ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
5(後編)
試着室の鏡の中の瑠璃の肌は、パステルカラーにはあまり映えなかった。色が白いせいで、ぼやけて見える。
警察からは、ただの一度も連絡などない。瑠璃に対して何か疑念があるのなら、まず本人から事情を聞こうとするのが普通ではないか。もちろん、こちらは姫子との関わりなど、ごくわずかしかない。姫子が幹事を務めた同窓会に出席したという、それだけだ。少なくとも、中学生だった姫子の息子と仲よくしたというボン子ほどにも、何かの罪に問われる理由はない。
理詰めで考えても、割り切れない不安というものはある。しかし自分はこれほど神経質で小心だっただろうか。歳をとった、ということかもしれない。若い頃は何につけ、怖いもの知らずだった。
あるいは警察が瑠璃のことを調べずにおかないだろうということは、同級生の間ではすでに周知の事実なのだろうか。今さら瑠璃に警告したり、慰めたり、驚いたりするまでもないことだと。それについては瑠璃自身も、先刻承知していると思われているのか。
三着目は、首回りのデザインが野暮ったかった。すっきりと長い首が瑠璃の長所なのに、妙なフリルで色気も何もない。
冗談ではなかった。
瑠璃は何一つ、承知などしていない。
たとえ高梨が、あのわけのわからない主張を、すでに同級生の間に広めていたにしても。
そんな屁理屈を警察が聞いているとしても、むしろボンによって否定されるだろう。警察で、ボン子が瑠璃を悪く言わねばならぬ理由はない。
ただ、それを言うなら高梨も同じはずだった。あの男の意味のない悪意について、瑠璃は誰にも、警察に対しても、説明する自信はなかった。
ボン子は警察で、瑠璃について何と言っているのか。それと高梨の言い分を、どのぐらいの連中が、どう聞いているのか。
それを誰に確かめればいいだろう。
もしボンが瑠璃を避けているなら、こちらから電話して問いただすのは逆効果だろう。柿浦も、高梨の瑠璃への悪意について、とぼけていたのなら、問い詰めたところで暖簾に腕押しというものだ。
我に返ってみれば、身に何の覚えもないのに、あれこれ聞いてまわるわけにもいかなかった。仮に自分が犯人だったとしても、そんなみっともない真似は美学に反するぐらいだ。
犯人。
犯人?
そもそも、何でこんな心配をするはめになったのか。あのホールで、姫子の口に毒だなんて。
本当だとしたら、いったい誰が。その捜査はどこまで進んだのか。
瓜崎が、瑠璃と話したがっている。
実々の言葉を思い出した。
あまりにも意外で、何かの聞き間違いのように忘れかけていた。
あの史朗という、か細い、頼りなさげな少年が、瓜崎の子。
そんな噂が立つからには、大学院時代、瓜崎と姫子は付き合っていたのだろう。無論、そのことには格別、感想はない。瑠璃が結婚し、アメリカに渡ってからの話だ。瓜崎が誰と付き合おうと、いや、瑠璃が結婚してなくても、最初から何の関係もない。
とはいえ、あの子が瓜崎の種だと陰で言われている経緯については、もっと詳しく聞きたかった。ちらりと見かけた男の子は、瓜崎と似ているとは思えなかった。瓜崎の子なら、姫子はなぜそれを隠す必要があったのか。瓜崎には早くも家庭があったかもしれないが、二人とも若かったのだ。姫子が乗り込んで、ひと騒動になっても不思議ではない。
「いかがですか」
試着室の仕切りの向うから、声がかかった。
瑠璃はアコーディオンカーテンの隙間から顔を出し、一着目の服を渡した。
「これ、いただくわ。着て出たいから値札を外してもらえる?」
承知しました、と店員はにっこりした。「では、そちらの喪服の方をお包みしましょう」
未婚の妊婦だった姫子の、院生すべてが羨むような就職先。そして文字通り、死ぬまで父親の名を明かさなかった彼女。
就職の斡旋に絶大な力を持つ、南園大の教授が関わっていると考えるのが普通だ。担当教授自身の身の不始末でないとすれば、当時、学内でそこまでさせる力があったのは。
それもまた、瑠璃が他人に訊いてまわることではなかった。それを知りたかった。が、他人に訊くことではない。
瓜崎に会えばいい。
面と向かって本人に尋ねればいいのだ。あのホールで一瞬、顔を会わせた瓜崎が、瑠璃に何を話したいのかも。
「あら。まあ、お似合い」
もうバーゲンの赤札を外し、買い上げた品にも関わらず、店員は感に堪えない声を上げた。なかなか実の籠もった言い方で、予定外の出費をした身としては悪くない気分ではある。瑠璃と同年輩だが、やや小太りでベテランふうの店員だった。
「三十を過ぎると、たいていの方は肌がくすんできますのでね。こんな重たい茶色は、何だかカタマリみたいになってしまって、お勧めできないことが多いんですけど。まあ、学生さんみたい」
