女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#2(中編)
妻の言葉にしぶしぶ頷いて検査したものの、結果は芳しくなかった。それどころか最悪だった。長年のアルコールが祟ってのことだろうが、ごつごつと固くなった肝臓から悪性腫瘍が見つかったのだ。余命半年から、もって一年ということだった。
このことを古羊さんの母は夫に黙っていようと心に決めた。
傍目にはぶっきらぼうで時として尊大に見える夫だが、ほんとうは繊細で、脆い人だということはじゅうぶんすぎるほどよく判っていた。町医者の言葉に耳を貸さずにいたのだって、決定的な何かを突きつけられるのが怖くて逃げまわっていただけなのだ。そんなこと判りきっていた筈なのに、どうしてもっとはやくお医者に診せなかったのかと、悔やんでも悔やみきれない。
母親がきちんと話したのは長女の古羊さんだけだった。二人で相談したのち、詩音にも秘密にすることに決めた。古羊家の女たちにとって、詩音は何をおいてもまず守らなければならない存在だったからだ。
古羊さんは学業のかたわら母親を手伝い、詩音は青春を謳歌した。
中学生になったばかりの詩音ではあったが、そのうつくしい顔立ちと聡明さでたちまち人気者になっていった。男女問わず慕われていたけれど、とりわけ女生徒たちには絶大な人気を誇り、同級生だけでなく上級生がこっそり偵察にくるほどだった。
春を待たずに、父親は逝った。
家の小さな縁側で、庭の片隅のしだれ桜を愛でながらの晩酌がお気に入りだった父が、家に帰るという夢はとうとう叶わずじまいだった。
春がきて、十七歳になった古羊さんは病院の椅子に座っていた。その隣には母親が、二人に向かい合うようにして医師の姿がそこにはあった。
「肝臓は解剖学的には四つに分類されるのですが、実際の診断には便宜上、門脈の走行に従って一番から八番まで区域分けがされています。それをわたしたちはS2、S3などと呼んでいるんですがね」
医師は肝臓の模型を手に熱心に説明している。その言葉に淀みはない。きっと何百回、何千回と口にしてきた言葉なのだろう。古羊さんは理解できているのかいないのか、あいかわらずの無表情である。母親のほうもどこか上の空の様子だった。
そんな二人を前にして、医師の口調はますます熱を帯びてくる。どうにかしてこの現実感のない女たちに、今置かれている状況の深刻さを伝えなければという使命に燃えているのだ。
医師はまっすぐ母親を見つめた。
「古羊さんの場合はですね、ここ。お判りになりますか」
そう云って、肝臓の模型をくるりと回転させる。
「つまり番号で云うとS1にあたるここにですね、問題の腫瘍がある訳です。これ、尾状葉という名前の部分なのですが厄介な場所でして、下大静脈という大きな血管をとり巻いているために、なかなか検査しても見つかりにくい場所なのです」
沈痛な表情を浮かべつつも見つけたことを少し自慢げに、医師はシャウカステンの写真を指し示した。そこには取り返しがつかないほどに成長した、黒く禍々しい影があった。
古羊さんは医師の説明を受けながら、白く光るシャウカステンに並べられた何枚ものフィルムに目を奪われている。医師の言葉と、模型と、輪切りの写真と、次元の違う三つのモノをうまく頭の中で組み合わせることができなくて、黙って眉間の溝を深めていった。
医師には悪いと思いつつも、母親は白けた気分を隠すことができない。
それには理由があった。
ちょうど一年前のことである。あの時は古羊さんの姿はなく、母親はひとりでこの椅子に座っていた。熱心な医師はその時も今と同じ内容をくり返し、彼女は真剣に話を聞いていた。自分の夫の病について、どんな些細な言葉も聞きもらすまいと前のめりになって。
