世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十二、桃
「じゃあ、いつものね」
口の端からワインをこぼしながら安藤さんが呟く。思わず顔を盗み見たのは声が変わったからだ。芝居がかったような甘ったるい声。ふざけてるのかな、と盗み見たが表情は変わらない。
「聞いてる? いつものって聞こえてる?」
飲んだそばから口を開くから、首筋の辺りがワインでべたべただ。仕方ないからタオルを持ってきて拭いてやる。そんな俺を見て「ふふふ」と笑うが腹は立たない。美人は得だ。歯と歯をぶつけるような荒いキスをしただけで、彼女への面倒くささは簡単に消え失せてしまった。
「じゃあ、いつものやろうよ」
まただ。声は確実に大きくなっているし、動きはさっきよりも機敏。変化だか進化だか分からないが脱皮したらしく、さっき肩を噛んだ痕跡は見当たらない。そして新しい彼女は積極的だ。今だって自分からワインを含んで、抜殻を探す俺に呑ませようとしている。だったらと注ぎやすいように口を開けて待っていたが、彼女は既のところでゴクリと呑み込み、また甘ったるい声を出した。
「ねえ、いつものだよ。ねえってば」
いつもの、に心当たりはないが分かっている素振りで頷き、脱皮した彼女の身体を開こうとする。裂こうとする。捥ごうとする。大人はずるい。
でも、そううまくはいかなかった。この世には正義があって、それは霧雨のように柔らかく降り注いでいる。高校の時、聖書の授業でチャプレンが何度も言っていた。もちろん道玄坂のラブホテルの301号室にもそれは降り注いでいる。汝、姦淫すべからず。斯くして大人のずるさはせき止められた。この世に悪が栄えた試しはない。安藤さんは俺の手首を掴み、甘ったるい声で抗議する。
「これ、違うよ。ねえ、違うよ」
「……」
「いつものだよ。これじゃないよ!」
「……あのさ」
「もう、これじゃないってばあ!」
声がどんどん大きく、そして硬くなっていく。まずい。正義は暴走しやすいんだった。食い止める方法はそんなに多くない。裸の俺は裸の安藤さんに跨ったまま「これって、どれだっけ?」と尋ねた。間抜けな質問だが仕方ない。俺はまだまだいける。ここから降りたくないんだ。
「トウコさんになってくれるんじゃないの?」
「え?」
「ト、ウ、コ、さ、ん」
誰だっけ、と尋ねる前に「ほら、知らないんでしょ」と眉間に皺が寄る。手首はぎゅっと掴まれたままだ。ずっと見つめられているのに、まるで通じ合っていない感じ。俺の背後に焦点が合っているみたいで心細くなる。あの自白剤、効き方にかなり個人差があるのかもしれない。
とりあえず一旦落ち着こう。トウコさん、についてはそれから考えよう。露わになっている白い肌に視線を落とすと「知らなくて当たり前なのに、どうして訊かなかったの?」と安藤さんの硬い声。それについては即答できる。
「早くしたかったから」
「もう何度もしたのに?」
「うん、まだ足りない」
「どうしてそんなにしたいの?」
「安藤さんだから」
返事がないのは、俺の言葉が足りないからだ。失格。自白はもっと具体的にしなければ。裸で跨ったまま言葉を探す。
「綺麗な人……だから」
「それ、さっきも聞いたよ」
どうやら脱皮しても記憶は残っているらしい。厄介だ。さっきまで甘ったるかった声は割れそうなくらいに硬くなっているし、いつの間にか言葉遣いまで変わっている。タメ口だ。でもいい。まだ違う味が楽しめるじゃないか、と密かに喜んだ俺は正義でも悪でもない。助平なだけだ。
「安藤さんが知ってる人だから、っていうのもある」
「……知ってる?」
