エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
俺たち三人は窓から窓へ外の景色を眺めて歩き、行き当たりで曲がって部屋を横切り、反対側の壁沿いを進んだ、オーギュストさんを間に挟んだ隊列だった――すると突然Bが威勢良く英語で挨拶をした。「おはようございます! 調子はいかがです」俺はオーギュストさん越しに目をやった、第二のハリイとまではいかなくともせいぜいフリッツあたりが現れたのかと思ったんだ。ところが俺が目を丸くしたのはすらっと痩せたうえにも威厳があり一目にそうとわかる品格のある紳士だった、襟なしでもぱりっとしたシャツを端正に着こなし、入念に繕われたズボンにはまだ部分的に折り目が残っている、擦り切れたところもあるが仕立ての完璧な燕尾服、(ちょっと履き古してはいるものの)靴墨で磨き直した靴。ラ・フェルテに入所して以来ついぞ見なかった非の打ち所のない人物像と対面したのだった。零落させられし貴人の極致、天の見捨てたもうた境涯に辱められた犠牲者、かつて権勢を誇っていたやんごとなきジェントルマン。その上にも、彼の纏う雰囲気には、どこか取り返しがつかないほど英国人的なところがあった、いや寧ろ痛ましいほどにヴィクトリア朝人らしいというか――我が友と握手をするその男はまるでディケンズの小説の一ページだったんだ。「ブラガード伯爵、紹介させてください友人のカミングズです」――伯爵は異論の余地のない素養を湛えるめりはりの効いた風雅な口調で恭しく挨拶し、青白い右手をそっと差し伸べてくれた。「貴方のことはB――さんからよく聞いております、どうか一度御目にかかりたいと思っておりましたよ。うれしいかな我が友B――さんのご友人とこうしてお会いできるとは、知性に溢れて気の合う同士なんですよそこらの豚ども違って」――そう言って心底からの侮蔑のこもった手つきでこの部屋のことだと指し示した。「みなさん散歩中でしたね。ここで折り返しませんか」すると気を利かせたオーギュストさんが『じゃあ私はこのへんで』と言って、去りしなに俺とBに愛情のこもった握手をしたその目の端ではBのやんごとなき友人に嫉妬と不信の一瞥をくれた。
「今日はいちだんとお元気そうですね、ブラガード伯爵」とBが愛想よく言った。
「よくやっているでしょう」と伯爵が答えた。「おそろしい努力を要しますよ――無論君も察していることでしょうが――人並みの暮らしに慣れきっている者にとってはね、況んや何不自由なく育った者をやだ。この不潔さ」――この一単語を発したときの筆舌に尽くしがたい苦々しさときたらもう――「この家畜同然の人の群れ――連中は我々を豚と同じに扱いますからね。我々の方だって人が寝ている同じ部屋の中で糞を垂れる。こんな場所を想像だにできるものがありますか? こんなものが人間の生活であろうものか」――伯爵のフランス語は流暢なうえに完璧だった。
「伯爵がセザンヌとお知り合いだってことも彼に話したんですがね」とBが言った。「ひとりの芸術家として当然ながら興味津々なようでしたよ」
ブラガード伯爵は驚いて足を止め、上着の燕尾からゆっくりと両手を引き抜いた。「まさか!」と叫んで、興奮が抑え切れないようだった。「なんと驚くべき奇遇だ! 私は絵描きなんですよ。このバッジ貴方ならおわかりでしょう」――伯爵が左の襟の折り返しに留めてあったボタンを指差すので、俺は前屈みになってその文字を読んだ。従軍記章。「いつも身につけているんです」純然たる悲しみの笑顔を浮かべてそう言うと、伯爵はまた歩きだした。「誰もこれが意味するところはわかっちゃいませんよ、片時も離さず身につけているんですがね。ロンドンのスフィア紙の代表特派員として前線にいたんです。塹壕掘りから何からなんでもやりましたよ。給金もよかった。週に十五ポンドです。じゃなきゃやってられませんね。私は王立芸術院の会員でもありましてね。馬の画の専門で。