女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#2(上編)
小さい古羊さんは真剣だった。
力を込めて、お母さんから受け取った黒のサインペンをゆっくりと動かす。そこまではよかった。もたもたしていると、フェルトのけばけばに線が滲んでいくことに動揺した小さい古羊さんは、今度は焦って一気にペンを動かした。描いたらことのほか大きな瞳が自分を見返していて、もうひとつの瞳を描くスペースはどこにも残っていなかった。
「しょうがないわね、唄子は」
うろたえた幼い娘を見て、お母さんはそう云ってため息を吐いた。大事なところが足りないのよ、この子は。続けて思った。
唇を引き結んで、悔しそうにも泣きそうにも見えるわが子のために、お母さんは赤いフェルトの隅っこをちょきちょきとはさみで切った。こびとのポケットのような形をしていた。
「これをつけたら少しはましになるかしらね」
お母さんは布用のボンドをぽつんと真ん中に垂らすと、古羊さんに手渡した。
「かわいらしいお口でしょ」
小さい古羊さんは唇を固くつぐんだまま頷いて、慎重に小さなお口を受け取った。
この子もたまにはこんな風に笑えばいいのに、お母さんはまた心で思った。
息をするとどこかへ飛んでいきそうなそれを、古羊さんはそろそろと人形の口元に運んだ。口の位置を見定めると、渾身の力を込めてぎゅっと押しつける。何度も云うようだが、真剣なのである。
「カワイイオクチ」
生真面目な顔で呪文を唱えるように呟いてから、押さえていた親指を離す。圧迫されて見事に凹んだ無残な人形の顔の下半分が、のろのろと時間をかけて復元していった。赤いポケットの形をした口から、よだれのようにはみでた白いボンドも、少しずつ透明になって消えていく。
「ほら、唄子。かわいくなってよかったじゃない」
お母さんはうわずった声で云った。半ば強引に古羊さんを納得させたいようだった。
隣の部屋からは生まれて間もない赤ん坊のぐずり声がお母さんの耳には届いていた。目を覚ましてしまったらしい。あんなにさっきおっぱいをあげたばかりというのに。お母さんの気持ちの大部分は、もう隣の部屋のベビーベッドまで移動していて、残りのぬけがらみたいなお母さんが小さい古羊さんの相手をしているのだった。
「うん」
古羊さんは声を出して返事したが、にこりともしなかった。
目の前にある人形はお世辞にもかわいいとは云えない代物だった。さっきから一応口とは表現しているが、たてに長く伸びた形は口というより舌に近かった。大きなひとつ目玉のベロ出し人形。顔の造作だけ見れば、妖怪からかさにそっくりだったのである。
小さい古羊さんと人形はじっと見つめ合った。
「さあ、これでいいわね。お母さん、詩音を見てあげないといけないから。お姉さんだもの、唄子は。お片づけ、ひとりでできるわね」
「うん」
真剣な表情を崩さない娘を見て、お母さんはほんの少しだけ不憫な気がした。どこをどう、と訊ねられると困るのだが、子どもらしくない子どもであるこの子の未来を考えたら、漠然とした不安を感じるのだった。
お母さんは声をやわらげて娘に訊いた。
「唄子はお人形の名前、もう考えたの?」
間髪をいれずに古羊さんは答えた。
「おばけちゃん!」
「……そう」
この子はほんとうに、とお母さんは肩を落とし、その先を考えるのをやめた。隣の部屋からは弟の詩音の泣き声がひっきりなしだ。
すぐ行かなくては。
お母さんは慌てて立ち上がり、小走りで去っていった。だから古羊さんがおばけちゃんに向かって、にかっと笑ったのに気づかなかった。
生まれてまだ日が浅いというのに、詩音はよく心得た子どもだった。
「まあまあ。詩音ちゃん、いつ見てもかわいいわあ」
「なんてかわいらしい赤ちゃんかしら」
お母さんは自慢の息子を外へ連れ出したがった。連れ出せば、必ず人目を引くのが判っていたからだ。褒められると、お母さんは心の中では満足げに頷きながら、でも表面上は何でもない顔をして軽く微笑むだけに留めた。そしてその場を立ち去ろうとすると、褒めた当人たちは慌てて次の言葉を探しはじめた。
くるくるの巻き毛が天使みたいね」