「もしさっきナンパしたばかりの女だったら、多分ここまでしたくないかな……」
「前から知っている人としたいの?」
「いや、それはオプションみたいなものだから」
また返事がないが、どうやら今度は合格だったらしい。自分から身体をよじって位置を合わせてくれた。繋がった瞬間、手首が自由になる。何度目かだから激しく動いても大丈夫。ゴールはまだまだ遠い。さっきまでとは種目が違う。あれは短距離走。何本もいける。今度は長距離走、いや、彼女の様子を考えると障害物競走かもしれない。
「トウコさんっていうのはねえ……」
密着しながら耳元でレクチャーを始める安藤さん。甘ったるい声に戻っている。いや、元々は甘ったるくないけれど、さっきの硬い声よりはまだマシ。これでいい。指や舌でいたずらを仕掛ける度、その声が裏返りそうになる。それがいい。どんなに僅かでも反応があれば安心できる。ノーマルなセックスは、「敵のいないチームプレイ」。安太の言うとおりだ。
「……本当、一目惚れだったの。かなり遠くからでも、トウコさんが素敵なのは分かったんだから」
ちゃんとレクチャーを聞かないと、と自分に言い聞かせながらキラキラした産毛を観察する。自分のと交互に見比べているうち、どっちがどっちかなんてどうでもよくなる。混同したりはしない。きっと自分のだからだ。これが他人のと安藤さんのならば、どっちがどっちか分からなくなるはずだ。自分の、安藤さんの、他人の。の? の、何だっけ。――ああ、産毛か。
「ねえ、だからトウコさん、やって」
いつの間にかレクチャーは終わっていた。トウコさんは学生時代に好きだった先輩。それだけは理解できた。歪んでんな、と思いながら「もう一回説明して」と引っこ抜く。脱皮しても色っぽい声は変わらないらしい。
「ね? 今度は真面目に聞くからさ」
トウコさんは中高時代の四年先輩。中一の時に高二。「うちの学校的には中五。中学五年ね」。
チューゴ。生まれて初めて聞く単語に気が逸れた。慌てて元に戻す。トウコさんは現在出版社勤務で、中国人の友達が多くて、蕎麦マニア。フェイスブックを見て分かることってそれくらいだもん、と安藤さん。中国人の友達がアップしていた写真でかろうじて顔は確認できたが、大きなサングラスが超邪魔だったと笑う。
中学へ入った時にトウコさんは高二、いや中五だったので一緒の校舎だったのは二年間。もちろん授業は重ならないが、部活は彼女と同じ軽音部に入った。
「うち、女子校だったんで、モテるのは男っぽい人。トウコさん、ボーイッシュで綺麗だったから超モテてたの」
綺麗な人が「綺麗」と評価するくらいだから相当なんだろう。高校卒業後、トウコさんは大阪の大学に進んだので、それ以来会っていない。現在フェイスブックはチェックしているが、そこでのやり取りもない。それが俺にはよく分からない。
「元々同じ部活の先輩後輩なんだし、連絡取ろうとしても別に変じゃないんじゃない?」
ああそんなことか、という感じで安藤さんは微笑み、俺の口を両方の人差し指でこじ開けて唾液を垂らす。こんなに近いから鼻の形の美しさに気付けた。目や口の形が良い奴は結構いるけど、美人が少ないのは鼻のせい。鼻って難しいんだよね。そう言っていたのは安太……ではない。誰だったけな、と首を傾げながら安藤さんの声を聞く。
「別にトウコさんと話したりしたいわけじゃないの」
「?」
「したいだけなの」美しい鼻が微かに膨らんだ。「し、た、い、だ、け」
でも叶わないから代役を頼みたい、ということなのか。安藤さん、相当歪んでんな。
変? と訊かれたので言葉を探していると「男はそういう人、多いよね」と重ねる。
「多い?」
