エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第五章 大部屋の面々
読者諸賢のお許しを乞うて、物語なかばのここらでひとつ、本筋をはずれた観察記録をひとくさりふたくさり講じる余興にお付き合いくださいませ。
さてこれまでの頁で物語ってきた俺の『天路歴程』は落胆の泥沼から始まった、第二十一衛生分隊ではみんな知ってることさ(当時はジェルメンに駐屯していたんだ)それからノヨンやクレイユやパリでの秘儀を経て此処オルヌのラ・フェルテ・マセ家畜選別所にたどり着いた。折紙付きで最後の施設の一員となった第一日目の終わりをもってこの正真正銘の巡礼も幕を閉じたんだ。そしてラ・フェルテの第二日目の始まりとともに新章が幕を開ける。この新章は俺の旅立ちまで続き、歓楽の山々を探索したりもするが、そのうちの二峰――渡り人ともう一人のことは言わないでおこう――のことはもう見つけていたっけ。なんせたくさんの素敵なおもちゃをぐちゃぐちゃに詰め込んだばかでかい灰色のおもちゃ箱みたいなもので、そのおもちゃのひとつひとつが語るに足る代物なんだ、永劫不変の時間軸のうえでは他のあれこれと一緒に並べられてしまうとしたってね。豚箱入りという特別待遇に抜擢されたことのない読者諸賢の為にもこの点ははっきりさせておこう。牢屋暮らしをしたことのある連中なら俺の言う意味はなんなく通じるよ、まるっきり不明瞭な判決によって投獄されるという大いに啓蒙的な経験を積んだ連中にはとりわけ自明だ。一体、そんな状況下で、その個々性を拠り所とするほかにどうやったら出来事が出来事として出来し且つ時の流れから分別されて記憶されるだろう。あるいは、そんな囚人にとって今日も明日もおんなじものである以上、時の流れの入り込む余地などあるだろうか。確かなことは、囚人は一度その環境に慣れてさえしまえば、解放の日を指折り数える胸算用が監禁時間を短くしてくれるはずもなくむしろ自分を(病とまではいかなくとも)不幸に追いやるばかりであることを一度認めてさえしまえば、出来事はもはや順を成さない、何が生じようとも、それが他の何らかの出来事と関連していることが火を見るより明らかであろうとも、時間的先後関係において生じることはない――それぞれの出来事は自己完結し、何分とか何月とかその他もろもろの自由を謳歌した産物とは無関係なんだ。
そういうわけだから読者にラ・フェルテにおける俺のもうひとつの生と非存在の日記を押し付けるつもりはない――そんな日記が言葉にならないほど読者をうんざりさせるからじゃなくて、日記や順序立てという叙述法が無時間性を真っ当に取り扱えるものではないからだ。俺は(逆に)灰色のおもちゃ箱から(俺にとって)確かで多少なりとも驚嘆すべきおもちゃを手当たり次第に取り出してみようと思う、読者を楽しませるものもそうじゃないものもあるだろうが、その色味や形や質感はこの実在する現実の一部となる――未来も過去もない――その認識者たりえるのは――いわば――世界からの切断手術を甘んじて受け入れた者だけだ。
ラ・フェルテが家畜選別所だって話はさっきも言ったな――要するに、ありとあらゆる容疑者が委員会で罪科の判決を受けるまでのあいだ仏政府の家畜番のもとで集め置かれている場所だ。委員会が邪悪な人物だとか、危険人物だとか、望ましからぬ人物だとか、わけのわからぬ人物だとか、鑑定に動じないところがある人物だとか認めるとその連中はラ・フェルテから「正規の」刑務所に送られる、プレシニェといって、サルト県にある。プレシニェに関しては世にも恐ろしい噂が広まっていた。口々に囁かれることには巨大な濠がぐるりと囲み、高さ三十フィートの有刺鉄線網が無限に張り巡らされ、壁という壁にずらっと設置された電灯が一晩中煌々として脱獄の気を挫くのだとか。一度プレシニェに踏み「入ったら」はいそれまで、戦争が終わるまで入りっぱなし、終わるまでというのがまた折に触れて陰惨な胸算用の種となる――折に触れてというのは(さっきの話じゃないが)心の健康状態に依るためで、陰惨なのは食い物、不足品、汚物、その他取るに足らぬものまでがでたらめなせい。すると、ラ・フェルテは、まだ自由とプレシニェのどちらにも転べる踏み台で、前者への可能性も残っているわけだ――当てずっぽうじゃなしに――第十八条禁酒法改正をめぐって今や一躍流行語になった例の名文句ほども見込みはなくともね。ところがやんごとなく比類なきおまけにどこをとっても慈悲深い仏政府は気前よくプレシニェ送りにしただけじゃ気が収まらない――その彼方に潜む悪夢はいやに詩的な名で呼ばれている。魔女島だ。魔女島に送られた男はそれきりさ。
監督官が俺たち全員に向かって言ったことがある、ちっちゃい窓から身を乗り出してね、それに俺は何かの折にじきじきに言われたこともあった、
「貴様らは囚人なんかじゃないぞ。まったく。とんだ誤解だ。ちゃんとちがうと言っておかねばな。囚人はこんなふうにもてなされたりせん。運が良かったな」
たしかに俺は運が良かった、でもそれは哀れな監督官殿の知る由もない話だ。我が囚人仲間に関して言えば、残念ながら監督官殿は――取るに足らぬ私めにもそう見えます――あんぽんたんでいらっしゃる。ラ・フェルテに相応しい者がどこにいよう? 麗しき国フランスで警官がひっとらえたのは(a)反逆罪を犯していない者と、(b)反逆罪を犯していないと証明できない者ばかりだった。反逆にかこつけるなら俺は自立した精神と行動が生んだ人迷惑な癖のどんな些細なやつだって挙げ連ねてやるさそれが戦争中に穴に寝かされ埋葬されたものであってもね、彼らの屍体の上にスミレが咲き誇りその花の香りがすべての善き者誠実な者を喜ばせ善良な人民に悲しみを忘れさせるものであるからしてとこじつけるのはちょっと幼稚すぎるかな。でも、たとえばレヴェンワース駐屯地趾なんか、今でも一部のアメリカ人にとっては感激極まるような香りでいっぱいだ。フランスがいったいどれほど多くのラ・フェルテを誇っていたか(俺の知る限りじゃ今でも誇ってるんだろうけど)それは神のみぞ知る。少なくとも、かの共和国では、恩赦が布告されたとか、噂だけどな。――ところで監督官の話だった。
(第28回 了)
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