世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十、失踪スタート
突拍子もない申し出に俺の顔色は変わったらしい。「怒らないで」と慌てた声でそれが分かった。怒るっていうか、本当は脱力しただけだ。でも、不思議と身体は重くなりやがった。
以下、冴子の嘆願。
しばらくね、っていっても三ヶ月位なんだけど、ちょっと東京を離れたいのよ。別にどこへ行きたいって訳じゃないの。ただ東京を離れてみたいってだけ。
でも多分父さんも母さんも心配するし、その前に理解してくれないと思うの。お兄ちゃんだってそれは分かるでしょ? だって理由なんかないんだもん。
自分にだって分からない理由をね、父さんと母さんに説明できるわけないじゃない。だからお兄ちゃんの家に、この家に私がいるってことにしてほしいんだ。
バレた時の言い訳なら考えてあるし、迷惑は絶対かけないから、お兄ちゃんからは父さんと母さんに上手く言っておいてほしいの。
ううん、それだってもし何か訊かれたらってことよ。ちゃんとお兄ちゃんには連絡入れるし、心配は絶対かけないようにするから。ね、お願い。
文字どおり一気にまくしたてた。正直、気持ち悪かった。普段そんな風に喋る奴ではない。あまり妹にこんな喩えは使いたくないけれど、クラブでハイにキマってる奴みたいだった。
とにかく切羽詰っているのは理解できた。もちろん途中までは反対だったけど、色々思い出しちまった。昔、俺がいくつも抱えていた「親に知られたくないこと」を、こいつは全部バレないように協力してくれたんだ。いつかやられた耳の裏の傷が疼く気がした。冴子の性格からして「三ヶ月位」も「お兄ちゃんには連絡入れるし」も嘘ではないだろう。
今までこんなに頼ってくれることなんてなかった。頼りない兄貴として、これくらいは願いを叶えてやろうか。いや、それ以前にこいつもそろそろ二十六歳、もう大人なんだ。
あの時は本当にそう思った。俺は本当に浅はかだ。結果詳しい事情も訊かず、馬鹿な兄貴は寛容な振りして妹の話に乗っちまった。
あれ以来ずっと調子が優れない。もうそろそろ二週間だ。薬局で市販薬の効能を読みながら考えている。一番近い感じがするのは「倦怠感」。もちろんこんな薬、買いはしない。今日買うのはキッチンペーパー。冴子から買っておいてと頼まれた。そろそろ無くなる頃かもとトイレットペーパーを買い、こっちもそろそろかなとティッシュペーパーも買う。結局紙ばかりを抱えて家に帰る。
あれから二、三度、冴子はちゃんと俺がいる時に家に来て料理を作ってくれた。久々に一緒に食べる手料理が、共犯者になることへの報酬かもしれない。俺からは失踪計画について一切触れなかった。「いつから消えるんだ?」なんて質問、妹相手にどの面で訊けっていうんだ。何も訊かなかったのは馬鹿な兄貴なりの意地だ。
確かにあいつが考えた親への「言い訳」は見事だった。
「お兄ちゃんがね、彼女だか友達だかのところに行ってなかなか帰れなくなるみたいだから、その間私が留守番するって言っておいたの」
シンプル・イズ・ベスト。親がいまだに抱えている俺への不信感と、冴子への信頼感の絶妙なバランス。変な言い訳をでっちあげるよりも真実めいている。
「いいじゃん」
兄貴の間抜けな一言を聞き、あいつは妙に嬉しそうにしていた。まあ喜んでるんだからいいんじゃないか、と自分に言い聞かせるくらいしか俺にはできない。
