ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
3(前編)
店の奥で全部の荷を出し、だいたいの分類が済むと、瑠璃は隣りの部屋からノートパソコンを持ってきた。仕入先で書かれた、舅の走り書きメモを入力する。客が前にいて時間をかけられないこともあり、数字も文字も非常に読みづらい。同種の物がまとめて幾ら、とされているのも多い。
どうにか打ち終えると、裏がシールになったシートに数字だけを印刷する。それからが大変だ。どの数字がどれに当たるのか、舅の走り書きだけから見当をつけ、物に貼っていかなくてはならない。
これは仕入れ値で、値札というわけではなかった。それも仮付けするだけで、もし違っていれば後から舅が直してくれる。と、そのはずなのだが、よほど高価な物は別として、面倒臭いのか、舅はろくに見もしない。大間違いに後から気づき、瑠璃さん、何なんだい、ということもよくあった。
「でもさ、あいつよりはずっと目が利くねぇ。パソコンもできるし、助かるよ」と、舅はおだてて使う。実際、姑には舅の文字の書き癖を読み解くとき以外、訊くことは何もない。
本当のところ、仕入れに行った舅は、最初に蔵全体を眺めて、総額でこのくらいと踏んだら、後は適当に数字を割り振っているだけのようだった。しかし税務上、また丁稚として修業中の従業員の教育上も、舅の頭の中で損のないように処理すればいい、というわけにはいくまい。ロスに送る物なら、亮介の心覚えにもなる。
そんな細々した、けれども必要な実務をこなすうち、瑠璃の泡だった気持ちは落ちついてきた。少なくとも赤の他人からの電話一本でかき乱されるほど、あやふやな暮しはしていないと思えてくる。
夕方、早めに来て始めた作業は順調で、姑との弁当の晩飯を挟んで、九時前には切り上げた。
「今夜は泊まらずに帰ります。明日は昼過ぎには来られますから」
「気をつけて。木の芽どきで、変な人がうろついてるからね」
春先の宵は確かに、夜道を歩いても気持ちがいい。よすぎて、ふわふわした感じが不安にもなる。
マンションに帰り着くと、瑠璃はドアの鍵を回す前に、いつもより念入りに外廊下の周囲を見回した。
リビングの灯りをつけないうちから、留守電の赤いランプが点滅しているのが目に入ってきた。
再び気が重くなった。あの男か。何も録音されてなくても、不動産のセールスとはかぎらない。留守にしていることを確認するためだけにでも、かけてきかねない。
ボタンを押した。えーと、と女の声が聞こえた。
「柿浦です。お電話いただいた?」
柿浦。さっき、メッセージは残さなかったはずだが。
電話機に着信ログが表示されてたのだろう。どうしようか。もういいのに。言いたいことはなくなった。
時計を見ると、十時だった。録音の記録では、柿浦がかけてきたのは、ほんの十五分ほど前だ。
瑠璃はリダイヤルのキーを押した。
「ごめん、電話くれた?」双方で言い合うと、妙な沈黙が流れた。
「昨日の午後、携帯に電話くれたでしょ? その後、高梨くんって同級生から連絡があってね。日本橋の店の方に」
落ちついた物言いができるのも、時間の間隔が空いたお陰だ。
ああ、ごめん、と柿浦はまた謝る。「仕事で忙しいみたいよ、って言ったのに」
「だから、携帯にかけるのは遠慮したってことらしいけど。わたしが夜になっても自宅に帰ってないからって、店の電話を電話帳で調べたんだって」
柿浦は、ごめん、と言いかけて黙った。
「そんなとこまで。ほんとに、もう」
「わたし、たまたまというか、確かに店にいたんだけど。何ごとかって、姑にも気を揉まれるし」
「そうだよね、心配されちゃうよね」
「もちろん、比目子が亡くなったのは大変なことよ。でも、わたしには関係ない、とまでは言わないけど」
