一条さやかは姉で刑事のあやかのたってのお願いで、渋谷のラブホテル街のど真ん中にある種山教授の家を訪ねる。そこはラブホテル風の建物だが奇妙な博物館で、種山教授は奇妙に高い知性の持ち主で、さやかは姉が担当する奇妙な事件に巻き込まれ・・・。
純文学からホラー小説、文明批評も手がけるマルチジャンル作家による、かる~くて重いラノベ小説!
by 遠藤徹
(七)象の胸(前編)
「あら、この味」
入れてもらったコーヒーを一口飲んでわたしは叫んでいた。
「おや、すごいね、ちゃんと覚えてたんだ、このコーヒーの味」
と少し見直したという感じで微笑んだ。
その日、わたしが腰かけるように促されたのは、特別の椅子であった。
「あれえ、先生、これ買ったんですか」
わたしが尋ねると、「いや、借りたんだ」と種山は答えた。
「へえっ、誰に?」
「未知子君にだよ。彼女たちがある組織から押収した品物のひとつだそうだ」
なるほど、彼女ならこういうものを持っていてもおかしくはない。わたしは、そう思って椅子の足をそっと撫でた。ごわごわした感触があった。気持ちはぞわぞわした。
さて、ここはどこでしょう?
そう、その通り。またしてもわたしは渋谷は円山町のラブホ、ならぬ種山の驚異博物館を訪れていたのである。
帰国して三日目のことだった。
朝、姉から聞いたのだ。
「とうとう突き止めたわよっ。正体をっ」
「え、なんの」
まだ、寝起きのぼさぼさ頭だったわたしに、姉は歯切れよく「っ」音を連発した。
「だから、あれよっ、ハル君、だっけっ?」
「えっ」
さっすが警察! と叫んだわたしだったのだが、
「違うのよっ、見つけてくれたのは種山先生なのよっ」
などと意外なお返事が返ってきた。
「うそっ」
「うそなんかつかないわよっ。弟さんの会社が所有しているシンクタンクで調査してもらった結果なんですってっ」
だから、なんだというのだろう。どうして、こんなもじゃな寝起きのわたしを引き止めるのか、わが無粋な姉ときたら。
「うんっ、だからお願いっ」
やな予感。だめよ、お姉ちゃん今日は。今日こそはフランス語に出席せねばならない。もうこれ以上休むとまじ単位がやばいことになってしまうのだ。
「だってっ、種山先生がっ、どうしてもっ、さやか君を連れて会いに行くっ、てきかないんだもんっ」
「え、いま何て言った、お姉ちゃん」
「どうしてもさやか君をよこしてほしいっていってるのよっ。よかったわねっ、お眼鏡にかなってっ」
でも、またしてもだった。そう、今日もまた入り口には黒塗りのリムジンがいたのである。これでは、ラブホでも博物館でもなくまるでヤクザの本部である。とはいえ、それはリムジンであって、リムジィィィィィンではなかった。ごく普通の黒塗りの車なのであって、逆にそれがそこはかとない気品を醸し出していた。
屈強なシュワルツェネガーばりのボディガードの姿などは見当たらず、運転席で静かに待っている上品な感じの運転手と、入り口の前で待ち受けている執事チックな初老の男性がいるだけ。なんていうのか、和やかな雰囲気だったのだ。
「おはようございます」
わたしが扉の方へ近づくと、その執事チックなおじさまが丁寧にあいさつしてくれた。
「あ、おはようございます」
返事を返すわたしに、おじさまはにっこりとほほ笑んだ。
で、いつものようにインターホンは壊れたままだったので、扉をノックしようとしたときだった。またしても扉が内側から唐突に開いたのであった。
わーお。である。ここにきてサイコーの驚異であった。いえーい、まさに眼福!
だって、思わず目を見張ってしまうものだったんだもん。あまりにも場違いな印象を与える人物だった。
身長は百八十五センチくらい。広い肩幅、長い脚、ぴったんこきまりまくった高級感あふれるスーツ。きちんと撫でつけられた頭。さわやかな風貌。気品と知性。そしてその全身からあふれるのは、それと違和することのないスポーティなしなやかさ。
「くわっこいいっ」
ミーハーな雪枝なら衝動的にそう口走ってしまっているところであろう。明応医学部の彼はもはや進化を忘れた猿にしか見えなくなるだろう。わたしは、すがりつく猿をげ捨てて目の前の好男子に飛びかかっていく雪枝を思い浮かべた。
でも、冷静沈着なこのわたしは、思わず息をのみはしたものの、ただ目を見張るだけにとどめておいてあげた。
「これはお嬢さん。失礼しました。どうぞ」
彼ったら、紳士的な身のこなしで、扉を開けてわたしを中に入れてくれた。そして、
「おい、兄さんお客さんだよ」
と中に向かって声をかけた。
に、兄さん?
