世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
九、ニセモノ
雨で仕事が飛んだ。もちろん副業の日雇いの方だ。古着屋に天気は関係ない。
結局働きづくめの二週間が終わった後も、俺は休みの日に現場の仕事を入れている。もちろん金の為だが、多分それだけではない。残りはコレとコレの為、と具体的には言いづらいが、きっと色々考えたくないんだと思う。今だってそうだ。だから世田谷線の踏切の音を聞きながら掃除をしている。
掃除機を使うのは何ヶ月ぶりだろう。それでもまあまあ部屋やトイレが綺麗なのは――、そうか、冴子か。やっぱりあいつ、何度か来てくれていたのか。ある程度片付いたら電話をしてみよう。結局あの後、メールの返事は来なかった。サフランライスの時も顔を合わせていないから、かれこれ一年以上会っていないことになる。
洗濯機を回しながら三回かけてみたが、すべて留守電になってしまった。普段は伝言など残さないが、三回目に意を決して吹き込んだ。
「もしもし、俺だけど……、えっと、今日なんだけど、よかったら一緒に飯でも食べにいかないかな、と……。あと家の掃除、ありがとう。ごめん、気付かなかった。えっと……返事ください」
何だか間抜けなメッセージになったが仕方ない。俺もあいつも大人、ガキの頃とは違う。知っていることも知らないことも昔は一緒だったけど、今はてんでバラバラだ。
洗濯が終わると薬局へ行ってティッシュペーパーとトイレットペーパーを買い、図書館に寄って何冊か借り、家に戻ってからシャワーを浴びた。雨は朝よりも弱くなっている。気温は低いが湿度が高いせいで、あまり歩いていないのに身体が汗まみれになった。完全に夏だ。
その後カップヌードルで腹を満たし、溜まった請求書を整理したり、借りてきた本を読んでいるうちにもう午後三時。まだ冴子から連絡はない。もう新しい仕事を始めていて、それがかなりハードな内容なのか。いや、それでもメールの一通、電話の一本くらい返せるだろう。もし体調が悪いとしても、俺に連絡をしない理由にはならないし――。
やめておこう。暇だとこんな風に色々考えてしまう。やはり休日に働く残りの理由は、何も考えたくないからだ。ここ最近、あまり自分と向き合いたくはない。何故なら、とまた考えそうになってしまった。慌てて立ち上がる。ダラダラと家にいてもろくなことはない。とりあえず外に出よう。
いつものように不特定多数をメールで誘わなかったのは、前回のシバトモとカタヤマの結婚話に参ったから、ではない。いつ冴子から連絡が来るか、いや、そもそも連絡があるかどうか分からないからだ。こっちから誘っておいて、そわそわと上の空だったり先に帰ったりするわけにはいかない。俺は妙に律儀なところがある。
酒は飲みたいが、いつもの店、例えば「大金星」や「マスカレード」の気分ではない。誰かが俺を知っている場所では、俺として存在しなければならないから、結局俺自身と向き合うことになる。俺俺俺のオンパレードだ。鬱陶しい。出来れば今はニセモノでいたい。ちょっと前まで真逆のことを考えていたような気もするが仕方ない。ヒトって元々そういう生き物だ。俺はちっとも悪くない。
頭の中で言い訳を繰り返しながら、スマホで行先を探す。酒が飲めて、女っ気があって、ニセモノになれる場所。即ちキャバクラかガールズバー。ぐちょぐちょはニセモノのままでいられないから今日はパス。あれはどうしたって地が出る。
場所はなるべく遠い方がいいだろう、と降り立ったのは錦糸町。立ち飲み屋で景気をつけてからお目当ての店へ。昼からやっているキャバクラ。どうやら優良店らしい。先が尖った靴の若いボーイにスマホの画面を見せ、御新規様限定・八十分コミコミ六千円のサービスを受ける。いつもは格好つけてやらないこともニセモノなら平気だ。
