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アメリカNBCテレビ制作
『ロー&オーダー』はアメリカNBCテレビ制作で、1990年から2010年まで放送されていた犯罪&法廷ドラマである。NBCだから全国放送で、アメリカ人の友だちに聞いても「ああ見てた見てた、いいドラマだったよ」と言う人が多い。タイトル通り、「法と秩序」を描いた社会派ドラマである。
毎回番組冒頭で、必ず、
“In the Criminal Justice System the people are represented by two separate, yet equally discipline foreign groups.
The police who investigate crime and the District Attorneys who prosecute the offenders.
These are their stories.”
犯罪司法制度に関わる人々は、二つの、だが完全に独立した異なる組織から構成されます。警察は犯罪を捜査し、州検察官が犯罪者を起訴します。
これは彼らの物語です。
というナレーションが流れる。日本の司法制度と変わらないわけだが、その実態は大きく異なる。犯罪司法制度は「二つの、だが完全に独立した異なる組織」から構成されるわけだが、犯人と警察、検察と犯人のほかに、検察と弁護士という対立がある。これも日本と同じといえば同じなのだが、弁護士が警察・検察とまったく同じ力を持っているところがぜんぜん違う。弁護士の力を得て被告人と警察・検察が対立するわけだ。警察・検察と弁護士・被告人の力が完全イコールというところにアメリカの犯罪捜査の特長もある。
犯罪が起こると警察が捜査し、まあコイツが犯人で間違いないね、という証拠を得ると即逮捕になる。判決が出るまでは推定無罪だから、証拠集めに甘いところがあり、逮捕もそれほど迷わずすぐに実施される。被告は短い取り調べを受けると、あるいはまったく取り調べを拒否して〝I wanna lawyer.〟、「弁護士付けてよ」と要求する。で、翌日くらいには裁判官の前で保釈金の裁定がある。
裁判官 あんた、○○さんを殺したわけ?
弁護士・被告 いいえ、無罪です。
検察 被告の犯罪は悪質で、金持ちなので高飛びも考えられます。再勾留をお願いします。
裁判官 ああそう。じゃ保釈金100万ドルね。それとパスポートは没収。次!
といった感じでたいていの被告は保釈金を払って釈放される。保釈されるとすぐに、検察と弁護士・被告人が顔を合わせ、取引(ディール)が話し合われる。検察側が「悪質な殺人だけど、今この場で罪を認めれば懲役25年のところ、20年にまけてやる」と提示し、弁護士・被告人が受け入れればそのまま刑期の審議に入る。「やだ」と拒否すれば裁判である。
アメリカの刑事裁判では被告と弁護士は、まず〝Not guilty〟(無罪です)と主張するのが当たり前のようだ。検察側もそれを十分承知している。被告と弁護士の〝Not guilty 宣言〟が、ある意味裁判ゲームの始まりのようなところがある。もちろんゲームではなく双方必死なのだが、ここまで杓子定規に被告人の権利が強いと犯罪認定ゲームのような雰囲気が漂ってしまう。アメリカの刑事裁判では死者の人権より、犯罪者の人権の方が重んじられるのは確かである。
たとえ被告人が殺人を犯したとしても、被害者に犯罪歴があったり、人間性に問題があったりすれば、弁護人は徹底して被害者の過去を糾弾する。無罪はムリでも刑期を短くするのが目的だ。もし被告が殺人を認めたとしても、心神喪失などありとあらゆる免罪符を並べ立てるのが当たり前である。ある回では、更年期障害で善悪の区別がつかず、殺人を犯してしまったと主張する被告が裁かれた。日本ならそんなバカな、で終わってしまいそうだが、検察・弁護側双方が自分に都合のいい証言をする心理学者を呼んで法廷で言い争う。
検察 更年期障害でいきなりカッとなったりすることはありますか?
心理学者 あります。
検察 記憶が曖昧になったりすることは?
心理学者 ありえますねぇ。
検察 では更年期障害が原因で、殺人を犯した女性はいますか?
