人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚
鏡に自分の姿が写っていない! ふと部屋の隅に置かれた鏡台を見て、奈々恵はぎょっとした。仕事から帰ったばかりで、着替えようとした時に気づいた。はじめは見間違いかと思った。しかし鏡台の位置や角度を変えてみても、部屋の中は写っているのに自分の姿が写らない。おそるおそる鏡面を指で触ってみると冷たい。でも自分の手はまったく写っていない。奈々恵はようやく寒気をもよおすような恐怖に襲われた。
いたたまれなくなって居間をあてもなく歩き回った。チラチラ鏡台を見てもやはり自分の姿はない。叫び出さなかったのは鏡に自分が写らないこと以外、部屋の様子がなにひとつ変わっていなかったからだ。机やクローゼット、本棚などは見える。いつもどおりきちんと片付いている。
奈々恵は手で自分の顔と耳、それから髪の毛を触ってみた。目や鼻、口や耳などはすべてあるべきところにあった。肩より下の身体もちゃんと見える。身体が透明になってしまったわけではないようだ。ならどうして自分の姿が鏡に写らないのだろう。
そうだ、バスルームにも鏡がある。明かりをつけると樹脂製のユニットバスがいつもより寒々として見えた。急いで鏡の前に立ってみたが、ない。姿が写っていない。奈々恵は暗闇に吸い込まれてゆくような絶望を感じた。「もしかして、このまま死んじゃうのかなぁ」涙があふれた。鏡が見えないようにしゃがみこみ、風呂場の壁に身体をもたせかけて不安なまま静かに泣いた。
「立ちあがらなきゃ」心の中で小さな声がそう訴え続けていた。奈々恵は腰を上げて居間に戻った。椅子に座り、机の引き出しを開けて卓上ミラーを取り出した。おそるおそる鏡を見たが、やはり椅子しか写っていない。
「考えなきゃ」奈々恵は鏡が映し出すその空白と向き合おうとした。笑ったら笑い返す、手を伸ばせば向こうでもこちらへ手を伸ばす、髪を整えたら鏡の中の自分も髪を整える。そんな当たり前のことが、なぜだか失われてしまった。鏡に自分の姿すら写らなくなったら、それは本当の孤独じゃないかと思った。仕事があって、仲間、友だち、そして両親もいて、自分を孤独だと一度も思っていなかったのに。また涙があふれそうになるのを奈々恵はこらえた。鏡には写らないけど、自分は確かに〝いる〟。触れば温かみを感じられるし、目で見れば腕も手も足も見える。
「もしかすると、鏡がわたしの存在を否定してるんじゃないかしら」
そう考えるとイライラして鏡を壊したくなった。壊せば鏡も反省して、破片になったカケラに自分の姿が写るかもしれない。しかしものを壊すなんて自分らしくない。
奈々恵はまじまじと鏡を見た。あいかわらず椅子しか写っていない。「これはもしかすると、なにかの暗示かもしれない」鏡に写らない理由は分からないが、自分はちゃんと存在しているのだから、自分にだけ投げかけられた謎なんだろう・・・。
どこかの国では人が亡くなると、その家ではすべての鏡を黒い布で覆う習慣があると聞いたことがある。死んだ人が生きた人の魂を冥界へ引きこまないようにするためらしい。死者はこの世からいなくなって、二度と鏡にその姿を写せないからそんな迷信が生まれたのだろう。しかし自分は生きている。それは確かなことだ。
奈々恵は卓上ミラーを引き出しにしまい、鏡台を動かして壁に向けた。バスルームの鏡は動かしようがないが、これ以上鏡にわずらわされたくなかった。
カーテンを引き、窓を開けた。ぬるい夜風が頬をなでた。街は静まって、闇の中に無数の明かりが弱々しく揺れていた。ビルに囲まれているが建物の間から川が見えた。川の向こう側は車道で、車のライトに照らされて川面がきらきら光っていた。いつもと変わらないその光景を見て、いささか落ち着いた。
「しっかりしなきゃ」不安な気持ちを抱えたまま、奈々恵はそう思った。