愚痴はこぼせば、やはりエスカレートする。
「高梨くんに、なんで非難されなきゃいけないのかな、って。わたしのせいで比目子が死んだわけ? あのホールにジーパン穿いて来たのが無礼とか何だとか。正装でおいでくださいなんて、どこにも書いてなかったし、ジーパンに激安ジャケットだったかもしれないけど、インナーはちゃんと持ってる中では一番高いので、」
いったい、何を言ってるんだろう。
瑠璃は自分でうんざりした。まるで高梨のレベル以下に引きずり降ろされている。
「彼、そんなこと言うの? わかってないなあ、技術屋だね」
ただ瑠璃を黙らせたいだけのか、柿浦は大仰になだめた。
「あの、白のブラウスシャツでしょ。うん、一目見て高級ブランドだなって。しかもスタイルいいんだもん。スーツなんかより若々しくて素敵で、目立ってたし」
そう言われて、瑠璃は言葉を失った。
まさしく、そんなふうに思わせようとしていたのではなかったか。型に填ったスーツに型くずれした身体を押し込んで来るだろう、勤め人や子持ちの同級生と自分とは違う、と。その心持ちがこれ見よがしで無礼だと言われるなら、的外れとも言い切れなかった。
「そう、赤坂のホテルでやるなら、別だと思うけど」
瑠璃の声からは、怒りも勢いも消えていた。
「いいんだよ、気にしなくて。長くアメリカにいたんだもん。高梨くんがそのセンスに、ついていけないだけだよ。ほら、ジェスチャーだって欧米風に変わる人とか、いるでしょ」
いるわね、と瑠璃は頷く。「三ヶ月ぐらい滞在しただけで、やたらオーバーになる人とか。だけど挙動不審とまで言われると、ね」
「挙動不審?」
柿浦の息づかいが止まった。
まずいことを言ったのか。瑠璃は受話器を握り直した。
「聞いてない? そう言ってなかった?」
ううん、聞いてない、と柿浦は答える。
「なんて言ってるの? あたしのこと」
ああまた、と瑠璃は内心、舌打ちした。あの男が、あたしのことをどう言ってるの、だなんて。
「瑠璃のことは、別に何も。ただ、人が映ってるビデオを勝手に警察に渡したら、よくないだろうねって。入口での記名が後の方の人は、遅れて来たんだろうから、カメラ撮影してたこと自体も知らないかもしれないし」
だから了承を得るために、急いで連絡をつけようとしているだけと思っていた、と柿浦は言う。
意外だった。瑠璃には、高梨はあちこちで、あんなふうに言って回っているとしか思えなかった。
「それにしても、挙動不審、ってのはひどいねえ」
少なくとも警察が入っている件で、その言葉は不穏にすぎる。受話器の向うで、柿浦もそう感じたようだった。
冗談かもしれないけど、と、瑠璃はつい言葉を濁した。
「うん。きっと面白くもない冗談で、会社の女の子にも嫌がられてるよ。そう、銀座の展示会が派手だったって、こぼしてたなあ」
「あんな小さな会場で? 見たでしょ、寂しいもんじゃない」
「だって、洒落てたもの。プロと張り合ったってしょうがないのに、馬鹿にされるかもって構えてんのよ。高梨くんも同窓会の世話役だったし」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
銀座に展示したような外国人接待用のテーブルの設えと、ホールでの立食の同窓会を、同じパーティとして見なすという発想自体、瑠璃には欠けていた。
「高梨くん、瑠璃ちゃんの関心を惹きたいんじゃないの。なんか小学生並みだけど」
瑠璃は電話を切ると、柿浦の言葉をところどころ反芻して考えた。
高梨は瑠璃に言い放った言葉を、他人の前では言っていない。
だとすれば高梨自身、およそまともな言い分でないと承知しているからだろう。そのことで心ならずも、ほっとした。あの男の頭はおかしいわけではなく、公平に振る舞うふりをするぐらいの必要は感じているのだ。警察に対しても、瑠璃をやたらに中傷はするまい。