「いらっしゃいませ。サービスクーポンの方、確認いたしました、ハイ。お客様、当店これ以上はいただきません、ハイ。女の子たちのドリンク、何杯飲ませても料金発生いたしません、ハイ。今日は一時間二十分たっぷり楽しんで、また次回もこちらにお立ち寄り下さい、ハイ」
歌うようなボーイの声に背中を押されて席に座る。そんなに広い店ではない。客の入りは六割。まったくこんな時間から、と自分のことを棚に上げてみる。こんにちはあ、と程なく来たのは、頭のてっぺんから声を出す痩せっぽちのルルちゃん・二十二歳。さあ、楽しもう。プロレス技みたいな名前のウイスキーで水割りを作ってもらい乾杯。あまり好みのタイプじゃないが、今日はそれくらいでいい。でもコトはそううまくいかない。
「お仕事って、何してるんですかあ?」
そんなルルちゃんの問いかけに、一瞬詰まっちまった。教師、バーテン、元ホームレス。色々なパターンを考えていたはずだったのに、思わず口をついたのは聞き慣れたあのフレーズだ。
「うん、まぁ絵を描いたりしてるんだけどね」
しまった、と思う前にルルちゃんが「えええ、超格好いいんですけどお」と頭のてっぺんからキンキン声を出した。もうこうなったら仕方ない。俺は「売れない、じゃなくて売らない」、実は駒場のコンビニでバイトをしている画家だ。ついこの間は愛人のオバサンと台湾に行ってきて、もちろんお土産はパイナップルケーキ。「それって超ありきたりですよお」とルルちゃんが笑った。ほぼ完コピだ。唯一違うのは年齢だけ。さすがに十歳サバは読めない。
その後、昔はさぞかしモテたであろうナナセさん・推定三十代半ば、濃いめの京都訛りが面白かったミナミナちゃん・二十五歳とチェンジして八十分は終わった。そういう方針なのか、単に暇なのか、情報共有はしっかりされていて、ナナセさんとミナミナちゃんは開口一番「画家さんなんですよねえ?」と切り込んできた。俺は伏し目がちに「あ、うん」と答える。
安太になりきるのは別に難しくない。当たり前だ。あれだけ一緒にぐちょぐちょやったんだから。細かなディテールだって全部覚えている。厄介なのは、それが快適だったことだ。安太のニセモノになるのは、確かに気持ちが良かった。
それが本職かどうか、また金になるかどうかに関係なく、芸術家は地面から少しだけ浮いている。言われなければ分からないくらい、ほんの少しだけ。浮いている振りをしてキャバクラで遊ぶのは楽しかったが、いざ店を出るとその分気が重い。飲み直せば忘れられそうだが、俺はこういう時に傷口を広げたがる。別にマゾっ気はない。その痛みに耐えれるかどうかを知っておきたいだけ、臆病者のやり口だ。だから安太に電話をかけた。
――出ない。
少しホッとしたのをごまかすように舌打ちをしてみる。時間は夕方六時。まだ早い。どこかで軽く飲んで、今日はお開きにしようか。いや、その前にもう一度冴子に連絡をしておこう。出てくれるとありがたい。ちょうど腹も空いている。あ、ATMで金を下ろさないとな。そんなタイミングで電話が鳴ったから、てっきり冴子かと思ったら安太。グッドかバッドか分からないが、すごいタイミングだ。さすが芸術家。
まだ展覧会? とすっとぼけて訊いてみた。本当は一昨日までだと知っている。
「いや、終わった。久しぶりにどう?」
さっきまで乗り気でなかったことを忘れてはいなかったが、「どこにしようか」と応じる。安太の浮きっぷりをこの目で確認したかった。下北かな、と思ったが提案されたのは三軒茶屋。仕事場があるのが気にかかるが、錦糸町から地下鉄一本だし帰りも楽だ。一時間後に待ち合わせて電話を切る。一応冴子に電話をしたが、予想どおり出なかった。
連れて行かれたのは駅から少し離れた小さなバー。くすんだ照明に年季の入ったカウンター、小さく流れているのはジャズ。初老のマスターは無口なロマンスグレー。下心とは無縁のちゃんとしたバーだ。下北ではこんな店、行かないくせに。地下鉄に乗る前、蕎麦を食っておいて正解だった。
まずはビールで喉を潤す。安太はモヒート。ミントの香りが鼻をくすぐる。
