ああ、そうさ。誰かにいいかけて、やめた、届けられることのなかった言葉たち。確かに存在したのに、言葉になる前に、心のすきまに、時間のすきまに、消えていったものたち。失われた人や、失われたものに対する、失われた感情、そしてとうとう、失われたということさえも忘れられてしまったものたちさ。
(『君を待っている』p.337)
消えていったものたちであるところの「誰かさん」に出会い、別れて、忘れることになる苦しさにリサが「どうして?」と喘ぐと、「世界を対流させるためだよ」と先生が答える。それは本著に描かれた幻想や恋情の降り積もった私の想像世界に対する答えでもあった。第三回金魚屋新人賞を受賞した『レプリカ』を劈頭に収められた十八編の短編小説を十七まで読み進めたところで、ひとつの解を得、すると降り積もるままにやるかたなく堆積していた様々なイメージに鷹揚とした流れが生まれて、表題作『佐藤くん、大好き』の寡黙で幸福な往還に溶け込んでいく。
言語建築物としての小説に慣れている小説読みは、原の物語群には面食らうかもしれない。出来事に因果関係を探したり、登場人物を相関図的に布置することで、何かが解きほぐれるという効果はうすい。それよりも、十八の熱源によって生まれた水流に言葉が浮かびつ沈みつしているような言語的風景を私は想像する。第一段落の冒頭の時点で十八の物語はすでに始まっていて、決定的な結末は言葉の尽きた先にある。始まりと終わりが物語の枠外にはみ出していて、読者はおろか作者でさえ、その両端を捉えることはできないかのようだ。それが対流という現象になぞらえるべきイメージをもとめる。作者は大きな流れの衝突するあわいにおいて物語と邂逅し、それを名付けて、すくいあげる。奥沢、海辺、スガヤ、水出先生、ジョージ、千晴さん、佐藤くん。その瞬間にはもちろんすくい取れない分、言葉にならなかったもの、そのまま流れ去って永遠に失われるものもある。非・奥沢、不・海辺、スガヤ未満––––。もちろんそのような無粋な仮称は用いない。作者はそれらを素朴に「わからない」と称し、わからなさを評して「きれい」と形容している。その態度を私はじつに正直だと思う。
ところでこの物語群は恋愛小説集と総称されている。各編の主人公にあたるのは女性、それもだいたいがティーンエイジャーから三十そこそこ、とはいえ年齢設定が物語に与える影響はさほど強くないし、物語の「場」に馴染むための装いのようなものだろう。物語が発生源としている「場」は教室や電車のような局所的なトポスであり、それとはポジネガの関係で対置される渺渺たる海や宇宙である。そうした世界の局地において女は男と出会う。幻想に生きる男、幻想そのもののような男、幻想を連れてくる男、そのだいたいが寡黙で、主人公の女に真摯な眼差しを投げかける。寡黙だが、うそいつわりがなくて、だから女たちは様々な位相において恋をする。うそいつわりがないくせに(ないから、か)はっきりしない男たちは様々な位相において包容力を発揮する。発揮、というほど力強いものでもない。寄り添う、のほうが適切かもしれない。「わたし・たち」に寄り沿う男たちに、なんとなく体重を預けきれないぐらいの距離で、彼女たちは「わたし・たち」の反映に出会う。手で椀を作ってすくい上げた(そしていろいろに名付けた)水たまりが水鏡になったかのように、彼女たちは男たちのきれいな目のうちに「わたし・たち」がどのように映っているのかを発見する。そのきれいさに見惚れる瞬間には恋心が成就し、その褪色に目ざとく気が付いたときに恋が醒めていく。『レプリカ』の男(奥沢)は二人目の「わたし」(千夜)を作り出して鏡の装置であり続けようするが、二人目の「わたし」が結局は褪色するという憂き目に遭う哀れな男だ。『佐藤くん、大好き』の男(佐藤くん)は、無意識的にも告白への返答を保留し続けることで、数百年の恋の保存に成功している。褪色とか、保存とか、色気のない言い回しばかりで恐縮だが。