酒屋に寄って帰ると、もう料理を作り始めていた。匂いで分かる。カレーだ。一応これが失踪前の最後の晩餐らしい。今日来ると分かったタイミングで「外で旨い物でも食おうか?」と誘ってみたが「別に最後じゃないんだし」と断られていた。あいつの中で失踪は特筆すべきことではないようだ。
「遅いよ、キッチンペーパー」
「悪い悪い。間に合わなかったか?」
「うーん、まあせっかくだから使っとく」
料理をしている後ろ姿なんか見るとしみじみしそうだったので、「出来たら起こして」と頼んで床に転がった。別に眠たくはなかったが、目を閉じているとうつらうつらしてくる。夢になりきらない映像が、何度か目の裏の辺りをよぎった後に起こされた。
「出来たよ、ご飯」
「お、うん、ああ……寝てたか」
目を擦りながら椅子に座り、「あ、忘れた」とシャンパンを冷蔵庫から出す。どうにも締まらない。私がやろうか? という声に「大丈夫、大丈夫」と応じながら、何とか栓を抜いて乾杯。妹の無事なる失踪を願って乾杯、だ。馬鹿らしい。何か読み取れるんじゃないかと一応頑張ってはみたが、目の前のあいつが何を願って乾杯したのか、俺にはまったく分からなかった。
いつものように食べて飲んで話をする。失踪の話をしなかったせいか、あっという間に時間は過ぎた。もう帰る時間だ。普段は駅まで送っていくが、今日はタクシーに乗せてみた。少しは最後の晩餐っぽかっただろうか。
「ありがと、お兄ちゃん。近いうち連絡入れるね」
「え?」
「うーん、だから、何て言うのかな……」
「失踪し始めたら?」
「まあ、そうなるかな」
ちゃんと連絡するんだぞ、としか言えなかった俺はやっぱり抜けている。
そこから三日、動きはなかった。いつもの店に呑みに行くわけでも、ナオに会いに行くわけでも、安太を誘うわけでもなく、冴子からの連絡を待っている自分がおかしい。
明けて四日目、起きた時から今日は「マスカレード」に行こうと決めていた。これ以上、冴子の連絡を待ち続けていても仕方ない。仕事終わりに立ち寄って、もしナオが暇なら飯でも付き合ってもらおう。あの失踪話があったせいか、右田氏との一件が遠い昔の出来事みたいだ。安藤さんと店長が連れ立って歩くのを見たことすら遠い。冴子の失踪話はそれくらいのインパクトがあった。本当、共犯者なんてなるもんじゃない。
そういえば「マスカレード」に行ってから結構経っている。近いうち飯に行こうと誘った気もする。久しぶり、なんて言わないつもりだったが、ナオの方から言われてしまった。
「久しぶりじゃない。交通事故? インフルエンザ? 盲腸?」
「全部ハズレ」
「じゃあ、女にフラれた?」
「そんなに景気よくないよ」
はい、とハイネケンが出てくる。半分くらい一気に流し込んで一息つくとサラミが来た。メニューにはないはずだ。これは? と訊くと「御遠慮なく。店長の忘れ物だから」と自分もひとつ口に放り込む。二杯目はジンをロックで頼んだ。別に呑みたかったわけではない。目の前の棚に置いてあっただけだ。
「サラミには合わないかもね」
「いいよ、別に」
いざ口をつけようとした瞬間、そいつは来た。冴子からのメールだ。
あまり飲みすぎちゃダメよ/私なら大丈夫/だから心配しないでね/また連絡します
当然居場所は記していなかった。大丈夫? 何が大丈夫だっていうんだ。気負いのないその報告っぷりが癇に障る。勝手にしやがれ。そう思うと同時に是非無事でいてくれと祈ってもいた。内側がぎしぎし軋む。余程深刻な顔をしていたのか、奥にいたナオが声をかけてきた。
「何て顔してんのよ。やっぱり女にフラれたんじゃないの?」
からかうようなナオの声と、控えめな音量で流れているボサノバ。いいバランスだったが俺は大きな声が出したかった。王様の耳はロバの耳。人間は腹に何かを抱えていると、大きな声が出したくなる。
