千年もの間、人々の心を動かし、読者を楽しませてきた世界最古の長編小説、『源氏物語』。好奇心からこの本を手に取った人は決して少なくないだろう。しかし最初から最後まで読んだ人は何人くらいいるのだろうか。なんと五十四帖の長編小説なのだ。長い小説を三冊分くらい読むことになる。しかも古文! 谷崎潤一郎や与謝野晶子によるすぐれた現代語訳もあるが、それでもそう簡単ではない。読んだとしても、千年前の日本文化の中から生まれた物語である。現代人にはピンとこない事柄がけっこうある。登場人物の話し方や行動、はっきりとは言葉で表現されていない裏の意味(思い)、平安時代にコミュニケーションツールとして使われていた歌の特性など、解説なしでは分からないことがいっぱいある。誠実に、ちゃんと理解しようとすればするほど、敬遠するのが礼儀にすら思えてくる。
現在では『源氏物語』の映画版や漫画版があり、それを参照すれば、どんな物語なのかをある程度は知ることができる。ただ原作をちょっと読んだだけでも、映画化や漫画化によってかなりの情報損失が生じているのがわかる。原作を読むに越したことはない。しかし、である・・・。
『源氏物語』を未知の海に例えると、海を安全に航行し、無事に港にたどり着くための「コンパス」のようなものが必要だ。小原眞紀子氏の『文学とセクシュアリティ―現代に読む「源氏物語」』はまさにそのようなコンパスだ。見失ってはいけない方角――作者・紫式部の意図――をしっかり踏まえながら、『源氏物語』の内容を現代の読者の興味と経験に結び付けて、この長編小説を読み解くための鍵を与えてくれる。小原氏は『源氏物語』は小説であり、現代小説と同じように読むべきだという原理論的スタンスを取っている。
『文学とセクシュアリティ』では『源氏物語』各帖の内容説明のあとに、現代人にとって難解なポイントが解説されている。登場人物の複雑な人間関係はもちろん、読解を助ける図も多用されている。文字通り未知の領域を探検するための、視覚的「地図」が用意されているのである。
さらに現代の読者にはなじみ深い小説や映画も『源氏物語』各巻の関連で言及されている。例えば『桐壺』の巻では、恋愛に付きものの支配関係を説明するために谷崎潤一郎の『痴人の愛』が援用されている。『痴人の愛』に見られる支配関係の逆転は、言われてみれば確かに『源氏物語』の男女関係そのものだ。『須磨』の帖では「海」と「音楽」の親和性が言及されている。一九八四年刊のマルグリット・デュラス著『愛人/ラ・マン』が取り上げられ、この自伝小説を手がかりに『須磨』の根底にある思想が読み解かれている。『明石』の帖では映画『タイタニック』やシェイクスピアの『テンペスト』の思想と構造が読解のために使われている。
『源氏物語』には現代小説と同様の、いや現代小説の骨格となるような構造がある。だから『失われた時を求めて』や『ユリシーズ』などの、近現代ポストモダン文学作品と比較して論じることができる。現代と同じ小説として『源氏物語』を読み解くと、この物語が私たちの現代にどれほど深く関係しているのかが鮮やかに見えてくる。
『源氏物語』の魅力を正確に捉えるには、この物語が単に古いゆえに珍重され、受け継がれてきた古典文学作品ではないということを今一度確認しなければならない。『源氏物語』は平安時代の王朝文化を代表する作品だから、武士階級が権力を持った鎌倉・室町・江戸時代には、女子供が好む恋愛モノと単純に片付けられていた面がある。しかし武家時代にもその本質は脈々と受け継がれていた。武家社会が生んだ重要な文化である能の作品の中で、『源氏物語』は重要な位置を占める。
『葵上』は最も古い能の一つだが、六〇〇年もの間、観客を魅了し続けてきた大人気作品である。言うまでもなく『源氏物語』『葵』を典拠としている。能『葵上』では光源氏の愛人だった六条御息所が激しい嫉妬ゆえに生霊となり、仏法の力でその妄執がなだめられるという設定だ。報われない愛の苦しみや嫉妬は分かりやすく、嫉妬で鬼女となった主人公の行動がスリルとアクションに満ちていて面白いため、海外で能の公演を行うときの一番人気作品になっている。日本文化も日本語も能も『源氏物語』も知らない観客でも、この能なら楽しめるのだ。母国ルーマニアで大学生だった時に、私が初めて観た能も『葵上』だった。
『葵上』ばかりではない。観客に感動を与えてきた『夕顔』、『野々宮』、『玉鬘』、『浮舟』などの能作品は『源氏物語』を題材にしている。その魅力が衰えないのは、どの時代の人間にも通じる普遍的なテーマがあるからだ。もちろんその普遍性はオリジナルの『源氏物語』が有しているものである。
