エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
ごろつき顔がいったん消えて、また現れて、スズのスプーンとコップを差し出し、言った。
『コップはあるのか』――『いえ』と俺。
『ほれ。もってけ。とっとと』そう言って顎で示した先には監督官、背後の階段にずっと立っているんだ。
料理人の言い方から察して抛ってもらったのを捕らなきゃならないんだと思っていたものだから、蓋を開けてみればあっけなくて俺は少しほっとした。食堂に戻るとみんなの大声と手を振る合図に迎えられた、声のするほうを見るとぎゃあぎゃあ騒ぎながらもばかでかい木の食卓の左右に伸びる木のベンチにひとり残らず着席している。片側のベンチにできた猫の額ほどの隙間が、オーギュストさんにブラガード伯爵、ハリィと、ほかにも何人かの囚人仲間の手を借りてやっとBが取っておいてくれた俺の席だった。俺はさっとベンチをまたいでその隙間にケツをねじ込んだ、手にはスプーンとコップ、これでもうなんでも来いだ。
その騒ぎときたら恐怖というほかはない。微に入り細に入り豪放磊落。そこかしこ、まるで音の闇の中に、しっかり真心こめた意味不明な不条理極まる冒涜の鬼火が重苦しく明滅していた。その現象は視覚的にもけっして見劣りしない。席についても貧乏ゆすりが止められないのかじっとしていられない屍みたいな連中を見ろ、ふんぞり返っているやつ、ちびっこいスプーンでがんがん卓を叩くやつ、しゃがれ声で無神経に喚くやつ。監督官殿のことなんかすっかり忘れ去っている。喚き声がわっと盛り上がりこらえきれないほどやかましくなった。例のごろつき顔の男と、つづいて料理人が、よろよろとしんどそうに食堂に入ってきた、それぞれ湯気が立ち昇る巨大なボウルを運んでいる。少なくとも六人が一斉に立ち上がり、身振り手振りをまじえて哀願しだした。『こっちだ』――『ちがう、こっちだ』――『ここにおけ』――
運び手は慎重にどさっと重荷を降ろした、ひとつは食卓の入り口側の端、もうひとつは真ん中あたり。ボウルの向かいの席の男が立ち上がった。皆が手元の空き皿を隣へ隣へと押し付けていき、皿がボウルのもとに集まると、口汚い異議申し立てや非難轟々のうちに盛り付けられる――『おい少ないぞ』――『欲張んなよ、この』――『芋をもうちょっと』――『ふざけんな、たりねえよ』――『豚野郎、あいつなにが足りねえって?』――「だまってろ」――『くそったれ』――そうして一皿ずつ回して配膳する。自分の分が回ってきた者から、皿に突っ伏すように貪りつく。
ようやく、俺の前にも、まだ少し湯気の立つ小便色の煮汁が丸く溜まった皿が鎮座した、中にはざく切りにした生煮えのじゃがいもが半分頭を出してだらしなく浸かっている。隣近所の行儀に倣い、俺も食事に取りかかった。生ぬるいしちっとも味がしない。パンはどうだ。見た目は青みがかっていた、となれば味もカビ臭いし、ほんのり酸っぱい。「こまかくちぎってスープに入れてみろよ」とBが言う、俺がどんな反応をするか目の端で伺っていたんだ。「パンもスープもマシになるぜ」ものは試しだとやってみた。これが大成功だった。少なくとも栄養がついたような気はするもんだ。もぐもぐやりながら、俺はこっそりパンの匂いを嗅いでみた。しまっておいた凧とかそういうおもちゃがやわらかな闇の中でだんだんと忘れ去られていく古い屋根裏部屋みたいな匂いがした。