長いフレアの裾は確かに懐かしい女学生ふうで、サテンの艶生地が上半身をぴったりと包み、細い首と小さな顔を若々しくみせる。
「ありがとうございました」
レジで店員の挨拶を受ける気分は、伊勢丹に入ったときとはまるで別物だった。買い物して気張らしなんて、どんなバカ女の所業なんだ。昨日までそう思っていたバカ女って、わたしのことだわと、これも上機嫌で瑠璃は考えた。
「さっきはいろいろ教えてくれて、ありがとう。焼香には間に合ったかしら。そういえば、瓜崎くんが私に何か話したいとのことでしたね。急いでいて訊きそびれたけど、もし彼のメールアドレスを知っていたら取り急ぎ、教えてください」
夕方、青葉台の自宅に帰り着くと、この文面で実々にメールした。
たったこれだけの文章に、帰りの車中の時間全部を費やした。最初はもっと長く、瓜崎には学生時代、コンピューター演習で世話になっただの、こちらもホールで見かけて話したいと思っただのと書いたのだが、考えた挙げ句に削った。
このメールは証拠品なのだ。瑠璃と話したいと言いだしたのは瓜崎の方だ、と明確に記す必要がある。後から尾鰭がつき、妙な噂を流されないために。瓜崎には瑠璃に対し、その前科がある。証拠物として必要最小限とし、余計なことは書かないに越したことはない。
「取り急ぎ」と言ってやった甲斐があって、実々からの返事は三十分経たずに届いた。瓜崎のメールアドレスのみの簡単なものだった。
もしかしたら実々はまだ、同級生たちと一緒なのかもしれない。喪服姿のまま、あるいは瑠璃のようにショッピングして着替えて、親しい者同士で飲みに流れてもおかしくない。辛気くさい集まりの後って、誰でも買い物したり、はしゃいだりしたくなるのだ。その中にもし瓜崎もいるとしたら、実々からの返事に一言ぐらい、それが書かれていようが。
実々のメールが届くまでの間、すでに打ってあった瓜崎宛てのメールを、瑠璃はもう一度読み返した。
「ご無沙汰しています。実々から、瓜崎さんが私に何かお話がある、とお聞きいたしました。私も、久しぶりにお目にかかるなら、コンピューター演習のレポートをお手伝いくださった件につき、あらためてお礼申し上げたいと思います。再来週以降は雑事で詰まっておりますが、今週か来週なら、都心へ出た際にでも、お勤め先の近くまで伺っても構いません。いかがでしょうか」
瓜崎宛てはなお細心に、曖昧な物言いを排除した。かといって、あまりそっけなくて相手の気分を害し、断られても困る。できれば瓜崎にあれこれ訊きたいのは、こちらの方でもあった。
勤め先のパソコンとおぼしき、その瓜崎のアドレスから、瑠璃の携帯に着信したのは翌日の午前中だった。
「メールありがとう。君から連絡をもらえるなんて意外だったし、たいへん嬉しかった。ずっと慌ただしくしていますが、金曜の夕方なら仕事は比較的早く終わります。ご都合を聞かせてください」
相変わらずだ、と瑠璃は思った。
何が相変わらずなのか、なかなか言い表しがたいのだが、たとえば自分が話したいと言っていたくせに「君から連絡をもらえるなんて、意外だ」と書いて寄こす。もしかして瑠璃同様、瓜崎も何か警戒しているのだろうか。それにしても「金曜の夕方」とまで限定しておいて「ご都合を聞かせて」もないものだ。
金曜の夕方、か。
それも嫌な感じだった。もっとも昼間の仕事の合間にランチでも、と言われれば気楽な反面、馬鹿にされた気がしたかもしれない。
「今週末の夜は、日本橋の店に泊まりがけで骨董品の仕訳けをする予定ですので、お目にかかった後、そのまま日本橋に向かえば好都合です」と返事した。
仕訳けの仕事はなかったが、金曜の夜、遅くまで一緒にいる気はない、という意思表示と証拠の文面だ。
やりとりを交わしながら、しかし一方では少しずつ、ほんの少しずつ、わだかまりが解けてゆくのも瑠璃は否応なく感じていた。
許し難い思いはいまだにあるが、思い返せば学生同士の幼稚な行き違いだった。長い年月が経ち、互いに隔たりができた。何より姫子の一件がある。瓜崎が姫子のかつての恋人なら、その死を挟み、彼も今さら瑠璃とのいきさつなどに拘泥する気になるまい。
それはそれとして、我ながら矛盾した動物だ、と瑠璃は少し恥ずかしくもあった。再来週以降は雑事で忙しくなる、というのは本当ではない。気候が暑くなり、春物のバーゲンで買ったドレスが相応しくなくなるのを怖れただけのことだ。
老けた、醜くなったなどと決して思わせてはならない。それは瑠璃が嫌う同窓会的見栄だ。が、瓜崎に対する今度ばかりは、自身に課した絶対的使命だった。
自宅の電話が鳴ったのは、その午後だった。
瑠璃は台所にいて、急いで汚れた手を洗った。姑からだった。
