称がころころ変わるところ。かわいくないモノをかわいいと勘違いしているところ……。
指を折って挙げていけばそれなりにあって、古羊さんは自分でも驚いた。けど、と古羊さんは思う。けど、悪い人ではなかった。暗がりをじっと見据えながらもう一度、悪い人ではなかったのだ、とくり返す。
外すくらい、なんてことなかったのに。
ふいに古羊さんが眼鏡に手をかけた。持ち上げた次の瞬間には、眼鏡は宙を浮いていた。
「えいっ」
力任せに放り投げられた眼鏡はまっすぐ庭へと落下していった。庭の小石にあたって片方のレンズが砕け散る。それはとてもかすかな音で、虫の音にやすやすとかき消された。
縁側の古羊さんが立ち上がる。われに返ったような表情をしていた。慌てて健康サンダルに足を突っ込み駆け寄った。虫たちは驚いて逃げていく。
「ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい」
古羊さんは心から申し訳なさそうに謝りながら、暗がりの中、砕けたレンズを探しはじめた。途中、居間に戻って電気を点け、懐中電灯を手に舞い戻り、破片を丁寧に拾い集める。汚れた眼鏡を縁側できれいに拭ってから再びかけ直す。片方のレンズを通してみると夜は歪んで見えた。湿ったように歪んでいた。
滲んで瞬く星々を見上げながら、古羊さんはぽつりと呟いた。
「結局、あの人は小松さんだったのかしら」
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