心理学者 わたしが知っている限り、いません。
大真面目でこういった議論が繰り返されるわけだ。更年期障害による心神喪失で無罪を訴えた女性は有罪判決を受けたが、人種や宗教問題が絡むと殺人を犯していても無罪判決が出ることもある。裁判は陪審員制だから、検察・弁護側双方が揃った席で陪審員選びをまず行う。年齢、人種を考慮するのはもちろん、インタビューして偏った意見の持ち主でないことも確認して人選する。判決は陪審員の満場一致でなければ出すことができず、一人でも有罪に反対する人がいれば「審理不能」となって裁判は流れる。一度審理不能になった裁判は二度裁判にかけることができないので、その時点で被告は無罪釈放だ。検察は陪審員全員を納得されなければならず、弁護側は陪審員の最低一人を説得して、被告が犯罪を犯してないと納得させればいいわけである。だから検察・弁護士双方が必死になる。露見すると重罪だが陪審員の買収もないことはない。
またアメリカの裁判は、警察や検察の不正に厳格だ。ある回では、犯罪者がまったく面識のない銀行勤めの男に目をつけ、男の娘を誘拐して金を強奪させるという事件が起こった。金の強奪は失敗に終わり、すぐに足がついて警察が男の隠れ家に向かったのだが誘拐された少女がいない。警察官が犯人の顔にピストルを突きつけ「娘はどこだ!」と聞く。「知らない」と答える男の顔を便器の水の中に沈め、「娘の居場所を言うまでやってやるぞ」と叫ぶ。男は少女の居場所を白状して無事保護されたのだが、これが裁判の焦点になった。拷問による自白は認められないからだ。
弁護士 裁判長、被告が警察の不当な拷問によって自白させられたわけですから、自白によって得られた証拠の抹消を要求します。(裁判長によって証拠が抹消されると裁判では使えなくなる)
検察 自白以外でも被告の罪は明白です。
弁護士 いいえ、違います。自白がなければ被告が少女を誘拐したことは、検察には立証不可能だったはずです。なぜなら自白しなければ被告は少女を殺して隠してしまったかもしれませんし、そうなっていれば少女誘拐の決定的証拠はないのです。ですから被告の罪は、強盗を強要したことだけになります。
検察 娘が誘拐されなければ、あの男は銀行から金を持ち出そうとはしなかった!
弁護士 誘拐の目撃者はいないのですから、少女が生きていて被告を特定しなければ、誘拐は立証できません。
テレビドラマなので多少誇張されているのかもしれないが、こういった議論がアメリカではまかり通る。検察・弁護側どちらかに大きな失態があれば、それによって裁判の行方が大きく左右されるのは珍しくないようだ。O・J・シンプソン事件なんかがそうですね。裁判の過程で警察側の証拠保全の杜撰さ、捜査に関わった警察官の人種差別発言などが争点になって、O・Jは限りなく黒に近いのに無罪判決が出た。ギスギスした社会ですねぇ。
マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』はコロンバイン高校で起こった高校生による銃乱射事件の背景を追ったドキュメンタリーだが、アメリカには銃が氾濫しているから銃による犯罪が多いのだという説を検証すると、一人あたりの銃保有率はカナダの方が圧倒的に高いことがわかった。しかもカナダの銃犯罪はアメリカの数分の一である。実際にカナダに取材に行くと、大都市でも郊外の家はドアに鍵をかけていない。「泥棒が心配じゃないんですか?」と聞くと、「一回やられたよ。ひどいことするよね」といたって呑気だ。
じゃあバトル・ゲームなどが人々の心をむしばんでいるんじゃないかという説が浮かび上がるが、アメリカやカナダはもちろん、世界中の子どもたちがゲームの世界でゾンビなどを殺しまくっている。最終的な結論は出ないのだが、アメリカでは人種はもちろん、貧富の格差も厳しい。誰もが自己を主張し、譲らない社会構造が犯罪を生んでいるのではないかという意味のナレーションが途中で流れた。
アメリカは自由の国であり、少なくとも自国民の自由の権利は法によって強く守られている。ただその自由の質はアメリカ社会に長くいないとわかりにくい。刑事裁判では被告はまず絶対に自分から罪を認めたりしない。〝Not guilty〟で押し通す。決定的な証拠が突きつけられると、〝Yest I’m guilty, but…〟と、無罪に向けてありとあらゆる理由を並べ立てる。行きずりの強盗殺人であっても貧困層の社会ケアシステムに問題があるのであり、被告の犯罪は悲惨な家庭環境等々から生まれた悲劇なのだから、責められるべきは被告の人生を狂わせた環境にあり、社会全体が責任を負うべきだと堂々と弁護される。わずかなお金のために殺された人はどーなるのよ、と思ってしまうのだが、そこに触れられることはまずない。
日本では年末から日産ゴーン元社長の裁判が話題になり、その拘留期間の長さがアメリカを始め、世界中の国々から批判されている。アメリカの司法制度を基準にすれば、ゴーン被告の拘留期間は明らかに人権侵害だろう。また加計学園事件の籠池夫妻は未決のまま300日も拘留された。外部との接触は極端に制限されるから、検察側が流す情報だけがメディアに報道される。ゴーンさんも籠池夫妻もスネに傷がないわけではないだろうが、まったく弁明もできずに拘留され続けるのは果たしてフェアなんだろうかとは思う。
ただアメリカの司法制度が理想的だとも思えない。犯罪を犯すに至るまでには、恋愛や金銭トラブル、家庭問題や環境、貧困など様々な理由がある。だが犯罪を誰かの、何かのせいにして無罪と主張することには強い違和感がある。自由であることは、自己の言動に責任を持つことでもあるのではなかろうか。
ただ日本でも強烈なミーイズムを持つ人、簡単に言えば自己中な人が急激に増えている。犯罪裁判でも「犯罪は認める、でも」と主張する人が増えているようだ。日本の司法制度では警察と検察の力が強すぎるとは思うが、裁く側、裁かれる側両方がミーイズムに染まれば、アメリカのような司法制度になっていくのだろうか。社会がギスギスするでしょうねぇ。裁く側、裁かれる側のバランスが取れた司法システムは、どういったものだろうかと、ロー&オーダーを見ながらいつも考えてしまうのでした。
田山了一
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