小原氏が『文学とセクシュアリティ』が明らかにしているのは、『源氏物語』が王朝文化を代表する小説である前に、「女性性」をめぐる小説であるということである。抽象的な女性が描かれているだけなら、とっくに古びて人々の記憶から消え去っていたことだろう。しかし『源氏物語』では女性百科とでも言うべき具体的で複雑な女性の心情が描かれているため、読者はだれしも自分の経験を物語の登場人物の行動や考え方に重ね合わせることができる。もちろんそれは生物学的な女性に限定されるわけではない。
小原氏は『源氏物語』を動かしているのは性差のエネルギーであると主張している。そこからタイトルの「セクシュアリティ」の意味も明らかになる。紫式部は光源氏という登場人物を通して様々な女性像を登場させるので、読者は「女性性」について考えさせられる。文学作品の分析でしばしば使われる「フェミニズム論」から『源氏物語』を読めば、魅力と権力を持った男性主人公が大勢の女性たちをもてあそんだという解釈になるが、「性差」の観点から見れば両者の立場は逆転する。
物語のプロットを社会的な枠に当てはめてしまうと、「強者=源氏」が「弱者=女たち」を支配するという構図しか浮かんでこない。しかし小説構造的には「媒介変数」である源氏とは、百花繚乱の姫たちの魅力の本質を読者に伝えるための「下僕」です。『源氏物語』は文学構造的に極めて「フェミニズム的」なものなのです。
(『文学とセクシュアリティ』「第12回 『蓬生』と『関屋』媒介変数としての光源氏」)
「女性性」と「男性性」が『源氏物語』を読み解くための大事なヒントになると指摘したうえで、小原氏は小説の読み方に関する約束事をリマインドしてくれる。どの小説でも同じだが、「登場人物には人権がない」ことを常に意識しなければならない。『源氏物語』も生身の人間が行ったことの記録ではなく、あくまで小説なのだ。だから登場人物の行動や振る舞いを咎めるのは無意味である。
『源氏物語』が紫式部の創作物である以上、突き詰めればすべては彼女の思想表現上の都合からきている。作者として無意味な女性を登場させてはいないので、源氏のすべての情人は作者によって、つまりは源氏によって、折々にその存在意義を思い出されなくてはならない。ただ思い出されるだけではありません。想い人から色よい返事が来ないという手持ちぶさたの期間、物語の進行が停滞しているような折りですね、源氏はしばしば今までの女性たちを思い、そこで作者による女性論が展開されます。
(『文学とセクシュアリティ』「第5回 『若紫』と『末摘花』異形の女たち」)
「面白い小説とは何か?」についても考えさせられる。四〇〇文字詰め二四〇〇枚(小原氏による計算)の長さの小説を書いて、どうやって読者を飽きさせないのかについても『文学とセクシュアリティ』は貴重なヒントを与えてくれる。鍵は小説の構造にある。
つまり短編作家の関心は、登場人物の人生にあるのではなく、その瞬間にある。文学が表現するものは究極的には「永遠」と言っても間違いでないでしょうが、長編が永遠に向かう人間の生の総体を描くのに対し、短編はその瞬間に永遠を見ようとする。その意識が短編と長編を分けるので、「超長ーい短篇小説」というのもありですね。
(『文学とセクシュアリティ』「第17回 『初音』あるいはテキストを生きること」)
文学論的なスタンスから、長編小説と短編小説の特徴が簡潔にまとめられている。こういった創作者にとって貴重なガイドラインがたくさん含まれているのも『文学とセクシュアリティ』の特徴だ。短編と長編小説では書き方が違うのである。『文学とセクシュアリティ』は小説創作ノウハウをまとめた文芸評論としても読めるので、創作者は短編にすべき作品を長編で書いてしまったり、長編を短編で構想してしまったりという失敗を避けられるようになるだろう。
『文学とセクシュアリティ』で「コンパス」と「地図」を手に入れたら、オリジナルの『源氏物語』を読むのは確実に容易になる。『文学とセクシュアリティ』で言及された本も気になる。映画なども観たくなる。紫式部による物語の解読をきっかけに、人類が生んだ作品にどんどん触れたくなる。『文学とセクシュアリティ』は新しい扉をたくさん開いてくれる文芸評論であり、常に手元に置いておきたい一冊だ。
ラモーナ・ツァラヌ
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■