—『リリアン卿』はオスカー・ワイルドに向けて書かれているのでしょうか。
非常に強く意識していることは間違いないでしょうね。ちょっと日本の場合に置き換えてみたいのですが、例えば文学青年が出会う近代の作家たち、つまり芥川龍之介だとか太宰治、それに三島由紀夫は、いずれも自殺者として登場します。邂逅の瞬間から、彼らは自ら命を絶った芸術家として存在することになるわけですよね。それが、なにか命のゆらめきとでもいうものを意識せずにいられない若い読者たちに、一種の魅力として映らないとは言えません。僕も高校では文学好きで通っていたので、よく同級生から「死ぬなよ」と言われたものです。
ハロルド・ブルームの「影響の不安」でもないですが、時間が非可逆のものである以上、遅れてきた読者は作家をその終着点から遡及的に見つめることしかできません。するとそこに結ばれる像は、作家の同時代を生きた読者が思い描くものとは少なからぬずれを生じることになります。ですから、このように問うことも可能になるわけですね。すなわち「果たしてオスカー・ワイルドは、アルフレッド・ダグラス卿との同性愛の醜聞によって投獄され、失意のうちに世を去らずとも、今日の唯美主義の化身としての地位にのぼり得ただろうか」、と。
ジャック・ダデルスワル=フェルサン(1880-1923)の答えはおそらく「否」だろうと思います。何故なら彼は、ワイルドの後半生を同時代人として見つめることができた世代に属していたにもかかわらず、醜聞を通してしかこの先達を語ろうとしませんでした。日本の文学青年が人生に挫折した点を含めて作家を愛するのとおなじように、フェルサンも堕天使としてワイルドを見つめているわけですね。
その理由は明白で、フェルサンは自らも醜聞を引き起こし、投獄の憂き目にあっています。そして自分もまた「黒弥撒事件」の主人公として記憶されてゆくのだという宿命を、敏感に察知していたんですね。それは「自分もワイルドと同じである」という感覚を生むわけですから、どこかでそのことを愉しんでいたとも言えるでしょう。
そこでフェルサンはむしろ、醜聞を終着点として、自らの生をふりかえることにします。ただし現にこの世に生きる自分自身としてではなく、リリアン卿という大貴族の末裔、奔放と退廃に命を捧げた美の化身として、自分の人生を語り直すわけですね。こうしてフェルサンの代表作『リリアン卿』(1905)は書かれます。
『リリアン卿』発表の頃のフェルサン
本編の内容をすこしだけ覗いてみると、幼いリリアン卿は、スコットランドの居城で孤独に暮しています。このときの彼は、まだ自身の美しさを確信できずにいるし、それを言語化することもできません。そんなリリアン卿をいわば力づくで開眼させるのが、ハロルド・スキルドという流行作家です。スキルドは『ミリアム・グリーンの肖像』という小説を著したことになっていて、その風貌も含めて、オスカー・ワイルドの戯画であることは明らかです。
要するにフェルサンは、自らが引き起こした醜聞の遠因としてワイルドを挙げているわけですが、ではフェルサンがひたすらワイルドを渇仰していたかというと、必ずしもそうとは言い切れないでしょう。物語が進むにつれて明らかになるのは、リリアン卿の仮面をまとったフェルサンが、むしろスキルドを乗り越えて真の美神になろうという野望に燃えていることです。もちろんその野望の顛末は、実際に小説をお読みいただければと思います。
—フェルサン自身について、すこし教えてください。
二十世紀の初頭に、前世紀に隆盛を極めた唯美主義の理想を引き継ぎながら、自身の醜聞に対する世間の関心を巧みに利用しつつ現実と想像の世界を複雑に織り上げたフェルサンは、なかなかどうして人を食った作家だと思います。
製鉄業を営む裕福な男爵家に生まれ、若くして実家の財産を継いだ後、詩や小説を書き継ぎながら世界を旅しました。最初から生活の苦労とは無縁だったわけで、いかに美意識を実践するかということだけがフェルサンにとっての課題だったわけです。釈放されてからはイタリアのカプリ島にいまも残る「リシス館」という邸宅を建て、生涯の恋人となるニーノ・チェサリーニと暮しますが、とにかくよく旅をしたひとで、あまりひとつところに落ち着いていられない性格だったようです。その足跡はヨーロッパはもちろん東洋にもおよび、日本を訪れたこともあります。旅先では阿片吸引用のパイプを買い求めるのが趣味で、優に三百を越えるパイプを蒐集したと言われます。その意味では、小説の主人公であるリリアン卿よりもずっと自由な一生を謳歌したわけですね。
フェルサンの旅行癖は作品にも活かされていて、実に多くの土地が登場します。風景はもちろん建物の描写も多いので、紀行文としても楽しむことができるかと思います。幸い、主な舞台のうちロンドン、パリ、ヴェネツィアなどは僕も訪れたことがあったので、その経験がすこしは訳文の質に貢献したかもしれません。
ヴェネツィア旅行中の訳者
—最後に、『リリアン卿』のおもしろさについてもう一言お願いします。
モデル小説として登場人物の実像を追い求めるのも一興ですが、それ以上に、当時の流行はもちろん、同性愛をめぐる社会の動きなども、かなり細かく書き込まれていて、その意味では史料的価値の高い小説であると思います。もちろん全篇が耽美精神に貫かれていますので、まずは純粋に溺れてみていただければと思いますが……。
それと、これは装丁の柳川貴代さんのおかげですが、書物そのものの美しさもぜひ手にとって味わってほしいと思っています。フェルサンはもちろん、周辺の人物の口絵もたくさん入っていますので、作品の世界をより深く理解していただけるのではないでしょうか。とにかく素敵な書物で、僕自身は手元に届いたとき、うれしさのあまり、思わず表紙のナルキッソスと向き合ってしまいました。
『リリアン卿』函と本体。別丁の口絵も多数
『リリアン卿』と訳者
とまあ、悦に入るのはこのくらいにして……。
最初の話に戻りますと、いま『リリアン卿』を手にする読者にとって、フェルサンは近代の作家と同じように、やはりコカインの過剰摂取で命を落とした自殺者ということになります。しかも彼は偉大な作家というよりも、「黒弥撒事件」の首謀者、という烙印を深くその亡骸に刻まれた存在なのですね。ところがその代表作である『リリアン卿』は、その事件を美の次元に昇華させてしまっていて、読者はすっかり煙に巻かれるわけです。
そのように考えると、『リリアン卿』はフェルサンから読者への挑戦状ではないか、という気もしてきます。「私は何者なのか。リリアン卿は何者なのか。われわれの静かな墓を暴いたとき、そこにあなたたちは何を見るのか」と、この書物はそう問いかけているのではないでしょうか。
大野露井
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