それだからだろうか、聞いているそばから一字一句ぶれもなく同じ言葉がよみがえり、記憶の中と、身体の外と、二重に鳴り響いているのだった。和音を奏でることもなく、不快な雑音を増幅させて聞かされているのはたまらない気分になる。ああ、つまらない、と母親は思った。
だってあたしはもう知っているもの。このさき何がどうなるかとかそういうこと。ついこの間、よい見本を見送ったばかりなのだから。
今後の治療方針や抗がん剤の使用計画、医師が熱く語れば語るほど、母親の心は冷え冷えと凍っていくようだった。けれどもふいに古羊さんがたてた、座り直した瞬間の椅子のカタンというひそやかな音が、思いがけず彼女の硬質な心に罅を入れた。そこからあっけなく砕け散った感情を、母親は拾い集めることもせず、黙っておもてに出さないよう何とかこらえたのである。
目の前の白衣の男が奏でる二重奏の、過去の旋律は夫のモノ、そして今まさに聴いている旋律が自分のモノであること、そんな当たり前のことが何故か急に胸に迫ってきて、息苦しくなった。母親は息をすうっと吸い込む。吸った息を、隣の古羊さんに気づかれぬよう少しずつ吐き出しながら、無意識に胸元のロケットペンダントを握り込む。
熱くたぎるような手のひらで、いつまでも握っていた。
父と母がどうして同じ病になったのか。
父親の場合は、長年のアルコールがたたってのことだとは自明の理であるが、母親のほうはお酒をまったく飲めないのだ。それに母親については肝炎のウィルスに罹ったからというのが直接の原因であり、それがもとで腫瘍ができたということであった。
いつどこで、という覚えはなく、母親自身、首を傾げる部分もあったのだけど、古羊さんが生まれる前に近所の歯科医でいっとき助手をしていたことを医師に告げると、たぶんそのあたりで感染したのでしょうな、という答えが返ってきた。それ以上推測のしようもなく、うやむやのまま納得するほかなさそうだった。それでも古羊さんと詩音に感染していなかったことが、唯一のなぐさめになったことは云うまでもない。
母親はすぐに入院する運びとなった。
古羊さんは詩音にその理由を、父の看病疲れのせいであると嘘をついた。母親と古羊さんは話し合い、この時もまた、詩音には秘密にすることに決めたのだった。古羊家の女たちにとって、詩音は何をおいてもまず守らなければならない存在だったからだ。
古羊さんは学業のかたわら母親を看病し、詩音は青春を謳歌した。
高校三年生になった古羊さんは受験をあきらめ、卒業後は就職する心づもりでいた。もとから勉学はあまり得意でないうえに、父を亡くし、母が病に倒れたこの家で、そうすることはごく自然ななりゆきと捉えていたようである。
詩音は中学二年生になっていた。この一年間でずいぶん背も伸び、少年らしいやわらかな頬の曲線も少しだけシャープになったように感じられる。けれども男らしい顔立ちというよりも、中性的な全体像はそのままに余分な部分が削ぎ落とされて、詩音の怜悧さをいっそう際立たせたに過ぎなかった。
学校内での評判もますます上昇し、下級生からも上級生からも慕われるようになった詩音は、それぞれの学年にひとりずつ、放課後を一緒に過ごす恋人を持った。月木、火金、水土と曜日を決め、学校帰りにおしゃべりしたり勉強を教え合ったり、恋人と呼ぶのは仰々しいほどの小さなかわいらしい恋人たちである。彼女たちも、曜日が来れば詩音を独占できるのだから、誰も文句など云わなかった。
秋も深まり、庭の片隅のしだれ桜も少ない葉を黄色や橙色のまだら模様に染めはじめた。しっとりと侘しい光景に、古羊さんは何ということもなくため息を吐く。
病院から持って帰った洗濯物を洗濯ネットにしまいながら、これからついでに洗ってしまおうか、それとも朝起きてからにするかとしばし迷う。ここのところ薄曇りの日ばかりが続いているので、いつ洗おうが結果的には同じである。どうせ部屋干しになるのだ。えい、ついでに洗っちゃえ、と古羊さんは二層式の洗濯機のタイマーをまわした。
