発行 二〇一九年二月二十四日
定価 一七〇〇円(税抜)
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句集『アラベスク』を九堂夜想さんから贈っていただいた。九堂さんが編集人を務めておられる同人句誌「LOTUS」にはご縁があり、二回だけだがLOTUSの会合に参加させていただいた。三十分ほど九堂さんとお話したこともある。作家は作品がすべてだと思うが、一瞬だろうと生身の作家と触れ合った場合と、文字しか知らない場合ではやはり読み方が違ってくる。九堂さんは意気軒昂な方だった。我が強いとも、しっかりした考えを持っているとも言える。狷介な雰囲気を漂わせているが、どうしようもなく孤立しているような姿勢には好感を持った。
ただ『アラベスク』には少し驚いた。封筒を開けた時に、九堂さんがなぜ手帳を送ってくれたのだろうと思った。ジャケットの胸ポケットに入るくらいのサイズだったのだ。たいていの歌集、句集、詩集は自費出版である。『アラベスク』がそうなのかはわからないが、詩歌集は小説より作家の意図を反映した本を作りやすい。だから造本も読まれることになる。どんな装幀なのかで作家の意図がわかるのだ。黒い紙に金文字で印刷されたカバーは九堂さんらしい。しかし判型の小ささは意外だった。もっと堂々とした、言ってみれば不遜な顔つきをした句集をお出しになるだろうと予感していたのである。
耳に影して喪の蝶は水摘みへ
雷ひそと鳳凰木を巻き絞める
巻貝は幽きエコーを星の航
烙印に日は吠えんとす白十字
オートバイ修道女また満潮へ
こういった句に『アラベスク』の特徴がある。俳句は「五七五に季語」のある日本の伝統文学である。「そうではない」と言うなら句作と同時に説得力のある論を書く必要がある。しかし芭蕉から数えても四百年弱の歴史で、今に至るまで万人を納得させた者はいない。これからも恐らく現れないだろう。では引用のような作品は「俳句ではない」のだろうか。もちろん俳句である。作家によって「これは俳句である」と〝宣言〟されたことで俳句として成立している。ではその宣言はどのような質のものだろうか。
大多数の俳人は有季定型を守って句を書く。俳句は「黄金を打のべたらん如く有るべし」という芭蕉の教えに従って、スラリと読みやすい句を心がける。平明なので作家の創意工夫の跡は辿りにくいが、どの俳人もうんうん唸って言葉を入れ替え修辞に工夫を凝らしている。しかし『アラベスク』の句はあからさまに難解だ。
ただ人間が意図して書いた文字は必ず意味を伝達する。意味で読み解けない場合は、イメージや音の連想を辿ればある程度まで読み解ける。「耳に影して喪の蝶は水摘みへ」を例にすると、「耳」という複雑な形をした人間の器官が「影」や「蝶」といイメージを呼び起こし、それが「喪」に展開している。蝶は魂と相性がいい。そこに「死に水を取る」という臨終の儀式を重ね合わせ、「喪の蝶は水摘みへ」となっているとも言える。いずれにせよ日常的意味文脈はないが、イメージの飛躍により意味の止揚を狙った句である。
「巻貝は幽きエコーを星の航」も同様で、巻貝に風が吹き込んでも音は大きく鳴らないから「幽きエコー」までは理解しやすい。ただ「星の航」に飛躍がある。無音で天空を移動する「星の航」は「幽きエコー」を発していると解釈することはできる。しかし作家の意図は意味表現にはない。何事かの〝非在〟を表現しようとしている。
どの句も相当に時間をかけ工夫を凝らして詠まれた句だが、作家の意志は絶対に普通の俳句は書かないこと、日常的な意味文脈では読み解けない句を詠むことに向けられている。その意味で前衛俳句である。俳句の表現の幅を拡げようとする試みだということだ。またその方法はかつての現代詩に近い。異質な言葉を組み合わせることで読者に衝撃を与え、かつ作品自体は明確な意味を伝達しない――つまり言葉だけで自律=自立した作品を目指している。
従ってこの句集が提起している問題は、俳句文学にとって前衛は必要なのか、現代詩的方向に俳句文学の前衛はあるのかということにもなる。しかし俳人の九十九パーセントは俳句に前衛表現は必要ないと言うだろう。ましてや現代詩的方法に前衛があるとは認めないはずだ。その意味で九堂さんは間違いなく俳句界で孤立する。『アラベスク』のような句集を上梓した以上、この方向で活路を切り拓いてゆくしかないということである。