「すべすべの透き通るような白い肌をして」
「ハーフの女の子みたい」
かわいい、という決まりきった褒め言葉では足りない気がして、何か別の、もっと気のきいた表現はないかと考える。はやくしなければと思うと余計に焦って、やっと出てきた言葉が月並みな表現でしかないことにがっくりとうなだれるのだ。
落ちた視線を詩音がすくう。
詩音がすることは、絶妙なタイミングでにっこり笑いかけること、それだけだ。けれど相手は途端にとてもしあわせな気持ちになれる。たった今自分は、とてつもなくすばらしい褒め言葉を口にしたに違いない、なんて錯覚を起こすことができるのだった。
古羊さんとは正反対のよくできた弟。自然と詩音のまわりには人だかりが、そしてその輪を小さい古羊さんは外から眺めるようになった。
ちやほやされる詩音を見ても、古羊さんは全然悔しくなかった。むしろ誇らしい気分になった。どんなに他人がうらやんでも、あれは自分の弟なのだ、という事実に安心しきっていたのである。
ベビーベッドのかたわらに立って、眠っている詩音を見つめる時、何とも云えない気分になった。誰にも邪魔をされない特等席が自分に用意されていること、その不思議と奇跡に胸があたたかくなった。
泣いていても笑っていても、詩音は古羊さんにしあわせを運んできた。この自分よりも小さな身体に丸ごと全部しあわせを封じ込めたモノ。それはおいそれとは触れることができないようなうつくしい光に満ちていたけれど、間違いなく自分の弟なのだった。
古羊さんが幼稚園の友だちから距離を置かれ出したのは、かえでちゃんの家にお呼ばれした時からだった。かえでちゃんの部屋に集まって、みんなでお人形遊びをする約束をしていたのだ。
かえでちゃんの家は立派な洋館だった。古くて狭い古羊さんちとはまったく違う。かえでちゃんは家とそっくりのドールハウスを自慢したかったらしく、いつもは誘わない小さい古羊さんを含め、大勢の友だちを誘ったのだった。それぞれがその頃流行りのソフトビニール製の着せ替え人形やセルロイド製の精巧な人形などを持ち寄った。かえでちゃんはとっておきのビスクドールを披露してみんなから称賛を浴びることに成功し、ご満悦の様子である。
古羊さんはおばけちゃんを大事そうに持っていった。
フェルト製の手づくりの人形が悪かった訳ではない。まずいのは顔だった。サインペンで力強く手描きされたひとつ目玉は迫力があった。赤く伸びた口がさらに凄味を増していた。
いつの間にか子どもたちは、しん、と静まり返る。
小さい古羊さんだけは状況がよく飲み込めない様子できょろきょろと首を動かした。めでたくもないことだが、この時ばかりは古羊さんを中心に人の輪ができていた。きれいな円のど真ん中に、古羊さんはいたのである。
「……やだ、気持ち悪い」
はじめに声をもらしたのはかえでちゃんだった。
「こわいよう」
「やー、何それー」
「呪われるー」
口々にみんなは叫びだした。叫ぶと興奮し、声を出すそのこと自体に快感を覚えた園児たちは、途中からは訳の判らない合唱のように「呪われるー」と声を揃えてハモる始末だ。
「唄子、帰る」
古羊さんはおばけちゃんを手に、やっとの思いでそれだけ云うと輪から逃げ出した。輪の中心で注目を浴び続けるのなんて、まっぴら「ご免」だと幼心に焼きつけながら。
それ以来、小さい古羊さんは少し元気がなくなった。
もともと友だちがたくさんいた訳ではなかったが、近頃ではめっきり誘われなくなった。この間、久しぶりにかえでちゃんたちじゃない女の子たちが家を訪ねてきた。古羊さんはびっくりしたもののやっぱり嬉しそうで、乞われるがままにおばけちゃんを持ってきて、その子たちに見せた。
女の子たちはそれを見て、すばやく目配せし合った。意地の悪い笑顔を浮かべると、腰をくねくねやって踊り出す。いっせいに、声を合わす。
「呪われるー」
玄関先の大合唱に驚いたお母さんが詩音を抱いて現れた時には、もう誰もいなかった。
「なあに、今の?」
お母さんは声に驚いて泣き出した詩音をあやしながら、玄関にぼおっと立っている娘に訊ねた。
「何でもない」
「何でもないって、でも今何か云ってなかった?」