あきれた。とすれば、これがそのなんちゃらゆう巨大なる財閥の総帥にして、元プロサッカー選手であったという、できのいい弟君ということなのか。
「ほら、あの通りの変人だから、あなたもご苦労なさっていることでしょうね。どうか兄をよろしくお願いしますよ」
そういって微笑む笑顔のなんとさわやかなこと。きっと息だってブレスケアな感じで透き通っているに違いない。
「は、はあ」
ああだめっ! 我ながら、なによこの生返事。もうちょっと好印象なリアクションできないのか、わたしのやつ。
「でも、有能だからね兄は」
「ええっ」
それは、意外極まりないお言葉でございますわ。
「ぼくもこんな風に、時々社外相談役として兄のアドバイスを聞きに来てるんですよ。まあ、彼こそが我が財閥の進むべき正しい方向を決して見誤らないただ一人の人間だといってもいい。その意味で、影の経営者といっても過言じゃないんですよ、兄は」
ほええっ。まさにほえ面をかくわたしであった。信じられないお言葉であった。
「そ、そうなんですかあ」
苦しい。呼吸が苦しいわ。このさわやかオーラが、わたしの周囲から酸素を奪い取ってるみたい。
とそこに、助け舟のようなもじゃの声が届いた。
「やっと、来ましたね。まあ、コーヒーでも飲んで出発しましょうよ」
一気に緊張が緩んだ。
「じゃあ、またね兄さん。それから、そう、さやかさんでしたね、ふつつかな兄ですがよろしくお願いします」
そんな風に丁重に頭を下げて、弟君はリムジンへと歩み去った。ついつい、うっとーりと見送ってしまったわたし。うーん、これまた不覚。
「弟さんも、飲まれたんですかこれ」
もう一度コーヒーの臭いをかぐ。うん、独特だ。かなり癖のある匂いと味。これこそ一流の風格というやつだろう。
「夢虎ですか」
ああ、弟さん夢虎っていうお名前なんだ。名前までかっこいい。まあ、龍宏だってわるかないけど、夢虎にはかなわないわよねえ、あらゆる意味において。ああ、夢虎様、コーヒーご一緒できるなんて光栄です。ってもう本人は帰っちゃったけどね。
「ああ、そうですよ。うまいって言ってくれました。製法を話したら笑ってましたけど」
「製法? ってどういうことです」
種山の口調に、不吉な予感がふいに沸き起こった。それは、好調なピッチングを続けていた先発投手が、不意に肩にいやな痛みを感じる瞬間に似ていた。のではないだろうか。
「普通のコーヒーじゃないんですか、これ」
「そりゃそうですよ。だって、おいしいでしょ。尋常じゃないくらい」
「それはそうですけど」
「これはコピ・ルアクっていってね、インドネシアを中心に、マレーシアやフィリピンなどのアジア圏でしか手に入らない貴重なコーヒーなんですよ。世界で一番高いコーヒー豆だともいわれてるんです」
わーお、やっぱり一流の風格である。でも、高いコーヒーといえば、あれじゃないの?
「ブルマンよりですか」
苦笑する種山。
「あたりまえです。希少性においては、ブルマンなんかよりはるかに勝ってますからね」
「希少性?」
「そうですよ」
とコーヒーを一口すすり、
「これはね、ジャコウネコの手助けがなければ手に入らないコーヒーなんですよ」
「ジャコウネコですか。ジャコウネコを飼い慣らして摘ませるんですか?」
わたしは、思い浮かべた。せっせと、コーヒーの木に登って実を収穫するかわいいジャコウネコたちの姿を。
「当たらずといえども遠からずってとこですね」
「どの辺がですか」
「確かにジャコウネコが収穫してくれるって点は当たってますよ。でもね」
ぞわりといやな予感。次の一投を投げ終えた瞬間、肩にぎりっと走る痛み、を感じてしまった先発投手の気持ちそのもの。
「コーヒー園のコーヒーの実はね、野生のジャコウネコたちの好物なんです。だから、排除しても排除しても侵入してくる」
「はい」
「で、結局幾分かはジャコウネコたちに食べられてしまうわけですけどね」
「けど?」
「果肉はジャコウネコの栄養分になりますが、種は消化されないというわけですよ」
ああ、まさかとは思ったけど、やっぱりそっちへ行くのか?