「今日、店が終わった後は予定ある?」
「どこに行くの?」
「どこでもいい、うるさい店に行きたいんだ。どこか連れてってくれないか」
「いいよ。っていうか、じゃあ行こうよ、店閉めるから」
客は誰もいなかったが、さすがにそこまではさせられない。慌てて止めたが、ナオは「最近、サービス残業多いから大丈夫よ」と訊く耳を持たなかった。俺のジンをに口をつけた後、さっさとエプロンを外す。こうなったらもう止められない。悪いな、と声をかけて俺も席を立った。
学生の頃に通っていたクラブを目指し、下北の中心部へと歩くナオの背中に尋ねる。
「あそこってまだあのままか?」
「何年前の話よ。もう三回は名前変わってるってば。うるさいのがいいんでしょ?」
ピタッとしたジーンズで大股に歩くナオ。ジャラジャラ鳴っている鍵。さっきのジンの味が甦る。
目的地到着。階段も扉もブースの位置も昔と変わらない。変わっているのは店の名前と俺の年齢くらいだ。近くはよく通るけど入ろうと思ったことはない。一歩踏み入れると大音量でぶちまけられた粗くて汚いロックが降りかかってくる。平日の夜だからか、それとも元々こんな感じなのか客はまばら。面倒くさいから、とナオがダークラムをボトルで買い取ってくる。
「おいおい、そんなにいくつもりか?」
「私、明日、オフ」
「え?」
「氷、いらないよね?」
その言葉が合図だった。はい、と渡されたボトルの封を切る。鼻をつく久しぶりのラムの匂い。そうか、明日オフなのか。安藤さんには悪いけど、俺は久しぶりにドタキャンでもいい。最近休んでなかったから、店長と二人きりになれなかっただろう。たまには安太みたく職場でぐちょぐちょやった方がいい。さあ全面開放、内面解放だ。そのまま口をつけて、ボトルを傾ける。一口目はさすがに噎せちまった。
音楽のテンポが速くなる。心臓がそれにつられて興奮する。そのうちテンポが遅くなっても興奮だけは継続している。段々と客の数が増え、俺も溶け始めてきた。立ちっぱなしなんでアルコールの回りが早い。すぐ隣でナオは身体を揺らしている。左腕には刺青。初めてちゃんと見た。青い蝶だ。そして次の瞬間に浮かんだのは右田氏の顔。別に二人がどんな仲でも構わないけど、今日だけは忘れさせてほしい。大事な妹が念願の失踪を始めたんだ。今は俺をひとりにしないでくれ。
「吸うならトイレ、一番奥ね」
それも昔と変わらないのか。ラムのボトルはもう残り半分だ。でも頭はぼやけてない。視界だって濁ってない。なぜか全然酔っ払えない。冴子の件が栓になって、酒がなかなか底まで落ちていかないんだ。早くこの栓を抜いちまいたい。
トイレに入る。タンクの蓋を外して裏っ返す。小さなパックを発見。やっぱりこれも変わってなかった。思いっきり吸い込んだが久しぶりだからか、味も質も分かりやしない。いや、粗悪品なのは間違いないが文句なんてない。一瞬くらっときて思わず座りこむ。そのまま動かずにいると徐々に気分が落ち着いてきた。ゆっくりと吸い込んでいく。十分くらい経っただろうか、ドアが強くノックされた。関節に緊張が走る。
「開けて、私、ナオ」
脅かしやがって。勘弁しろよ、とドアを開けるともたれかかってきた。青い蝶が揺れる。大丈夫か、と尋ねた口がナオの薄い唇で塞がれた。ラムにまみれた舌が絡まる。慌てて後ろ手で鍵を閉めた。充満している煙。
「やーらしーい」
口調と不釣合いなナオの強い目。焦るようにズボンを下ろす。まるでガキだ。左上が欠けている鏡に俺の顔。どうやらまだ栓は抜けてない。抜かないの、と言う感じでナオが屈んだ。
