故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
そして、その通りになった。「ハエ―シンダ」というメモのせいで、祖父はあれからほどなく息をひきとった。僕も母も埋葬には参加しなかった。父はすでに一緒に暮していなかった。別れた夫の父親の葬式に出る元妻というのは倒錯的だったし、何より時間も金もかかりすぎた。時間の使い方でも金の使い方でも失敗ばかりしていた父が母に来いと言えるわけもない。「親父が、亡くなりました」という、妙にはっきりした言葉だけが届いた。訛りはあるが平仮名で記すことが躊躇われるほどではない「親父が」と「亡くなりました」の間にはずいぶん真に迫った沈黙が挿入されていて、本当に父親の死を悲しんでいるようだった。
父は五十歳で死んだ。父と最後に会ってから、かなり時間が経っていた。僕も母も葬儀には参列しなかった。英語ができるので連絡役を務めざるを得なかったカルメンも、僕たちを呼ぼうとしなかった。四隅を黒で縁取った厚手の紙に、滴るような筆遣いで十字架と父の名前が記された通知を受取ったのは、すべてがすんでからだった。祖父が死んだとき僕は十二歳だったので、祖父の葬儀に参列しないのは母の判断だったのだと開き直ることができた。父が死んだとき、僕はもう十九歳だった。僕は父の葬儀に参列しない、という決断を自分で下した。僕は大学に入ったばかりだった。正確には、二つ目の大学に入ったばかりだった。最初に進学した大学はアメリカの片田舎にあり、僕はそこで経済学を修めるという空虚な目標を掲げていた。目標でさえなかった。僕の周囲では経済学を修めることがすなわち豊かな生活を送るための最も典型的で安全な定石だった。だがそれは充分な中等教育を受けてそこへ集まってきた新入生たちの大多数にとって定石だったので、経済学を修めるつもりで入学したその大学では三年生になるまで経済学は受講できない、と指導教授に言われた。そうするとこの片田舎で丸二年も図書館の片隅で本ばかり読んでいることになるのだな、と図書館の閲覧室の外に並んでいる長椅子の上で本ばかり読んで毎日を過ごしていた僕は絶望し、経済学を修めるという目標さえ捨てれば東京で本を読んで暮せることに気づいて大学をやめたのだった。東京の家はなくなっていなかった。父だけがいなくなっていたのだ。ところが高校を出ただけの人間が本ばかり読んで暮すことはどうやら世間体のうえできわめてまずいことであるだけでなく、下手をすれば僕にとっても飢え死にしかねない危険な生活への入口であるということに気づいて、僕は慌てて二つ目の大学に入った。少なくともその大学は東京にあったので、僕は図書館ではなく快適な自宅で本ばかり読み、明るいうちは経済学ではない様々な学問の講義に出て四年後に学士になる、という実に贅沢な目標を新たに掲げた。だから十九歳の僕は、軌道修正に成功してわずかに半年で、父が死んだからといって再び旅に出る気にはならなかった。水を差されたくなかったのだ。
「こんなに近くにいるのなら、来なさいよ」
その四年後、学士になってロンドンに住んでいた僕を捕まえて、カルメンは相変わらずの命令口調で言った。
「あなたに渡さなきゃいけないものがあるの。お父さんが遺したものよ」
父は神童だった(と、僕は誰かからその話を聞かされた母から聞かされていた)。中等教育を受ける頃には、成績は村でも、郡でも、県でも一番だった(と、僕は誰かからその話を聞かされた母から聞かされていた)。年寄りたちが思い出せる範囲では、この点で父に優る人物が村から出たことはなかった(と、僕は誰かからその話を聞かされた母から聞かされていた)。父がそんなに勤勉であったとは信じ難い。僕が知るかぎり、父は死ぬまで勤勉ではなかった。ただ若い頃の父の頭脳には、物事をつぶさに分解して掌握する、あの霊感に支えられた優雅な力が、おそらく人並以上に溢れていたのだ。机にかじりついて文法や公式を暗記する必要はなかった。教師の宛てがう参考書にただ目を通し、あとは品揃えの悪い書店の棚から興味を惹くものを選び出して、ときおり頁を繰っていればよかった。カタルーニャの小村で導入されているような学習指導要領に打ち克つのに、それ以上の努力は必要なかった。こうして父は官費学生となりロンドンで学び、次いでパリでは自分で小銭を稼ぎながら学んだ。