「ここのモヒート、美味しいから」
そんな安太の声にマスターは軽く微笑んだ。さっきまで錦糸町のキャバクラで真似してたんだ、と打ち明けるわけもなく、無言のまま飾られたレコードのジャケットを眺める。こうして二人、肩を並べて無言で呑むのは別に珍しくない。
とりあえず確認はできた。安太はやはり地面から浮いている。芸術家だ。俺なんかとは違う。でも傷口が全然痛まないのは、安太が疲れた顔をしているから。いや、顔だけではない。動作や声も疲れている。そのおかげで「労働なんだな」と理解できた。それがいくらになるかは知らないが、絵を描いて展覧会に出すのは安太の仕事だ。働いて、疲れる。その点、俺たちは何も変わらない。
一番奥の席では還暦世代の客同士が話し合っている。どうやらさっきまで演劇を見ていたらしく、前回の公演の方が良かったとか、あの演出家にしては大味だったとか、ずいぶん熱心だ。内容はまったく分からないが、ああいう話はいい肴になる。あえてこっちで喋らなくてもいい。
「展覧会、どうだった?」
「何とか間に合ったよ、絵」
安太と交わした会話はそれだけだ。今、俺は酔っ払う少し前。この状態が一番心地いいことは分かっている。ここでやめておくのが、綺麗な呑み方に違いない。
昔、安太もあんな風に他の客と熱心に議論をしていた。絵の話でもしていたんだろう。特に語るべきものがない俺は、一度皮肉を込めて訊いたことがある。
「どうして呑み屋の客は、音楽や映画やスポーツの話をあんなに熱く語れるんだ?」
「沈黙が怖いんだよ」
照れ臭そうな安太の声は、珍しく本音っぽかった。気取りやがって畜生、とあの時は思ったけど、今こうして沈黙したまま隣り合っていると無理なく理解できる。俺たちには何かを語る必要がない。ただミントの香りを嗅ぐだけだ。
安太は今、俺のすぐ隣で展覧会の打ち上げをしている。よく頑張った、と自分を労っている。一人で飲んでもよかったが、邪魔にならないヤツから電話が来たから連れてきた。今日はそんな感じだろう。もし本当にそう思われているのなら、光栄とまではいかないが悪い気はしない。
結局俺はモヒートを三杯呑んでいつものように酔った。確かに美味しかった。安太とはほとんど話をしなかったが、それで構わない。俺はちゃんと役割を果たしたはずだ。
店を出て駅に向かう途中、通りの向こう側を歩く安藤さんを見つけた。場所的に想定内。時間は九時半。仕事が終わった後、食事でもして帰るところだろうか。そういえばこの付近にお気に入りの洋食屋があると言っていた。
「あれ、俺が働いてる古着屋のバイトの子」
そう安太に教えようと思った瞬間、男が小走りで彼女に追いついた。店長だ。安藤さんに驚く様子はない。ということは……。へえ、とだらしない声を出した俺を不思議そうな顔で見つめる安太。説明するのもかったるく、「大丈夫大丈夫、電車乗ろうか?」と顎で示した。何か言いたげな表情だが、その理由も分かっている。今日はずいぶんあっさり帰るんだな、という感じだろう。
世田谷線の車内でもほとんど喋らなかった。俺は途中で降りるが、安太は終点の下高井戸まで。別れ際に「明日も仕事?」と訊かれた。何か言わなくちゃ、と焦ってどうでもいいことを口走ってしまったらしい。そうだよ、と答えると半端な笑顔を浮かべていた。
翌朝、いつもよりも早く目が覚めた。酒は残っていない。しばらく目を閉じていたが、二度寝をする感じでもなかったので、早めに家を出て牛丼屋で朝定食を食べる。納豆定食三百六十円。それでもまだ時間が余るので、仕事場まで歩くことにした。ゆっくり歩いても一時間弱。古着屋のオープンは遅い。毎日こんな具合なら、仕事を変えないと時間がもったいないな。そんなことを思いながら、のんびり歩くのは気分がいい。天気も昨日とは違い、カラッと晴れている。確かに暑いが不快ではないのは湿度が低いせいだろう。
こんな調子だから夕方に安藤さんが来ても、昨夜のことをすぐには思い出さなかった。