「現地の農民たちはだから、ジャコウネコの糞を探して回るわけです。そして、それを解きほぐして丁寧に種を集める。よく洗浄し、天日乾燥した後に焙煎するというわけですよ」
投手交代である。もはや投げられなくなった、肩の痛みは本物だったのだあっ、ガチャン。これは、降板する投手がミットを地面に投げつけた音。ではなく、わたしがやや強めにカップを皿に下ろした音である。割らなかっただけ偉い。そう思うでしょ、誰だって。この場合。
わたしはわなわなする声で宣告した。
「ご馳走様でした。では、出発するとしましょうか」
目的の場所は八王子駅から少し東に歩いたところだそうだ。けっこう奥地だわ。
新宿で山手線から中央線に乗り換えた。金曜の午前十時過ぎの電車は割と空いていた。そりゃそうだ。通勤時間はとっくに終わっているのだから。そしてわたしのフランス語の授業ももうそろそろ終わるころである。さらば、単位よ! よろしくね再履修クラス。心のなかでひそかに来年の再起を誓うわたしであった。
隣に座っている種山を見ると、偶然目が会った。のでわたしが会話の口火を切ることになった。
「先生、こうは考えられないですか」
わたしは、ひそかに温めていた推理を披露することにした。種山が驚愕する顔が思い浮かんでひとりほくそえみそうになるのをこらえた。
「こう、とは?」
「つまり、あの日象を暴走させたのは実はカズ、つまり和也さんではなかったかということです。だって、和也さんもウライさんを好きだったわけでしょ。でも、自分にはまったく振り向いてくれなかった。ひたすらハルさんに入れあげるウライさんを見るうちに、和也さんのなかではこう愛しさ余って憎さ百倍的な感じになって」
「おやおや、推理ですか?」
種山は興味を示してくれた。ようやく気づいたようだね。そう、ここにいるのは名探偵一条さやかなのだよ、以後お見知りおきを。
「そうです。でもまあ、わたしの読みでは、殺すまでの気持ちはなかったんじゃないかって思うんですよ。たぶん、暴れさせてウライさんをおびえさせてやろうくらいのつもりだったんだと思います。ほら、長老の話にもあった通り、なにしろ和也さんは象の扱いを学んでいたわけですからね。どうすれば象を狂乱させられるかを知っていたんじゃないでしょうかね」
〝へえっ〟という顔である。わたしの推理に興味を持っている証拠であった。
「どうやったんです」
「それはわかりませんよ。だって、わたしは象使いじゃないから。たぶん、変なものを食べさせたとかじゃないですか」
「うーん、でもそれだと、いつ暴れるか予測ができないんじゃ」
「ああもう、うるさいなあ先生は。大事なのはそこじゃないんですから。とにかく聞いてくださいよ、最後まで」
「わかりました」
三鷹あ、三鷹あああという、放送が一瞬耳に入った。車掌さん、なんか末尾の母音が妙に響くんですけど。
「でも、象は予想外に激しく反応してしまって、和也さんも慌てて止めようとしたけどだめだった。半分以上は事故だったんじゃないかなってわたしは推理するわけですよ。
で、やがてなのか、即座になのかはわかりませんけど、ハルさんは和也さんが象を操ったのだということに気が付いた。そして、怒りを胸に村を去った。ほら、去り際に『ぼくが来なければこんなことには』みたいなこと言ってたわけでしょ?
そして、最近もまたウライさんの墓参りに来てたってことは、ハルさんだってウライさんのことを悪くは思ってなかったってことじゃないですか。だから」
「だから、なんです」
「だから、ハルさんは復讐したんじゃないでしょうか。象に踏みつけさせるっていうあの殺し方はどう考えてもそうでしょ」
「うん、そういえば、そのトリックについては解決済みだったね」
「ああ、そうですね、あの謎は解けました」
そうなのだ。象の足跡に関しては、すでに土産屋で答えが出ていたのだった。タイからの帰り、わたしたちはずいぶん並んだ挙句に、ようやくのことでエコノミーチケットを手にいれた。ほんとやんなっちゃうよね、ファーストクラスとかロイヤルエグゼクティブとかせめてビジネスくらい取って欲しかったわ。なんて、わたしも贅沢になったものだわ。でもしょうがないのよ、だって行きが貸切ジェットだったんだもの。
(第19回 了)
* 『ムネモシュネの地図』は毎月13日に更新されます。
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