「警察の事情聴取って、あなたはされたんでしょ?」
電話の切り際、さりげなく瑠璃は訊いた。
「うん。倒れたときの状況とか、救急車での様子とかね。亡くなってすぐだったから、話してて泣けちゃってさ」
飲食物に何か混入してたかもって、高梨くんが言ってたっけ、と瑠璃は呟いた。「でも、もうホールは片づけちゃってたんでしょ?」
「ゴミ箱とかまで調べてたみたいだけどね。警察って、たいへんだね、土日なのに。ボン子のとこには、話を聞きに来たって」
「ボンは比目子と親しかったの? 比目子が博士課程を辞めた経緯は、ボンから聞いたんだけど」
付き合いはあったんじゃない、と柿浦は曖昧に答えた。
「それはまあ、皆、知ってるけど。あなたは最近、こっちに戻ってきたんだもんね。関係ないっちゃ、ほんとにないね」
関係ない。誰が考えてもそうだ。
そう言われて安堵した反面、瑠璃自身が最初に口にした言葉で揚げ足を取られ、冷たくされた気も微かにした。
それから四、五日間、日本橋の店で品の仕訳けと仮の値札付けに追われていた。カルチャーセンターの講座準備にかかり切りになれたのは直前の二日間だけで、辛うじて間に合ったという状態だ。
だが忙しいというのはいいことで、気がつけば暮らしは元通りだ。警察からなんて、何の音沙汰もない。
からかわれたのか、と瑠璃は思いはじめていた。無論、高梨が自分の気を引きたがっている、などと自惚れはしない。ただ何かの理由で、瑠璃を傷つけたがっていた。高梨本人にしかわからない複雑な心境、それがたまたま同級生にぶつけられる、ということはあるだろう。ずっと昔、同じ教室という空間にいた、というだけの理不尽な理由で。
旧交など温めたくはない、と考えていた自分は正しかったと、今さらながら瑠璃は思った。そんな自分が、よりによって標的になったのも皮肉だ。高梨という男の現状を知らないし、知りたくもないが、他人を非難することで自身を正当化したいのか。とすれば、それは瑠璃に対してというより、自身の過去に対してではないのか。
しかし、そんなこともこれ以上は考えたくなかった。誰が自身の過去に負い目があろうが、所詮、本人の問題だ。少なくとも瑠璃は今、このときに忙しい。
青山の地下鉄駅からほど近いビルで開かれる講座は、今年で二度目になる。
昨年同様、週一回ペースで全八回、だいたい二ヶ月間の予定だ。準備を二日で終えることができたのも、講義計画の大筋は昨年のものを下敷きにしたからだった。帰国して間もない頃は、やっぱり何だかアメリカ風そのまんまで、受講者に雰囲気を愉しんでもらったものの、実践性に欠けたと反省していた。今年はそれを日本的にカスタマイズするつもりで、ときには百円ショップのアイテムまで利用するテーブル・セッティングを披露する。
打ち合わせを終えて、教室に向かった。受講生は昨年より十人ほど増えて、五十人近くいるという。
大テーブルに花材と食器が用意されている。その脇に立つと、瑠璃は受講生を見回した。昨年は若い女性が多かったが、やや年輩者が増えているのは、よい傾向とだった。経済新聞社系の週刊誌に紹介されたせいか、三、四名だが男性の姿もあった。食品関係とか、業界の関係者かもしれない。機会を捉えて、名刺をもらっておかなくては。
と、右端の前から二番目の席に目が留まった。
ボン子だった。悪戯っぽい瞳をくりくりさせ、笑みを浮かべて坐っている。
「ええと、皆さん。初めまして」
何ということだろう、やりづらいったら。
「香津瑠璃です。本日の第一回目、春の宴①ということで、ちょうど今時分、まだ花も咲きそろわない早春に、どのような華やぎでお客様をおもてなしするか、ご紹介したいと思います」