「……云ってなかった」
平坦な声で答える小さい古羊さんに、お母さんは「そお?」と首を傾げながら、「しおんちゃん、こわくないでちゅよー、なんでもないでちゅからねー」と赤ちゃん言葉で詩音に話しかけた。
古羊さんも詩音に顔を寄せ、今度は少し明るい声を出した。
「しおんはいいこ、しおんはいいこ。もう、なかないで」
小さい古羊さんの声が届いたのか、詩音は一瞬泣くのをやめ、自分の姉をまじまじと見上げた。いつも不機嫌そうな顔をした姉が、わずかに口元を綻ばせて、自分を熱心に見つめている。
「さあさあ、いっぱい泣いたから疲れたでしょ。しおんちゃん、お昼寝しましょうねえ」
お母さんは優しく詩音の背中を叩いてから、奥の部屋にすっと引っ込んでしまった。この頃のお母さんは、ぬけがらを残していく暇もないほど詩音の世話に忙しい。
古羊さんは詩音とお母さんが消えた部屋のふすまを見た。それからまわれ右して女の子たちが消えたドアの向こうを見た。季節は夏で、蝉がみんみんじんじん鳴いていて、おばけちゃんを握りしめる古羊さんの手のひらは汗ばんでいた。
ひとりだった。
小さい古羊さんの額から吹き出す汗が、まっすぐな前髪を張りつかせる。うなじから落ちる汗が背中をつつつと伝う。手のひらの汗をおばけちゃんはどんどん吸い込んで重たく湿っていく。じんわり悲しい気持ちになるのは、古羊さんのこの汗のせいだとおばけちゃんは思う。誰でもいいから古羊さんのうしろにまわって、背中をぽんぽんしてあげたらいいのに。
自分にはできないからせめてもと、おばけちゃんはひとつ目玉に力を込める。そうしていたらほんとうに、いつか誰かを呪えそうな、そんな気もしてくるのだった。
両親が交通事故に遭ったのは、古羊さんが十六歳、高校二年生の春である。詩音はまだ中学生になったばかりだった。
知人の結婚式に向かう途中、時間に遅れそうになった父親が近道だからと云って選択した山道でカーブを切り損ね、ガードレールに激突したのだ。青い中古セダンは前面が大破、白いガードレールは飴のようにぐにゃりと曲がり、青黒い塗料をこすりつけられて殴られたボクサーみたいな顔で憮然としていた。
これほどの事故にも関わらず、奇跡的に二人は無事だった。両親はこの事故で亡くなった訳ではなかったのだ。そうであれば、死が二人を別つことなく天に召されるという稀有な事例ともなり得たのだろうが。
この事故はただのきっかけに過ぎない。
それからほどなくして、二人は別々に、ゆっくりと、この世を去った。
先ほどの、奇跡的に無事、という表現には少し語弊がある。あれほどの事故にしては、という意味であり、さすがにまったくの無傷という訳にはいかなかった。運ばれた病院で、父親は右足腓骨骨折、母親は幸いにも軽い打撲とかすり傷程度という診断が下された。
腓骨とは太い脛の骨のほうではなく、その骨に寄りそうようにある弓形の細い骨のほうで、骨折しても手術する必要もなく、ただ骨が癒合するのをじっと待つしかない。本来であれば自宅療養も可能であったのを、古羊さんの母が医師と結託して、父親の短期入院で話をつけたのだった。
「どうして俺だけ退院できないんだよ」
不服そうに口を尖らせる父に母は笑いかけた。
「だって、あなた。骨が折れているのよ。家に帰ったって、いろいろ不便もあるでしょう。 子どもたちは学校で忙しいし、あたしもこんなだし」
「こんなって、お前……」
大した怪我でもなかったじゃないか。云いかけて、口を閉じた。妻の胸元に揺れる聖母マリアさまが目に入ったのだ。そもそもこの事故の責任は誰にあったのでしょう、とマリアさまが問いかけてくる、気がした。
「むちうちって、あとから症状が出るから注意しなさいとお医者さまもおっしゃってたわ」
「判ったよ」
憮然とした表情で父親は答える。
「骨がくっつくまでだからな。くっついたら、すぐに家に帰る。絶対、帰る」
駄々っ子みたい。母親はくすりと笑う。
彼女が夫を入院させようとしたのには理由があった。以前から、かかりつけの町医者に内臓の、主には肝臓の数値の異常を指摘されていて、一度大きな病院で精密検査を受けるよう再三にわたって忠告されてきたのを夫がことごとく無視し続けていたからだ。この際だから入院にかこつけて、ちゃんと検査を受けさせてやろうと考えていたのだ。