「明日から一週間、お休みしますね。しばらくドタキャン出来なくなっちゃうけど大丈夫ですかあ?」
おどけてニコッと笑った顔を見て、ようやく記憶が蘇る。でも、だからどうするというわけでもなく、「そうか、気をつけて行ってきてね」とつまらない返事をしただけ。今日みたいな日が続くなら、ドタキャンすることもないだろう。
家に帰ってドアを開けた瞬間、違和感があった。いつもと何かが違う。鍵を閉めず靴も履いたままで部屋の様子を伺う。人は潜んでいないようだ。息を凝らして部屋を見渡すこと一、二分。ようやく答えが分かった。壁に一枚だけ写真が貼ってある。しばらく見かけなかった兄妹のツーショット。冴子のヤツ、どうやら来ていたらしい。
部屋の中で靴を履いたまま電話をかける。来るのはいいけど、その前にちゃんと連絡しろ。そう説教するつもりだったがダメだった。また電話に出なかったから、ではない。今回はワンコールで出た。
「もしもし、お兄ちゃん、久しぶり」
出たのはいいが、その声がおかしかった。自分で自分の真似をしているようなぎくしゃくした声。その直感に自信があったから、もう一度戻ってこいと告げる。説教なんかしたら電話を切られそうだ。きっと何か嫌なことを抱えているに違いない。
「まだ近くにいるんだろ?」
「うん、まあ……」
やっぱり何かある。家で会うのが嫌なのかと思い、外で会おうかと振ってみた。しばらく沈黙した後、「分かった。そっちに戻るね」とあいつは呟く。やっぱりおかしな声だ。
「うん、待ってるからな。どれくらいかかる?」
「三十分くらいだと思う。じゃあ後でね」
靴を履いたまま考える。あいつは今、良い状態ではないはずだ。ここはひとつ、兄貴らしく相談に乗ってやらないとな。靴を履いたまま外に出て、閉店間際のスーパーでシャンパンを買ってきた。他にはあいつの好きな臭めのチーズに、砂糖水みたいな缶入りのカクテル、そしてスナック菓子を少々。パーティーをやるつもりはないが、少しは酒を入れた方がリラックスできるだろう。
外から帰って数分、ちゃんとあいつは戻って来た。久々の対面だ。特に変わったところはない。少なくとも外見はまったく。声も実際会ってみるとおかしくなかった。ただ何かが違う。本当に微かだけど、どこかがズレている。シャンパンとスナック菓子とチーズを並べたテーブルで向かい合い、探り探り話しているうちに何となく分かってきた。
視線だ。
前は喋っている時に目を逸らしたりはしなかった。あからさまに目線を外し続けるわけではないが、不自然なタイミングでちらちら下を見たり、きょろきょろ横を見たり。探り探りの会話だけに、その不自然さが際立つ。何がこうさせてるんだと微かに苛立った。変わらないのは、写真の中の俺たちだけだ。
まあ、こいつも二十六歳。男か金か仕事。その辺りで悩んでるんだろう、と予想する。大穴で宗教か。とりあえず自分から打ち明けるのを待った。気付けばシャンパンはもうない。俺は焼酎を炭酸で割り、冴子に缶のカクテルを手渡す。
「これでいいか?」
「あ、うん。買ってきてくれたの? ありがとう」
「髪、切った?」
「ううん。ずっとこんな感じ」
「もしかして結構腹減ってる?」
「大丈夫。チーズもあるし」
核心に触れない会話を続けるのは案外難しい。正直なところ、緊張する。何かを抱えた冴子と向き合うのは初めてだ。
「うんとね……」
砂糖水みたいなカクテル缶を一口飲み、冴子が背筋を伸ばした。時が来たんだ。男か金か親、さあなんでも来てみろ。
果たして頼りない兄貴の予想は、見事に外れていた。かすりさえしなかった。でも、それが普通だ。どんなに立派な兄貴でも予想出来ないようなことを冴子は言いやがった。
「お兄ちゃん、ごめんね。しばらくの間、私が消えるのを手伝ってほしいの」
(第09回 了)
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