Bと俺がともに食べ終わろうかというという時に真後ろからやや左後方にかけての方から鍵をがちゃがちゃといじくる音が聞こえた。振り向くと食堂の一角に小さな扉があり、不可解にがたがた揺れている。ついに開け放されると、その先にはちょっとした売店のようなカウンターと日用品やタバコのようなものでいっぱいのこじんまりとした倉庫があり、カウンターの奥、倉庫の中に、いかにも働き者な大女が立っていた。「ここの酒保だよ」とBが言った。俺たちはスプーンを握りしめたまま立ち上がり、なかには食べかけのパンを突き刺しているのもいるが、おかみさんのもとへ詰め寄った。俺は、もちろん、金なんて持っていなかったけど、ご心配なくと言うBによれば今日のうちに事務官と面接することになるだろうからそのときクレイユからここまで俺を連行した憲兵たちの手から監督官預かりとして渡った財布の現金を引き出す手はずをつけられるって話だ、ゆくゆくはパリのノートン=ハージェス銀行の口座からも引き出せるそうだが、さしあたってのチョコレートとタバコの払いはBの小銭からってことで。大きなおかみさんは無口だが感じのいい人で、無邪気といってもいい具合で、それも後押しになって俺はもうすっかりBさまの提案に乗っからせてくださいって調子だった。じつはこのとき胃袋のあたりがどうもおかしいと感じていたんだが、それもつい今しがたいただいた昼食の世にまたとない一品のせいに決まっているんだが、俺はチョコレートのように濃密な考えにとらわれて有頂天になっていた。そんなわけで俺たちは(というよりBが)黄箱のタバコ一箱とメニエル印ではないどこかのチョコレート菓子をひとつ買った。それから一杯ずつしびれるほどからい赤ワインを注文し、浮かれ調子でもったいつけてここにあらせられる我らが女主人と我々自身に乾杯とあまったお金もすっかり呑んでしまった。
売店のおかみさんのお得意様になろうなんていうのは俺たちぐらいのものだったので、周りから浮いているようなばつの悪さは気がかりだった。しかし、ハリィとポンポンと風呂屋のジョンが駆け寄ってきてタバコをくれとせがむので俺の心配も追い散らされてしまった。おまけにワインは最高だった。
「集合。並べ」と牛頭がしゃがれ声をはり上げたときには俺たちは五人とも出来上がっていた、戸口の前にはパンやスプーンを手に手に並ぶ囚人仲間の列、なかよくあくびしげっぷし屁をこき合うそのなかに俺たちも混ざった。
『全員上がれ』看守が吼えた。
俺たちはのそのそと行進して短い通路を抜け、階段の脇を通り過ぎ(このときはナポレオン気取りの重石も取り除かれていた)、廊下を進み、ねじくれてぎいぎい軋むじめじめした階段を上がり、そうして(付き添い役が鎖と鍵をガチャガチャやっている不可避の小休止を挟んで)大部屋になだれこんだ。
このときだいたい十時半だった。
十時半から夕食(四時の食事とも言う)を済ませるまでの間に、俺が味わったり、やってみたり、嗅いだり、見たり、聞いたり、言わずもがな触ってみたりしたことについては正直書こうにも書けない。それがあの一杯のワイン(足す(+)乃至掛ける(×)昨日の長旅が我が身に残していったおそるべき疲労困憊)のせいで一時的に忘却の川へつづく門をくぐってしまったからなのか、あるいは俺の置かれた事実は小説よりも奇なりな状況に付随する真の興奮状態がいわゆる記憶力のある必要不可欠な部分に対して負荷をかけすぎたのか――俺にはまったく判断がつかない。まず確実に言えることは午後の散歩には出たということ。ということはその後まちがいなく大部屋まで上がってきて夕飯に備えたはずだ。それから(然るべき適切な間を置いて)尋常ならざる食事の魔の手にかかったことは疑うべくもない……そうだ、俺を突然に明瞭なる認識の世界に連れ戻したあの号令ははっきりと覚えている……神々の王ユピテルにかけて言うが俺はワインの杯を呑み干したばかりだった……誰かにおごってもらったはず……一緒に立ち上がって、スプーンを握りしめていて……そこで聞いた――
『散歩だ』……俺たちは列になって出発した、スプーンやパンを硬く握りしめたまま、食堂の戸口を抜けた。右に折れたところで出た、炊事場の向かいの戸口を使って、建物の中から屋外へと。二三歩進んで中庭の有刺鉄線のフェンスにあるせまい出入り口をくぐり抜けて。
(第24回 了)
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