(あるカフェで働いていたとき、ジョン・レノンにオムレツを作ったことがある、と僕は父から聞かされた母から聞かされていた。)そしてもはや一つ所に落ち着く術を失っていたので、まずはベルリンのホテルで働き口を得て、それから中国を目指した。ところが査証が下りなかった。では引き返すのかと思いきや、どういうわけか日本へ流れ着き、関西を経て東京へやって来た。東京で父は母と知り合った。英語の講師としてだった。結婚した頃はレコード針の輸入代理店で働いていたが、平社員のくせに重役出勤を繰り返していた。それでも馘にならなかったのは、父のよくも悪くも型破りなところに、何故か魅せられてしまう人が少なくなかったからだ。母はそのように説明したが、それは不正確だ。外国語ができる父には利用価値があったし、外国語ができるという以外の点で利用価値がなかったとしても、父を雇い続けて置くことがたいした損失にならないほど、当時は景気がよかった。とはいえ父にはその会社に感謝する義理はなかった。それほど景気がよいなら自分で事業を興したほうが得策と考えた。そこで父は自分から会社をやめ、事業を起こした。そして潰した。
僕が覚えているのは、エル・ポアルをはじめて見た五歳の頃からの父だけだ。僕の知っている父はエル・ポアルから日本へ来た父ではない。すでに日本にいた父だ。僕の知っている父は成功した父ではない。失敗へと向かってゆく父だ。僕が最後にエル・ポアルを見てすぐに、父の失敗のための計画は完全に成功した。そして最後にエル・ポアルを見てから十年のあいだに両親が離婚し、祖父が死に、父が死んだ以上、もうエル・ポアルへ行く必要はなかった。二十歳のときにはスペインを旅行したが、いくつかの都市を回ったあと、エル・ポアルを飛び越えてパリへ向かった。僕は相変わらずスペイン語ができなかったが、大学ではフランス語を学んでいたので、パリに着いたときはやはりスペインへなど行くのではなかった、と思ったほどだった。まだ南米の魔術的な文学には疎く、スペイン語の文学と言えばドン・キホーテしか思い浮かぶものがなかった僕には、スペイン語を学ぶ必要などまるで感じられなかった。僕はもうエル・ポアルにも興味がなかった。それよりもパリを拠点にした詩人たちに僕は惹かれていた。ピカソやダリにしても、仕事場はパリだったではないか。彼らについて考えるにしても、フランス語があれば事足りる。
だが大学を卒業した僕が当面の生活の場として選んだのはロンドンだった。英語はフランス語よりもずっと簡単だった。そこへいまや僕がスペイン語をできないことについて不満を漏らす数少ない一人であるカルメンがわざわざ連絡をよこしたのだ。お父さんが遺したものよ。すでに罠の気配があった。お父さんが遺したもの。父親のいない自由な生活。お父さんが遺したもの。夢は遺ったかもしれない。父の夢はおそらく叶わなかっただろう。父の夢など知りはしないが、それが叶わなかったことだけは知っている。お父さんの遺したもの。愛でなかったことは確かだ。お父さんが遺したもの。カルメンはもちろん「お金を」とか「証券を」とか「土地建物を」とかの言葉を呑み込むような様子で言い、僕を誘惑した。父に遺産があるというのはとても信じられることではなかった。父はすかんぴんだったはずだ。あくまで父は。父は祖父の長男だから、祖父が亡くなったときに何がしかのものを受け継いだ可能性はある。そして僕は父の長男だ。信じられないような事実だったが、スペインの農村に似つかわしい家父長制度に則って言えば、僕は家長なのである。成人した僕の名前の頭には、公式にはドンという敬称がつくのだ。もちろんたいしたものが遺っていないことはわかっていた。だがそれがどの程度のものであるにせよ、カルメンにすべてを取られてしまうのは癪だった。お父さんが遺したもの。借金。知らせを無視することはできなかった。このまま祖母が死んでしまえば、カルメンは二度と僕を招待しないだろう。祖母はもう八十歳に近いはずだ。あまり時間は残されていない。カルメンは餌をちらつかせる。僕が飛びつくと決めてかかっている。あなたにずっと会っていなくて寂しいから。それでは効果がないことをちゃんと知っているのだ。その通りだ。僕はまだ「あいつ」が怖かったときのことを思い出した。
大野露井
(第06回 了)
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