縁側に座り、洗濯機の豪快にまわる音を聞いていると、不思議に心が落ち着いてくる。ぼんやりする間もなく、洗い終わった洗濯物を脱水槽に移し、すすぐ準備を整えてからまた洗濯槽に戻した。
流しすすぎをする最中、洗剤の泡が真ん中に寄って少しずつ消えていくのを古羊さんはじっと眺めている。たまに排水のホースの先から流れ出る泡まじりの水の行方に目をやって、また洗濯機の中を覗き込む。あんまり熱心なので軒下の洗濯機は、何がおもしろくてこの子は毎日飽きもせず、と呆れつつも、まんざらでもない様子で得意げに白い巨体を揺らし続けた。
脱水が終わった頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。詩音はまだ帰ってこない。洗濯物を手に古羊さんは縁側から家に入り、戸を閉めた。戸のすぐ近くに渡した手づくりの物干し用ロープに次々に干すと、季節的にはまだ少しはやいけれどストーブをつけることにした。
簡単に夕食の用意を整えた頃、玄関の開く音がして、詩音が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
詩音は台所に入るなり、顔をしかめた。
「姉さん、何だかやけに蒸し暑くない?」
「えっ、そう?」
云われて古羊さんは炊き上がる直前の蒸気を発散している炊飯器に目をやった。
「じゃなくて、ストーブ。まだいらないだろ」
呆れ顔で縁側のほうを指さす詩音に「ああ」と答える。
「洗濯物がはやく乾くかと思って」
見れば、縁側のガラス戸はまっ白に曇っている。古羊さんはストーブを消し、戸をほんの少し開けた。
「病院、今日も行ってたんだね」
うしろ姿に詩音は声をかける。
「あ、うん」
生返事で古羊さんは戸のすき間から細く入る夜風に頬をあてていた。冷たい風を心地よく感じるほど、部屋の温度も湿度も上がりっ放しだったことにやっと気づいたようである。
「毎日ごめんね。僕も……今度の日曜日には行くから」
「いいのよ、詩音は。無理しないで。お母さんもそう云ってるわ。勉強とか友だちとか、いろいろ忙しいんでしょう?」
「そんなモノ……」
詩音は小さく呟いてから、学生服の詰襟を指でぐいと押し開けた。姉の頭上を舞っている万国旗みたいな洗濯物を睨むように見つめる。
「まあね。でも姉さん、母さんの病気は一体いつになったら治るんだろうね」
「え、ああ。もうすぐよくなるわよ。詩音は心配しなくても大丈夫だから」
嘘をつくのが苦手な古羊さんは慌てたように云って、一度は振り向いた顔をまた窓のほうに戻してしまう。詩音はそんな姉の二つに括った髪の分け目を見ながら云った。
「父さんの時も、そう云ったよね」
聞こえていないのかふりなのか、古羊さんは返事しなかった。詩音は彼に似合わない暗い目をして質問した。
「ねえ、姉さん」
「何かしら」
向こうを向いたまま古羊さんは答えた。夜風に晒し過ぎた頬はすっかり冷え切っている。
「もし、もしもだけどね。僕がほんとうはガールフレンドになんか会わないで、暗くなるまで川原でじっと座って時間を潰してから帰ってきていたとしたら、姉さん、どうする?」
「どうするって、どういう意味?」
古羊さんは眉をひそめながら振り向いた。
「仮定の話だよ」
「そんなこと云われても……。もしかして詩音、学校が楽しくないの?」
だったら困る、古羊さんは急におろおろと訊き返した。目の前の大事な、うつくしい弟がしあわせであること、それだけが願いなのである。そしてそれは母の願いでもあるのだ。
心配そうな姉を見つめ、詩音はいつもの、誰をも虜にする無垢な笑顔を浮かべてほがらかに云った。
「心配しないで、姉さん。今のはちょっとからかっただけ、たとえばの話なんだからさ。僕は毎日楽しく過ごしているよ。友人もたくさんいるし、みんなから好かれてる。勉強もスポーツも得意だからね、誰にも負ける気がしない」