まだ未明のうちに目を覚ましてまっ先に考えたのは、やはり鏡のことだった。奈々恵は机の前に座ると引き出しから卓上ミラーを取り出した。「昨夜のことは、なにかの間違いよね・・・」
しかし淡い期待はあっさり裏切られた。鏡には壁と天井の一部しか写っていない。どうやら夜だけ起こる現象ではないようだ。パタンと卓上ミラーを倒した。ただ昨夜よりずっと冷静だった。「鏡に姿が写らないなら、それに慣れればいいのよ」と思った。
思い切って、体調不良でその日は会社を休むという連絡を上長宛てに入れた。有給消化になるのだが、奈々恵はめったに休まないから、心配なかった。むしろたまに休んだほうがいいと同僚によく言われていた。もしかすると、鏡に自分の姿が写っていないという現象も、たまった疲れのせいかもしれない。
部屋にいるといろいろ考えてしまうから、出かけることにした。でもお化粧はどうしよう。鏡台からファンデーションや口紅などの化粧品を持ってきて机の上に並べてみた。ファンデーションを手に取ったが、やはり鏡に顔を写さないでちゃんと広げられる自信がない。奈々恵はあっさりお化粧をあきらめた。「マスクすればいいじゃない」とつぶやいて、クローゼットを開けてマスクを一枚出した。
Tシャツにジーンズという休日用の私服で外に出ると、朝の空気がさわやかだった。光あふれる朝で、今日も快晴で暑くなりそうだった。道路に降りる階段の両側に小さな鉢植えが並んでいた。会えば挨拶を交わすだけだが、一階の老婦人が丹精しているお花で、今の季節は朝顔だった。奈々恵は足をとめてじっくり朝顔を見た。ひときわ大きな青い花が、太陽の光を浴びて空に向かって開いていた。堂々と咲き誇る青い花が、なんだか羨ましく感じられた。
こんな立派な朝顔を前にも一度見たことがある。首都圏からさほど遠くない山あいの民宿に和子と泊まったときのことだ。朝顔は地面にずらりと植わっていて、朝顔棚の竹棹に沿って伸びた茎から、たくさんの花を咲かせていた。まるでお花のカーテンだった。「こんなにきれいで立派な朝顔、見たことないね」興奮して和子といっしょにはしゃいだのだった。
「和子はどうしてるのかな」
そう考えると胸がちくりと痛んだ。鏡に自分の姿が写らないよりも、心に響く痛みだった。奈々恵は階段を降りて歩き出した。
朝日が街を淡いピンク色に染める時間なので、人通りは少なかった。奈々恵の足は吸い寄せられるようにコンビニに向かった。会社帰りにしょっちゅう立ち寄るお店だ。でも今日は目的があって来たわけではない。朝ご飯を食べていないことを思い出して、レジ近くに並べてあったお菓子の中から大福を一個手に取り、レジの上に置いた。「いらっしゃいませ。袋にお入れしますか」と店員が言って、奈々恵が出したお金をレジに入れた。
奈々恵はちょっとホッとした。鏡に姿は写らないが、コンビニの店員にはちゃんと自分が見えている。
「だいじょうぶ、ぜんぜんだいじょうぶ」と自分に言いきかせた。
外で食べられる場所は川べりしか思いつかなかった。奈々恵は狭い住宅街の道を歩いて行った。びっしり住居やアパートが立ち並んでいるので、高い所に登らなければ川がすぐ近くを流れていることなんてわからない。突き当たりに土手が見えた。古びたコンクリート製の階段を一段一段上ってゆく。パッと視界が開けた。
芝生が敷き詰められたなだらかな傾斜が五十メートル近く続いていて、その先に青みがかった大きな川が流れていた。奈々恵は土手の上に立って上流と下流を見渡してから、川を目指して土手を降りていった。
まだ朝なので人は少なかった。ジョギングしている人、しょざいなさげに散歩している人、ゴルフクラブを振ってスイングの練習をしている男の人などがちらほらと見えた。