ルフランは紙の次元へすべりひゆ
みどりごは書き散らすかに地の始め
白地図へ蝶は顎を響らしゆく
墨界に蝶を釣らんと空し手は
忌の空につるめる蝶の紅万字
俳句に限らず新たな表現を模索する作家が、いわゆる書記行為に意識的になるのは当然である。一つの通過儀礼だとも言える。九堂さんも例外ではない。白と黒のイメージが現れているのがわかるだろう。白は白紙、未踏の表現領域である。黒は文字世界ということになる。比喩的に言えば書記行為は必ずこの白と黒の間を往還する。
「ルフラン」はリフレーンのことだが、作家は何を書いてもすでに書かれてしまっているのだという苦悩から抜け出せない。だから子どものように書き始める。「みどりごは書き散らすかに地の始め」である。蝶は未踏の空白の地図を飛ぼうと試み、文字で埋め尽くされた「墨界」に「蝶を釣らん」ともする。書記行為の絶望と希望が表現されているわけだが作家は傲慢で純真でもある。絶望しきることはない。「忌の空につるめる蝶の紅万字」と壮麗な表現世界を夢想したりもする。蝶は彷徨う作家の魂でもある。
ここまでは意欲的な作家の内面表現として理解しやすい。問題はその先にある。文字表現の新しさは形式と内容によって実現されるわけだが、それをどのように一定の様式として完成させ得るのかということである。もう一つの問題は俳句の根幹に関わる。俳句が俳句であるためにはその原点を踏まえている必要がある。俳句のアイデンティティを基盤にした表現のみが、俳句文学における新たな表現――そうなるともはや前衛と呼ぶ必要はない――となってゆく。
たれか聴く蝶の内なる無言歌を
黙禱の毛深さをこそ道おしえ
人絶えてより階の夢語り
水子らは水もてかたるうろの旅
月餐やながるる琴のみな無弦
精神と表現を無に至らせるのも、原理的な前衛作家には重要な作業である。無は何もないということではなく、猥雑で「毛深」いだろう。耳を澄ませば「夢語り」し始めるはずだ。「月餐やながるる琴のみな無弦」と無そのものを審美的に表現することもできる。
俳句を含む人間の表現は、すべて無から生まれてくる。無は虚無ではなく、まだ形を与えられていない強力なエネルギー総体なのだ。ただ俳句と呼ばれる世界認識では、無から有の表現方法は自ずから一定の方向性を持つ。
俳人は小説家や詩人と比べて自らの表現領域、つまり俳句を〝世界のすべて〟と捉えがちである。そのため日本文学の一部分に過ぎない俳句の、井の中の蛙になりがちだ。しかし俳句にしか興味がない、俳句が文字表現のすべてだと思い込んでいる作家でも、俳人であればその本質を確かに感受している。それが俳句的世界認識である。
情報化時代になって異ジャンルの知の組み合わせによる新たな発見・発明が盛んに行われるようになったが、文学の世界はその逆に保守化している。情報の氾濫は、むしろ各ジャンルの譲れない基盤を模索する方向に作家たちを導いている。各文学ジャンル固有のアイデンティティを確認しなければ、ジャンル横断的な知は生まれないということだ。人間の発生と同じくらい古い文学の世界では、情報の氾濫が、徒手空拳で楽天的な〝新しさ〟に疑義を生じさせている。
『アラベスク』は九堂さん独自の表現を含んでいるが、前衛俳句の現在を表した句集でもある。高柳重信の前衛俳句は「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」に代表される。それは新興俳句から始まった作家の自我意識表現を、俳句史上、初めて真正面から肯定した運動だった。そのため重信は多行俳句という独自の俳句形式を生み出した。重信系前衛俳人の多くがそれぞれに工夫を凝らした俳句形式を作り上げてもいる。しかし重信以降の前衛の試みは、もはや自我意識表現(独自形式を含む)にはない。
九堂さんらの世代の俳句前衛は、五七五に季語の俳句形式に揺さぶりをかけることをしない。季語は無視することも多いが可能な限り五七五を守り、かつ写生的平明表現を排除している。切れ字に似た助詞を使っても余韻を求めるような用法は少ない。一行棒書きの書法で、一句内で意味やイメージを完結させようとする。重信的自我意識表現では、もはや俳句の新しい表現は得られないと見切っているわけだ。