「あら、お義母さん。今、ビーツのキッシュを焼いてるんですよ。今夜か、明日の朝にでもお持ちしようかと」
瑠璃は料理研究家ではない。凌ぎを削っているプロ料理家に敵うはずもなく、もとより腕に覚えもない。とはいえ、アメリカ帰りを売りにする以上、あちら風のオリジナルレシピを一つや二つ、受講生に披露しなくては示しがつかなかった。食べて美味しいのと写真映りがよいのとは違うから、見栄えよく作るポイントは別に押さえて、川村仁の撮影に備える必要もあった。
今日は朝からずっとその試作で、昼食も、たぶん夕飯も出来そこなったキッシュだろう。舅姑に亮介の弟夫婦にも加勢してもらわなくてはなるまい。特に姪と甥たちは、喜んで食べてくれるはずだ。
「ああ、キッシュ、」と姑は、どこか腑抜けたような声を上げた。
「お嫌いでしたっけ。でも、チーズは極上のを、」
「瑠璃さん、あのね。瑠璃さんに言ってもしょうがないけどね、」
姑の言葉は、あわあわと要領を得ない。「誰もいなくてね、今、警察がね」
警察。
ついに。一瞬、瑠璃はそんなふうに思った。
「女が、ね、傘を振り回して、そう、つい電話しちゃったけど、でも、だけど、瑠璃さん来たら、ガラスが危なくて」
ケースが粉々になったらしい。「あたしが、警報機を鳴らして」と、姑は喘ぎ喘ぎ言う。
「で、お怪我は。何が毀れたんです」
事態を飲み込み、瑠璃は咄嗟に聞いた。
高価な品を扱う店だ。それなりの心構えはあり、覚悟はあると言えばあった。が、盗むならともかく、ただ毀すとは。確か、女、と言っていた。通りすがりの変なのが入り込んだのか。
「常滑の壺に高麗の茶碗。たいした額にならないと思うけど、ああ」
ああ。そうなのだ。金の問題だけではなかった。骨董を扱う者にとっては、盗まれた方がまだいい。盗られれば悔しいが、それはどこかに存在しているのだ。二度と誰にも作ることができない物を、ただ毀すとは。
「とにかく、すぐ参りますから」
瑠璃は電話を切り、周囲を見回した。料理道具をざっと片づけ、一番大きなタッパウェアを棚から取り出す。赤いビーツと緑のほうれん草が覗く、我ながら美しいキッシュを、炊き出しの握り飯よろしく、その中へ詰められるだけ詰めた。
舅は仕入れに出ているのだろうし、亮介の弟が来られるのは勤めが終わった夕方になる。弟の妻は二人の子供を抱え、極めて機動性が低い。慌てた姑が、とりあえず瑠璃に電話してきた、というところだが、何もできないのはこちらも同じだった。
常滑の壺に高麗の茶碗、か。
高麗は出来によって値段に大きく差がある。店に出す品には値札が貼ってあるわけでなく、姑の目利きは当てにならない。が、従業員の丁稚はいただろうから、彼が言うならたいした被害額でないのは確かかもしれない。いずれにせよ、本当にいい品はいちいち店の奥から出して客に見せるものだし、毀された物はたぶん、比較的安価なものを陳列する一番手前のガラスケースだと思える。
やれやれ、だった。不動産会社に勤める亮介の弟が厳しく言う通り、これで宝石店並みのセキュリティに強化されることになろう。昔気質の舅は、激しく抵抗するだろうが。誰にでも価格の見当がつく宝石店と、こちとらみたいな骨董商は違う、と。
それも筋は通っていた。そもそも宝石は小さいが、骨董はたいてい嵩が張る。苦労して運び出したところで、ただの古いがらくたか、数千万もする逸品か、通常の人間には見分けられない。一点物だから、処分すれば足がつく。昔から骨董店に入る泥棒は関係者か、内情に通じたやくざ者と相場が決まっている。そしてこんな白昼に起きる意味不明の打ち毀しに対しては、通りに向けて店を開いている以上、防ぎようがないのだ。
日本橋の店に着くと、もう警察は引き上げた後だった。鉄格子のシャッターは下ろされ、二人の従業員が床のガラスを掃き集めている。姑も、やや落ち着いた様子だった。
「わりあいに若い女でねえ。いい身なりをしてたんだけど」
一暴れしたら、さっさと逃げてしまったらしい。
「防犯ビデオの映像、見せましょうか」
箒を手にした従業員が声をかけた。
「警察はデータを持っていかなかったの?」
「持っていきましたけど、連続静止画が残ってるんです。警察で解析するから、静止画はいらないって」
古い物ばかりでなく、最新機種も好きな男の子らしく、結構嬉しそうに装置をいじっている。
「ほらこれ。いまいち、ぼんやりしてますけど」
(第10回 第05章 後編 了)
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*『本格的な女たち』は毎月03日にアップされます。
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