川べりは頑丈なコンクリートの護岸壁でおおわれていたが、奈々恵はそれが途切れ、流れのすぐ近くまで降りられる場所を知っていた。むきだしになった土を踏んですぐそばまで降りた。両足をそろえ、上半身を伸ばして川面を見た。川の表面はうねっていたが、風でふわふわと髪をなびかせる自分の姿が見えるはずだった。しかしやはり何も写っていない。また絶望的な気分になりかけたが、さわやかで美しい川に目を向けて気をまぎらわした。
奈々恵はコンクリートの護岸壁の上に座ってぼんやり川の流れを見た。鏡に姿が写らないと、どんな不都合があるのか考えた。まずお化粧問題だが、「肌が荒れてて医者に、しばらく化粧しないように言われてるの」と言えばすむと思った。勤務中もマスクをしている社員だってたくさんいる。でもトイレで女子社員といっしょになったらどうしよう。鏡に写ってないと気づいたら、大騒ぎだろうな。しかしそれも、誰もいないことを確認して入ればいいと思った。
ほかに他人が鏡ごしにわたしを見るシチュエーションはあるだろうか・・・。あ、夜の電車。ラッシュアワーなら混んでてごまかせるけど、中途半端な時間だと、窓に写っていないと気づく人がいるかもしれない。じろじろ見られたりしたら・・・。そういう時はこちらから「そうなんです、鏡に自分の姿が写らなくなっちゃんたんです。どう思います?」と聞いてやろう。都会の人はクールだから、大騒ぎしたりしないだろう。素知らぬ顔で「そうなんですか、大変ですね」とか言ってくれそうだ。そう考えて奈々恵はうふふと笑った。
護岸壁に座っていると風が草の匂いを運んできた。心地よい風だった。川とその向こうに並ぶ建物を見ながら袋から大福を出して食べた。普段めったに食べない甘いお菓子が、今日はとてもおいしかった。ピクニックに来ているようだった。何度も川べりを散歩したが、ここで何か食べたのは初めてだった。
「あの時は楽しかったな」
奈々恵はまた和子との小旅行を思い返した。一泊した翌日、夕方の電車の時間まで森の中を散歩した。草の上に座ってお弁当を食べてから、二人で寝転がって空を見た。することがなかったので雲を指さして、あれはウサギに見える、いや猫よ、曲芸してる犬みたいじゃないと笑い合った。スマホをかざしていっぱい写真を撮ったが、帰ってきてから見直してみると、青い空になんのへんてつもない雲が浮かんでいるだけだった。でもそれでよかった。
「あ、朝顔を撮り忘れたんだった」
青やピンクや赤に咲き乱れる朝顔に見とれて、奈々恵は朝顔の写真を撮り忘れた。あの旅行で一番印象に残ったのは大輪の朝顔だったから、帰ってきて写真を整理しながらひどくがっかりした。
「そうだ、朝顔を見に行こう」
奈々恵は突然そう思った。それが鏡に姿が写らなくなった自分には、一番いい時間の過ごし方のように思えた。なにより今日一日、部屋で過ごすのが嫌だった。電車に乗って、駅前からバスを乗り継いで、三時間くらいて着いたよね。頭の中でざっとルートをおさらいした。今すぐ出れば、日帰りで帰ってこれそうだった。奈々恵はゆったり流れる川をもう一度見ると、駅に向かって歩き出した。
最寄り駅から電車で都心に向かうにつれて人が多くなっていった。窓に姿が写らない自分に気づき、怪訝な視線を向けてくる人がいるかもと恐れたが、誰も気づかなかった。一人客はたいていスマホに視線を落としていて、カップルはおしゃべりに夢中だった。奈々恵はホッとしたが少しさみしくもあった。自分にとっての一大事は、世の中の人たちにとっては取るに足りないことなんだと思った。
特急電車のターミナル駅に着いたのは、まだ昼前だった。夏休み前のせいか、車内は空いていた。奈々恵は四人がけのボックスを独占することができた。相変わらず窓ガラスに自分の姿は写らない。しかし電車が動き出し、じょじょに家やビルがまばらになると不安がまぎれた。山あいに入ると青々とした木々の緑が美しかった。思い切って小旅行に出かけたのは正解だった。
「電車に乗ってる時間って、二時間くらいでしょ。お菓子買う必要ある?」
「なに言ってんの、女子旅におやつは必須アイテムでしょ」