「そう、だったら安心したわ。ありがとう」
「どうして姉さんがお礼を云うの?」
詩音は不思議そうに問い返した。
「だって、お母さんもそのほうが喜ぶから」
胸を撫で下ろした古羊さんは心底嬉しそうな顔をした。
「僕、着がえてくるよ」
「そうね、そうしてらっしゃい」
母親の口調を真似て古羊さんは云った。すっかり安心した古羊さんは、階段を上る詩音の横顔に微妙な影がさしていることに気づくことはなかった。
次の日の放課後。
詩音はひとりで川原にいた。
土手に座り、ぼんやりする。毎日人々に囲まれた生活を送っている詩音にとっては新鮮な感覚だった。することが何もないのだ。
手にあたる色褪せたエノコログサを撫でてみたり、河川敷の遊歩道を散歩する犬を遠くから眺めてみたりする。ちょっと楽しい。土手の上のほうからは運動部員らしき男たちのかけ声がする。ジョギング練習中なのだろう。見上げると、一団のうしろ姿が見えた。みるみる離れていく。反対に、自転車に乗ったカップルとおぼしき制服姿の男女が近づいてきた。が、笑い声だけを残してすぐに去っていった。
今日は誰の番だったっけ。
詩音は小さな日めくりの恋人を思い、すぐに忘れた。どうでもいい、とさえ思う。明日になれば世界はまたいつもと同じようにまわっていくだろう。僕が微笑めば誰かが微笑み返し、手を差し伸べれば争うように縋りついてくる。勉学もスポーツも少し本気を出せば容易に称賛を浴びることができる。詩音にとって世界とはそういうモノだった。
最小限の行為で対価を得る。他人から見て、その対価が大きすぎるように感じるのは、そもそも僕の原価が高いのだから当たり前のことなのだ。
だからこの時間、こんなところで時間を潰しているのは大きな損失となるだろう。僕にとって、ではなく、世界の誰かにとって。
たまにはそれもいいさ。
古羊さんにあんなたとえ話をしたからと意地になっている訳ではない。詩音は冷静だった。冷静に、自分の役割について考えていた。
母も姉も嘘をついている。そんなことは父の病気の時から判っていたことだ。誰もほんとうを自分には教えない。それはきっと、真実なんてうしろ暗い、どろどろしたモノは僕には必要ないと思っているのだ。
おだやかな水面に黄色い夕陽が鏡のように反射する。詩音はそれを膝を抱えてじっと見つめていた。
あのきれいで鏡みたいな表面だけを見つめていよう。危険な水の中に首を突っ込むなかれ。そんなこと、誰も望んでいないし、僕だってしたくない。鏡を見て、にっこり微笑むだけでいい。僕がしあわせであることが、しあわせそうに見せることが大切なんだ。そうすればみんなをしあわせにすることができる……。
とても簡単な原理だと詩音は思った。答えが出たのなら、まっすぐ家に帰るべきだと思う。でもそうしたら、はやい帰宅を訝って、姉が昨夜のような心配を口にするかもしれない。母も姉も悲しませたくはないのだ。
抱えた膝の間に顔を埋める。周囲はどんどん暗く、人影も消えていく。時間が無為に過ぎていく、そのことがたまらない。僕は今、しあわせなのか? 人っ子ひとりいない土手の上、そう自分に問いかけること自体が無駄なのだとはっきりと自覚する。
詩音は顔を上げ、軽く頭を振った。すっくと立ち上がり、学生服のズボンについた下草の切れ端を乱暴に払いのける。
「……莫迦莫迦しい」
冷たい声で呟いて、詩音はまっ暗な土手を駆けていった。
詩音には新しい恋人ができた。
毎週日曜日の母親のお見舞いの帰り、人目を忍んで会うその人は、もはや小さな恋人と呼ぶにはふさわしくない、れっきとした大人の女性である。詩音の中学校の音楽教師であるその人から、彼はいろいろのことを教わった。
いいこと、悪いこと、きれいなこと、汚いこと。
それから詩音が土手に行くことはなかった。
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