「だって、したいだけの人と食事とかしたい? 映画とか行きたい? 真面目な話とかしたい? アイドルとかグラビアとか、AV女優とか普通の女優とかと普通のことしたい?」
そういうことか、と納得する。高校の頃、写真集やイメージビデオまで買う程お世話になったグラビアアイドルがいた。B86・W58・H84。まだ覚えている。彼女が女優に転身した今でも、テレビで姿を見かけると軽くスイッチが入ってしまうが、確かに食事をしたいなんて思ったことは一度もない。今も昔もただしたいだけだ。
「ねえ、トウコさんと何をしたいの?」
「え、気持ちよくなりたい」
俺は口を噤む。安藤さんの言葉が足りないからだ。最初はきょとんとしていたが、腰を回しながらゆっくり引き抜くと「いやあああ」と我に返ったように仰け反った。慌てた様子で口をパクパクさせている。
「もう一度訊くよ。トウコさんと何したいんだっけ?」
「えっと、えっと、入れてほしい」
「だってトウコさんは入れられないじゃん」
「大丈夫なのお。だから入れててほしいのお」
綺麗な顔が歪むのを見ながら、ゆっくりと首を横に振る。そんな雑な自白は認めない。却下だ。汝、隣人に関し偽証すべからず。でもチャンスは何度だって与えなければ。「で、トウコさんは何を入れるの?」
いやあああ、と安藤さんはまた仰け反る。残りの自白剤はさっき俺が使ってしまった。悪いけど自力で自白してもらわないと。
「安藤さん。安藤さんじゃなきゃ分からないんだから、ちゃんと教えて。いい? トウコさんは何を入れればいいの?」
「だからあ、男のと同じでいいのお」
「だってトウコさんは女の人でしょ?」
「大丈夫なの。分かってるから」
「何を?」
「本当はトウコさんじゃないって分かってるから大丈夫なのおおお」
頬が紅潮し、目が潤んだ安藤さんに更なる自白を迫る俺も辛い。辛いけれど興奮している。こんないやらしい表情、見たことない。突っ込んでいないのに果てそうだ。そうなる前に始めちゃおう。
彼女に覆い被さったまま、とりあえず灯りを消してみた。どうしたらトウコさんになれるのか、その答えもヒントもまだ見つからない。さっき「じゃあ、いつものね」と言っていたが、店長は「いつも」うまく立ち回っているのだろうか。まさか声色を変えて、女言葉で喋るのが正解ではないだろう。暗闇の中、安藤さんの言葉を待つ。息遣いはすぐそこにある。確かなことはひとつだけ。彼女もまた気持ちよくなりたがっている。
数秒後、彼女の手が俺の背中に触れ、輪郭を確認するように撫で回した。くすぐったいのを我慢していたせいで鳥肌が立つ。「やっぱりトウコさんだ」という安藤さんの小さな声を受け、俺は無言のまま体重を預ける。ワインのせいか自白剤のせいか分からないが、俺も彼女も鼓動が早い。両方聞こえるけれど、混同したりはしない。産毛と同じだ。どっちが自分の鼓動かなんて気にしない。
「トウコさん、今度はトウコさんが私のことを確かめて」
どうやって? と訊きたい気持ちを堪え、無言のまま安藤さんの首筋をクンクンと嗅ぐ。口移しの時にこぼれたワインの匂いがした。でもそれを伝える手段はない。今、俺の声は使えない。邪魔なだけだ。少し汗臭い脇の次は胸。そして腹、臍、付け根。下れば下るほど、どんどん匂いが濃くなる。そしてそれは俺も同じはず。だってそこで繋がっていたんだから。
安藤さんの両脚を肩に乗せ、もっと丹念に確認する。この体勢だと彼女の鼓動は聞こえない。トウコさん、と呼ばれる度に舌の先っちょで軽く突く。
「トウコさん、私、臭くない?」
「トウコさん、いつもこんなことするの?」
「トウコさん、そこはダメ。汚いよおおお」