奈々恵はそう言って笑った和子を思い出した。駅ナカのコンビニで和子は数種類のお菓子を買ってきた。「ほら、おいしいわよ」とグミの袋を開けた。奈々恵は甘酸っぱいグミをつまんで口に入れたのだった。
和子は大学時代の親友だった。同じクラスで一年生の時に仲良くなってから卒業まで、大学にいる時も、図書館で勉強する時も、遊ぶ時もずっといっしょだった。勉強好きでやや内向的な奈々恵とは違って、和子は明るくて世渡り上手な性格だった。それでも、二人は大学生活をとにかくせいいっぱい楽しむという共通の目標を持っていたから、仲良くしていた。一番大きな変化は三年生の時に、和子が二つ年上の真二と付き合い出したことだった。奈々恵にはすぐに彼女が本気で真二に夢中だとわかった。真二はカフェでバリスタの仕事をしていた。和子に連れられて奈々恵はカフェで真二に会った。彼が淹れてくれたコーヒーは、それまで飲んだコーヒーの中でいちばんおいしかった。
和子と真二が付き合い始めてから、三人でご飯を食べることが多くなった。このような時には、奈々恵は自分の知らない和子を見る機会がしばしばあった。わざとわがままに振る舞う和子。時には自分をかわいく演出する和子。わけもなく真二に対して冷たく振る舞う和子。それに対して、いつも大人げにやさしくほほ笑む真二。あのような彼をかわいそうにも思っていた。ふたりを見て、カップルではなく、父親と娘を見ているような感覚を覚える時もあった。それを和子に話してみたが、本人はもちろん認めない。自分が和子の代わりにいたら、真二にもっとやさしくしてあげられるのにとすら思ったことがある。
「就職活動真っ盛りになる前に、旅行に行っとかない?」と誘ったのは和子だった。切符や宿はぜんぶ和子が手配してくれた。山の中の民宿と知って「なんで山なの?」と聞いた奈々恵に、「雑誌で写真見て、いいなぁって思っただけなのよ」と和子は答えた。写真一枚で旅行プランを立ててしまうところが、いかにも和子らしかった。民宿と聞いて多少心配したが、行ってみると安くてきれいな宿だった。
久しぶりに和子と二人で過ごす時間は楽しかった。いっぱい笑っていっぱい話していっぱい食べて、澄んだ山の空気を胸いっぱい吸い込んだ。帰りの電車では、ふたりはくたびれて、特急の速度で移り変わる外の景色に目を向けながら、将来の話もした。和子は異様にまじめになっていた。
「わたしたち、いつまでも女子大生じゃいられないよ。わたしだって奈々恵だって、どんどん変わっていくわけだから、流れに身をまかせて生きていけばいいのよ。わたしたちが友だちなのは、ずっと変わらないんだから」
言葉だけでなく、和子の表情に奈々恵はドキリとした。笑顔だったが表情はどこか冷たかった。自然に、でも急速に大人になろうとしていた。和子にくらべ、自分は幼く子供っぽいと奈々恵は感じた。
旅行の直後に和子と真二が喧嘩した。それまでもたまに喧嘩することはあって、ちょくちょく和子から愚痴を聞かされていたが、今回はひどかった。原因は真二が二人が付き合い始めた一周年記念日を覚えていなかったことだった。なんだそんなことか、わたしなら気にしないのにと奈々恵は思ったが、口には出さなかった。ただ和子はずっと不機嫌だった。半月ほどたっても仲直りする気配がなかったので、「好きなんでしょ。和子の方からあやまったら?」と奈々恵は言ってみた。
「イヤよ。なんでわたしがあやまんなきゃならないのよっ」
旅行の時は大人だなぁと思ったが、真二のことになると和子はやはりわがままだった。真二しか目に入ってないので、仲直りのきっかけをつかめないのだ。それがおかしくもあり、かわいくもあった。「こりゃ和子は折れないから、こっちのほうが大人になって助けなきゃ」と思った奈々恵は、カフェに真二を訪ねた。
「和子が怒ったのは、不安だからだと思うよ」
真二と顔を合わせると、話題は和子のことしかなかったと奈々恵は気づいた。