心なしか早口になった。そもそも話す順番を間違えた。まずは広義のホームパーティの概念とは、茶席や年賀など、日本古来からのもてなしの延長と考えればよいのだ、と言うはずだった。
「季節は先取りで捉えるものですが、一月中はやはり遅い新年会となりますから、旧正月や女正月をお祝いするつもりでよろしいかと。ただ、もう二月に入りましたら、三月三日までは雛祭りということで喜ばれるかと思います」
何も慌てることはないのだった。ここにいるのは、皆、パーティ・アレンジメントやテーブル・セッティングを本気で学びたくて来た者ばかりだ。気楽に考えろ、などと言う必要はなかった。有名な先生が不特定多数を啓蒙する、テレビ講座とは違うのだから。
さっき思わず、ぎょっとした顔をしてしまったが、ボンの方をなるべく見ないで一気に説明を終えた。
「では、ご自分で手を動かして、セッティングしてください。こちらが蕨や蕗をあしらった祝膳の箸置き。そちらの方でクッキーとプチケーキを雛菓子ふうに盛りつけてごらんになって」
受講生たちは大テーブルに近づき、花材と食材、器を取った。五つのテーブルに分かれ、それぞれ蕗と蕨を組み合わせたり、菱形の皿にクッキーを積んだりしている。
「せんせ、せんせーぃ」
右側のテーブルから、ボンが手を振って呼んでいる。瑠璃はしかめ面をしてボン子を睨みつけると、はあい、と優しげな声を上げて寄って行った。
「これで、いいですかぁ」
「あらあ。すごくお上手」
瑠璃はボンを睨んだまま言った。が、それは本当だった。
蕗と蕨をきちんと組むのでなく、なかば放り出したような野趣に、ぴたりと箸がおさまっている。
「ね、今日はいないの?」と、瑠璃の耳元でボンが囁く。
何のことだろう。聞こえないふりをして、洋菓子の盛りつけをチェックした。受講生たちは瑠璃の一挙手一投足を注視している。
盛りつけの方は、さらによかった。一見、雛祭りの菓子というコンセプトをまったく無視している。他の受講生のように菱餅を象ったり、開いた花びらの形に揃えたりしていない。ただ、大きな丸皿にクッキーとプチケーキを重ねて盛り上げている。と、プチケーキの中で赤いジャムのついたものだけ選って、一番上に置いている。抹茶の入った緑がかったクッキーも何気なさそうに周りに散らされていて、ふとした錯覚で花の咲く植え込みに見える皿だった。
瑠璃はそれ以上、誉めることはせず、ボンに向かって頷いた。
最後の三十分は毎回、テーブルに置くフラワー・アレンジメントの実習で、桃と菜の花のほかスイートピー、ミモザ、チューリップ、人工物も含めた現代的な花材から自由に拵えさせる。
年輩の受講生の一人は、桃とほのかに開いた菜の花の蕾、白いスイートピーを主体・副体・作用体と三角形に構成し、なかなかの生け花の腕前とみた。素人はつい、さまざまな花材に目移りして、豪勢なブーケになってしまう。赤いチューリップにガラス棒と針金を組み合わせた現代アートにしているのは、そろそろ定年が近いか、もしくは過ぎたばかりと思しき男性だった。
「素敵ですね」と、瑠璃は白髪混じりの彼に声をかけた。「とても斬新だわ。何か、こういった関係のお仕事を?」
いやいや、と男性は掌を振った。「サラリーマンで、通販の会社に勤めてますが。そろそろ趣味でも見つけておけば、と女房に言われましてね。濡れ落ち葉ってんですか、自分が拘束されちゃかなわないんでしょうな」
ならばアウトドア系の講座の方がいいのでは、とも思えたが、「部下やなんかを呼んで、もてなしたいと思って。会社を辞めると若い人との接触がなくなってしまいからね」と、本当に怯えたような表情を浮かべた。瑠璃は男性受講生のそばを離れると、ボンのいる教室の右側に近づいた。
(第05回 第03章 前編 了)
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