「わたし・たち」を反映する男たちのうそいつわりのなさは、彼らに付属する幻想の強度でもある。現実世界の男たちのもつ不都合な部分があらかた幻想のうちに解消され、主人公の女たちが直接は触れられない位相へと片付けられている。彼らがきれいなものとして抽象されるのはその裏返しの作用とも言えるだろう。男たちはそうして水鏡となりうる反射面を作り出す。『ある日々のできごと』の男(周平)は、朝の目覚めとともに幼児や老爺へと変身する。この不思議な現象が夢か現実かはどうでもよく、女(亜美子)は朝の目覚めとともに男のそうした有り様を受け入れ、昨日とは異なる「わたし」の反映のうちに恋を試す。鏡に映る「わたし」は決して同じものではないという、本著全体に通底するテーマを強化した作品だ。「わたし・たち」の不可逆性を彼女たちはだれもが自覚している。同じではないことは百も承知で、これまでの「わたし・たち」やこれからの「わたし・たち」の恋に対して、今日の恋を試している。恋はきれいでなくてはならない。きれいじゃなかったら、もう悲しむこともできなくなるじゃない。男たちのうそいつわりのなさが、女たちを身もふたもない自己審問の場に立たせる。物語のトポスがどんなに局所的で瞬間的なものであっても、恋を試すその瞬間には恋の始まりと終わりまでの無時間的な推移がある。回想であれ、予感であれ。妄想であれ、幻想であれ。それが恋愛小説の架構であり、原の物語群はまぎれもなく恋愛小説集であるという根拠ともなる。
恋を熱源とした物語の対流という話をした。恋を試す女たちの「わたし・たち」をただす審問としての恋愛小説という話をした。最後に、そうした女たちをこそすくい取る作者・原の手つきについて書きたいと思う。物語は作者の言語化を待たずにすでに始まっていて、その終わりを見届けることもできないという正直な視界、私にはその視界のぼやぼやしたところに殺到しているらしい(男の)幻想がおもしろいと思う。「こんな世界にならこんな男がいるだろう」という想像が、結局は「こんな男」と名指せるような存在を補強するのに留まりがちなのに対し、原の視線には「この男にはこんな世界がお似合いだ」というような逆転した想像の手つきがあるように思われる。その最も強力な例として挙げたのが前述の周平だが、もうひとり『水出先生』の水出先生を挙げたい。
水出先生は主人公の女子生徒(北側)が左目のコンタクトレンズをなくして視力差に苦しむその左側から何度となく現れる。物語をリニアな時間で追うことはできない。あるときは奥さんを連れて、あるときは雨も降っていないのにレインコートを着て、左側のぼやけた視界からぬっと現れる。その神出鬼没さと「先生」という幻想の属性に守られて北側の心を乱したり解きほぐしたりする不思議なやさしさが、私には原が見据える対流の化身なのではないかと思える。流れていけばまた現れる、が決して同じ姿は取らない。どこかになにかが付け足され、なにかが損なわれているものとして、しかし必ず水出先生として北側の反映を写し出す。つまり北側の向こうを張って恋を試す存在なのだが、先生はきまってやさしいただひとりの先生なのだと、北側は先生を擁護する。
不思議に背景に溶けてしまうような、この感じは水の中みたいでもある。うまく身動きがとれなくて、息苦しくて、ぶくぶくと沈んでゆく、それでも世界はまぼろしみたいにとてもきれいだ。
(『水出先生』p.196)
視力の異なる右目と左目の二重に合わさるところで「わたし」の同一性を乱すきれいなまぼろしに対して、言葉を投げかけつづける原の態度に、先生がひとつの解を与える。世界を対流させるためだよ。まだまだ謎めいた言葉には違いないのだが、この言葉に行き当たった私もまた、なんだか納得してしまったのであった。そしてやるかたなく降り積もるままにしていた原の物語群が一斉に流れ出すような感じがした。『佐藤くん、大好き』の頁を繰る。二万回の告白という突拍子もない発想、中学三十年生という奇想、そんなものは御構いなしに、佐藤くんと佐藤さんはお弁当によって心を通わせ、三百年の宇宙開発の事業に飛び出していく。星々を星座に写し取るのが地上に住まって重力に耐える建築をする小説物語観ならば、星辰の運行を巨大で緩慢な対流と見て取るのが原の発想だろうか。そんなことを考えているうちに、物語は素朴で幸せな完結を見ていた。
星隆弘
■ 金魚屋の本 ■