「不安ってなにが」カウンターの隅に座った奈々恵に真二は小声で聞いた。
「和子は一周年記念を真二さんとお祝いしたかっただけだよ。それを真二さんが覚えてなかったから、この一年はなんだったのって、むくれちゃったんだと思う」
「そんなことで・・・」言葉をとぎらせたが、真二の表情がやわらいだ。「でも和子の怒り方、すごかったぜ。ちょっと怖いくらいだった。俺の方は付き合ってまだ一年で、これからって感じなんだけどね」
「真二さんの方からあやまってあげてよ」
「まあ、このままってわけにはいかないよな。話してみるよ。ありがとう、奈々恵ちゃんはいい人だね」と真二は笑った。
しばらくして奈々恵は和子から、真二と仲直りしたと聞いた。ただ「奈々恵のおかげね」と言った和子の口調にはとげがあった。「なによ、なんか言いたいことあるの?」と聞いた奈々恵に、「わたしたちが喧嘩して、チャンスだと思ったんじゃないの?」と和子は言い放った。
「えっ?」
「わたしに内緒で真二に近づかないでほしいの。いい?」
奈々恵は心の底が冷たくなった。ただ助けてあげたかったのに、和子は真二を彼女から横取りしようとしていたとでも思っているのか。親友に信頼されていないと感じた奈々恵は少し傷ついた。その場で和子に返す言葉はなかった。
しかしもやもやしたまま卒業するのは嫌だったから、奈々恵は和子に謝ってみた。
「ごめんね、わたしが間に入っちゃいけなかったね」久しぶりに会った和子にそう言ったら、「あ、いいの。わたしも言いすぎたわ」と和子は答えた。しかしその瞳は鋭い視線を宿していた。
「わたしたち、ずっと友だちでしょ」
「うん、そうだね」
奈々恵は笑顔で和子に答えたが、わだかまりは残った。本心で言っているのだろうかと疑った。
その時期、就職活動で一気に生活が慌ただしくなり、大学時代の友だちと会う機会はめっきり減った。「あんたは真面目すぎるのよ」とも言われたが、奈々恵は新生活に慣れるので精一杯だった。和子から出かけるお誘いがあっても奈々恵は断っていた。しばらくしたら、向こうからの連絡も途絶えていた。新生活が落ち着いたら、またいつものように会って、お話しすればいいと奈々恵は思っていたが、気づいたら一年も経っていた。
ある日、ポストに和子と真二の結婚式への招待状を見つけた。すぐに和子に電話して、お祝いの言葉を伝えようと思ったが、その衝動をおさえた。
「本当に私に出席してほしいかしら」と、不思議な思いが彼女の頭をよぎった。
どうしてこのような考え方をするんだろう、と奈々恵も自分に驚いた。一度だけ和子に冷たい言葉を向けられたから、彼女の言っていることをどういうふうに解釈すればいいかに戸惑っていた。
奈々恵は二人の結婚式に自分が行くのを想像してみた。二人の間に入ってしまったあの事件を思い出して、式場で和子に冷たくされたら、どうすればいい? あの時は二人をほっといておけばよかったのに。変な優越感を見せびらかして、まるで和子が自分なしでは何もできないとまで考えるなんて。和子はそれに怒って珍しくもない。完全に自分が悪かった、と奈々恵は思った。ゆっくり話をしないまま、二人の結婚式に顔を出すことなんてできない。少し時間が経ってから、和子に連絡して、話してみるのもいいかも、と奈々恵は思った。和子と向き合うのを後回しにしているだけだと、心の奥底では分かっていたが、仕事で毎日忙しく過ごしている今それを深く考えたくなかった。返事せずに、招待状を大学時代の写真を保管していた箱にしまった。
あれから三年が経ち、仕事にも慣れて、生活が軌道に乗って一人前の大人になっていた奈々恵には、鏡に姿が見えなくなってしまったという、訳の分からない現象が起こった。鏡に姿が見えないなんて、ありえる? 電車の窓から外の景色で気をまぎらわして、動揺をおさえた。
(前編 了)
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