「判ったわよ。ああ、そうだ。ちょうどよい機会だから、いろいろ調べてもらいなさいな」
「いろいろって、何だよ」
父親はぎょっとしたように身を引いた。すでに察しはついているのである。
「あたしにも判らないけど、まるまる、いろいろ、全部よ」
すっとぼけて答えると、父親はぐうと押し黙る。母親は軽い調子を崩さずに続けて云った。
「どうせ毎日退屈なんでしょ。ここじゃお酒も飲めないし。退屈しのぎに検査してみたらいいじゃないの」
「退屈しのぎに検査するなんて、そんなの、せ、先生に失礼じゃないか」
うわずりそうな声を抑えて反論しても、まったく通じなかった。母親はからからと笑いながら、「検査するのに無礼も何もあるもんですか」と云った。
「じゃ、決まりね。先生にはあたしから話しておきますから」
それで話はおしまいだった。
いつだって、そうなのだ。あたしに任せておけば万事つつがなくことが運ぶのよ、というあの目。それは裏を返せば、あなたの選択はいつも間違っているのよ、と詰られているのと同じことなのだ。今回の事故にしたって、山道のルートを選んだのは父親で、母親は慣れない道をスピードを上げていくよりも、安全で確実なルートを選ぶべきだと主張した。その結果がこれである。
あんなモノ、贈るんじゃなかったな。
父親はまだぐちぐちと心の中で愚痴る。妻の胸元に提げてあるロケットペンダント。聖母マリアさまの彫刻が施してあるあれを目にするたびに、面と向かっては自分を非難しない妻から暗に責められているように感じるのだ。そういう時にはお腹の底からじわじわと何とも云えない嫌な気分になることを父親は知っていた。妻の顔を見ないよう目蓋を伏した時に、ちょうどマリアさまと目が合ってしまうその瞬間、「懺悔」という二文字がくっきりと浮かび上がるのだ。
ロケットペンダントを選んだのは古羊さんの父である。そしてそれを気に入って肌身離さず胸元にぶらさげていたのは母なのだから、父親が自虐的になるほどには妻が夫の選択を軽んじていた訳ではないのである。
結婚以来、妻にプレゼントなどしたこともない無骨な父親が、どうして突然アンティークの銀製品であるロケットペンダントを購入する気になったかというと、骨董店を営む飲み仲間に勧められたからだ。すぐに飲み代に消えていくお小遣いから買うには高すぎて一度は断ったものの、だったら元手を倍にしてやるからと半ば強引に競馬場へと連行された。
そこで気づいた時には倍どころか、そのまた倍の金額を手にして呆然と突っ立っていたという具合である。
いわゆるビギナーズラックという奴だ。
もともと父親は無類のお酒好きではあったけれど、ギャンブルにはまったく興味のない人間だった。だからこの一度きりの幸運に浮かれることなく、どちらかといえば魔法のように降って湧いたお金を気味悪く感じ、すぐにそのあぶく銭を持って店主と一緒に骨董店へ取って返した。云われるがままに交換して懐に持ち帰ったのが、このロケットペンダントだったのだ。
母親はたいそう喜んだ。けれど父親は何の苦労もなく得たお金で買ったことを少々うしろめたく感じていた。それもギャンブルで稼いだお金なのだ。もしそれを教えたならば、妻が今みたいに無邪気に喜んでくれるとは到底思えない。またあの目で、あなたはすぐに選択を間違えるといったあの目で、俺を見返すに違いないと確信した。
目の前の妻の顔から徐々に視線を下げ、父親はうつむいた。ちら、と様子を探るように上目遣いになった時、彼の目に慈悲深い姿が飛び込んだ。この時はじめて、自分が贈ったプレゼントの表面に彫られた紋様が聖母マリアさまであることを知るのである。
懺悔、という二文字がすっと頭に浮かび、同時にお腹の底が変な感じによじれていく感じがした。それは笑いたい時の感覚に似ていたが、ただの笑いではなかった。
父親は自嘲し、手ずからこんなモノを選んでくるなんて、俺はやっぱり莫迦なのかな、と冴えない顔で立っていた。
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