先端に纏わりつく刺激に、思わず大声をあげちまう。やっぱりガキだ。でもそれでいい。バイアグラのジェネリックは忘れてきたけど大丈夫。色々混ぜない方がいい。ゆっくり動くナオのつむじ、それと舌。俺は大きな声を出したかったんだ。ほら、もっと叫べ。鏡の中の自分を見据えながら顔を歪めてみた。気持ちよがってる俺。容赦なく汚いロックが洩れてくる。このドア、どれだけ薄いんだ。
ふわっと青い蝶が舞い上がり壁に止まった。ジーンズごとひん剥く。鍵がジャラジャラと音をたてた、はずだ。外がうるさくて聴こえない。焼けた背中に、だらしなく口を開けたナオの横顔。溶けてんな、と思いながらぐっと突き刺す。剥がれかかった二色刷りのフライヤー。誰かがドアをノックしている。放っときゃ諦めるだろう。汗の浮き出た背中が大きくうねってる。鏡に一瞬冴子が映って消えた。やめてくれ、萎えちまう。
しがみつくように腰を抱いた。吐き出すようにナオの名前を呼ぶ。昂りが一気に突き上げた。引っこ抜いた瞬間、ナオが口で受け止めようと、こっちを振り返り膝を折る。昂りはコントロールを嫌い、青い蝶を掠めて床に落ちた。
閉店を待たずにクラブを出る。二人とも腰ガクガクだ。あの弾みで栓が抜けたらしく、一気に酒が身体の底に流れ込んできた。遠慮なく胃の辺りで広がる気持ち悪さ。
何でこんなに呑んだんだっけな。全然分からない。とにかく今は、色々な余韻に身体を任せていたい。まだ残っているボトルを店に置き、しかもすぐタクシーに乗ったことをナオが茶化し、俺の手を握る。
「昔なら他人のボトルまで持って帰ってたよね。あと本当にへばるまで歩いたしさぁ。大人になったねぇ」
本当かよ。来年三十歳って本当に大人になってんのかよ。
タクシーの運ちゃんは無口で、NHKのラジオが小さく流れている。窓越しに流れる街並みは徐々に灯りを失っていく。ナオの家はたしか狛江の方だ。
「ちょっと寝るね」
手を握ったまま肩に顔を乗せたナオの寝息。引き続き無口な運転手。タクシーの中、俺はひとりになった。
明日の仕事どうしようかな。まあドタキャンすればいいや。それで全ては丸く収まる。安藤さんと店長へのささやかなプレゼントだ。とりあえずナオとだらだら過ごしたい。明日もう一度、さっきのことを訊いてみよう。来年三十歳が本当に大人なのか。自分が大人か子供かなんて、きっと死ぬまで分からない。そんなことは意識せずに今までやってきた。
自由そうでうらやましいね、と言う人。いい歳なんだからちゃんとしなよ、という人。多事争論。いや、議論なんてしなくていい。どっちも俺には影響なしだ。暖簾に腕押し。腐った身体を殴っても拳がめりこんで汚れるだけ。そう、多分俺は腐ってる。学生の頃よりも、ひどい。
踏み切りを越えて真っ暗な商店街に入った。閉まったガレージの羅列。世界が終わりそうな風景。でも、あと数時間で何事もなかったようにこの商店街は生き返る。タフだ、と思う。ゾンビのように、強靭で粘着質なタフ。
俺はこういう真面目な風景が怖い。大嫌いだ。クラブのトイレでぐちょぐちょやっていたい。あんな感じで……いつまで? 死ぬまで? もう三十歳、と浮かんだ瞬間のっぺらぼうの絶望がこみあげてきた。振り払いたくて、だらしなく眠ってるナオの唇を強引に吸う。まだ残っているラムの匂い。
「だーめだよ」
微笑みながら囁いてくれたから、のっぺらぼうに少し表情がついた。
(第10回 了)
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