五七五や季語を必ずしも排除しない前衛俳句は、形式面で言えば実は俳句の大多数を占める有季定型俳句と相似である。しかしその印象は伝統俳句とは似ても似つかない。奇矯なイメージの取合せによって作家の強烈な自我意識を表現しているからだ。そのイメージの取り合わせ(組み合わせ)方法は俳人ごとに異なるので、かつてのように前衛俳句の一流派を形作ることはない。バラバラに孤立している。だが形式を守りながら内容的に前衛表現を模索すれば、作風はおしなべて現代詩的表現に傾くことになる。また従来的俳句表現を否定するという意志表示をしないわけだから、作家が前衛を自認しないという奇妙な現象も起こる。これは諸刃の刃だ。腹を決めた伝統派俳人からも前衛俳人からも奇異の目で見られる。
現世的俳壇処世術としても、文学的方法としても現代の前衛俳人は苦しい。重信のように「身をそらす虹の/絶巓/処刑台」と、晴れやかに伝統俳句に反旗を翻した方が楽だろう。ただ新たな表現を模索する現代の意欲的俳人たちが、俳句は自我意識表現ではないと認識しているのは重要である。「泳ぐかな」と作家の意志を表現しても、独自形式を編み出したとしても、俳句はビクリともしない。いわば俳句本体の内部に精神を沈降させて、新たな表現を見出すしかないわけだ。
父や過ぐ夜の鉱物の生乾き
前の世の忘れ咲きとも深山火事
葱かわくうしろの縄の闇上がり
玉すさびおちこち水や水やぐら
ゆめ助は蝶をひるげのきらら雲
俳句は形式なのか、それとも形式は俳句の外皮に過ぎないのかは、俳句文学を巡る最も重要な問いかけである。その俳句と俳句評論を読めば一目瞭然だが、高柳重信は俳人として飛びきり頭の切れる作家だった。重信ほど頭のいい作家は絶後である。その重信が俳句形式との闘いにはっきりと敗北した。それは俳句形式が不動のものであることを示唆している。しかしそれは俳句が形式で成立することを意味しない。俳句本体が俳句として無から顕現しようとするときに、自ずから五七五に季語形式を取ることが多いというだけのことである。重信の試みは徒労ではなかつたわけだ。作家が俳句本体に精神を一体化させれば、新たな俳句表現は得られる。
『アラベスク』で言えば、「葱かわくうしろの縄の闇上がり」など、現世とは明らかに異なるがパラレルワールドとして存在する、肉体的現実感を持つ作品に突破口がある。この方法は言うまでもなく安井浩司の方法に近い。そのためには形式ではなく俳句本体を生きる必要がある。俳句本体の世界は現世の影であり、現世の本質でもある。そこでの俳句的取り合わせ、つまり俳句的世界描写はなんら有季定型俳句と変わらない。そのため伝統派俳人のような多作が可能になる。
俳句に限らないが、多作は作家が表現したい内容と表現形式に折り合いがついた時に初めて可能になる。『アラベスク』を読む限り、九堂さんがその表現内容と形式に完全に折り合いを付けているとは言えないだろう。苦心の跡を読めば寡作になりそうだ。ただ『アラベスク』の表現は一貫している。従来的俳句形式に寄り添い意志的表現はなく、内容表現において独自性を探究している。このラインを外れる作品は一つもないと言えるほど徹底している。それが『アラベスク』を判型を含めたミニマム・アラベスクにしている理由でもある。
しかし完璧に近い整合性は別の整合性を可能性として包含している。つまりこの作家はまだ将来に余白を残している。次の句集で全く違う、例えば伝統的俳句を書くことも可能だと思う。その意味で『アラベスク』は作家による一種の「企画句集」である。巻頭の「春深く剖かるるさえアラベスク」はそういった意図だろう。最初から深いところで分裂を内包している。それもまた現代的前衛俳句の試行錯誤になる。
作家は最後のところ自在でなければならない。すべて書けるということである。雨が降ったも風が吹いたも飼っていた犬が死んだも恋人が逃げたも何らかの形で表現できる書き方を持たなければならない。『アラベスク』の方法では書けないことがあまりにも多い。アラベスクは幾何学模様であり無限増殖的デザインである。自らが生み出した作品に過剰に呪われることなく、大胆かつ小心に、無限増殖アラベスクとして表現の幅をさらに拡げていただきたい。
(2019//02/20)
鶴山裕司
■ 金魚屋の本 ■