お菓子みたいな足の指を一本ずつ唇で挟む。そのまま軽く噛むと「ぎゃっ」と声がした。反応があれば安心できる。知らない綺麗な女になりきって楽しめる。甘噛みを繰り返しながら付け根、臍、腹、胸と安藤さんの身体を昇っていく。気付けば薄っすらと身体のライン、そして綺麗な顔が浮かび上がっていた。ヤバい。闇に目が慣れてきている。
首筋の辺りを嗅いだり舐めたりしながら考えた。どうやって闇を取り戻そう。早くしないとトウコさんが消えちゃうよ。喉仏を舌の先でなぞる。まだこの辺りはワインの匂いと味がする。鎖骨に歯を立てようとした時、ふと閃いた。さっきワインを拭いたタオルがそこにある。
「何、どうするの? ねえ、ねえってば!」
タオルで目隠しをすると安藤さんは慌てたが、舌を引っ張って強引に黙らせた。「ごめんなさい」と言うまで引っ張る。少し間を置いてまた引っ張る。何度か繰り返した結果、「トウコさん、ごめんなさい」と言えたから頭を撫でて褒めてやる。そう、それでいい。今、ここにいるのは学生の頃に憧れていたトウコさん、今でもやらしいことを考えてしまうトウコさんじゃないか。
安藤さんに跨ったまま、俺自身も目隠しをした。完全な闇の中だと、もっとトウコさんに近付けるような気がする。もう目が慣れて何かが見えることはないから、時間をかけて耳の裏、うなじ、背中、と舌を這わせた。
「トウコさん、くすぐったいってば」
「トウコさん、こんなの私、嬉しいいい」
「トウコさん、私、トウコさんの欲しいよおお」
俺もそろそろ我慢できなくなってきた。安藤さんを仰向けにして圧し掛かる。わざと乱暴に体重をかけた。
「トウコさん、何? どうするの?」
両腕を万歳させてから、手と手を重ね指と指を絡ませる。あああ、と喘ぐ安藤さんの口を口で塞ぎ、繋がることに集中する。
「トウコさん、何かあたってるよ。ねえ、アレ、くれるの? 違うの? ねえ、教えてよ教えてよ教えてよ」
口の中に彼女の声が反響している。ひとつの塊になるまであと少し。なかなか探り当てられないが、ここまでベトベトなら大丈夫。いつか必ずにゅるっと入る。
「トウコさん、頂戴頂戴頂戴……」
安藤さんの「頂戴頂戴」がただの呻き声になった頃、ようやく準備が整った。後はグイッと腰を突き出すだけ。見えないけど分かる。きっと彼女の綺麗な鼻はヒクヒクしているだろう。今だ――。
いくぞ、と俺の声を響かせた。「トウコさあああん!」という叫び声を聞きながら一気にこじ開ける。俺は「トウコさん」なんかじゃねえぞ、という苛立ちのせいで掻き回し方が乱暴だ。
「ダメダメダメ、ちょっとトウコさあああん」
気付けば甘ったるくも硬くもない、元々の安藤さんの声に戻っている。本当はトウコさんじゃないって分かってる、ってさっき言ってただろ?
「ねえねえトウコさん、誰とでもこんなことするの? ねえってばあ」
自分の目隠しを取り、安藤さんの目隠しを取り、部屋の灯りを点けた。眩しそうに顔をしかめながら、それでも彼女は「ねえねえ」と喋り続ける。
「ねえねえトウコさん、おかしくなっちゃうよおおお」
黙れ、トウコさんなんてどこにもいないんだ。ここにいるのは一緒に働いている俺、よくドタキャンをする俺じゃないか。力任せに何度も突く。突く、突く、突く。奥に当たる度、安藤さんの声が撓む。
「誰とでもももももするの? ねえ、誰とでもももももも桃」
「え?」
桃が出た。輝く産毛を生やした桃。俺は皮を剥かずに齧りつくのが好きだ。安藤さんはどう? そのまま齧る派? 綺麗に剥く派? どうやって? こうやって?
。
(第22回 了)
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