イギリスで馬を描かせて私の右に出るものはいませんでしたよ、前回のダービーで国王陛下が騎乗された御姿も描きました。ロンドンはご存知ですかね」俺たちは知らないと答えた。「ロンドンにお越しの際は(名前は忘れた)ホテルに宿を取るとよろしい――市内随一ですから。広くて品のいいバーがありましてね、見事な設えであの趣味の良さは一級品です。――ホテルの場所なら誰に聞いてもわかりますよ。バーには私の作品もひとつ飾ってあるんです。拘束服(とかそんな名前だ)、――侯爵所有馬、先のレースの優勝馬という題をつけました。アメリカには一九一○年に行きました。コーネリアス・ヴァンダービルトさんをご存知でしたね。彼の馬も何頭か描きましたよ。大の親友同士でした、ヴァンダービルトさんと私は。かなりの値段で買ってくれました、あれはたしか、三千、五千、いや六千ポンドでしたか。私が出発する日に、名刺をもらったんです――どこかに持っているはず――」伯爵はまた足を止め、胸ポケットを手探りして、一枚の名刺を取り出した。片面に「コーネリアス・ヴァンダービルト」とあり――裏面には、はっきりとした手書きで――「我が親友F・A・ド・ブラガード伯爵へ」さらに日付も入っていた。「ほんとうに別れを惜しんでくれました」
俺は歩きながら白昼夢を見ているようだった。
「スケッチブックと絵の具はお持ちじゃないですか? ああ残念。イギリスの家族のもとに便りを出したいと明けても暮れてもそればかり思っているのですが、ほら――こんなところじゃ画を描くどころじゃない。無理でしょう――こんな小汚い不潔な連中ばかり――ああ臭い! うぇっ」
俺は意を決して訊いた。「どうしてこんなところに来る羽目になったんです」
伯爵は肩を竦めた。「そりゃあ、もっともなご質問だ! わからないんですよ。なにかとんでもない手違いがあったに違いないのですが。ここに入所してすぐ所長と監督官の二人と面談しました。所長は私の件について知らぬ存ぜぬで、監督官は内々にフランス政府当局のほうで手違いがあったことを打ち明けてくれました。すぐに出所できるだろうと。彼は悪い人じゃなさそうだ。だから私は待ちました。来る日も来る日も私の釈放を命ずるイギリス政府のお達しがあるだろうと。すべてがあべこべです。大使館に歎願状を出して一伍一什を訴えもしました。ここを出ることができたら、その足でフランス政府を訴え機会損失に対する一万ポンドの損害賠償を請求するつもりです。だってそうでしょう――数え切れないほどの上院議員から請け負った仕事があったんですよ――そうしたら戦争が始まった。私はスフィア紙によって前線へと派遣された――挙句いまここにいる、毎日毎日法外な損失を蒙り、この身の毛もよだつ場所で腐っていくのです。ここで無駄にした時間はゆうにひと財産ぶんにもなりますよ」
伯爵は出入り口の扉を目前にして立ち止まり重々しく呟いた。「死んだ方がマシってもんです」
その呟きが伯爵の唇の間をすり抜けた刹那に俺は飛び上がりそうになった、俺たちが正対する反対側の壁から『クリスマス・キャロル』でスクルージにマーレイの亡霊の到来を告げたのと同じ例の騒音が聞こえたんだ――鎖がジャラジャラガチャガチャと鳴るあの陰惨な音。たとえマーレイの半透明な霊体があの壁をすり抜けて俺の隣のディケンズ風の人物のところでやってきたところで、このあと起こった出来事以上に驚かされることはなかっただろうさ。
人間業とは思えない爆音でバタンと扉が開け放され、その音の響き渡るなかにちんけで脆そうな奇妙な人間が立っていた、かろうじて思い当たるところどうやら老人らしい。その幽霊の主だった特徴は胸糞悪い裸体を晒していることなのだがそれは一般的に容認できる格好の付属品すら一糸纒わぬことと年寄り特有の特権意識の二つながらの要因の生じた結果そんなナリなのだろう。若干腰も曲がって、ガタがきた脆い肉体は、その上に不条理なほど巨大な頭部を載せて尋常ならざる苦難に耐え支えているというのに、肉の削げ落ちた首の上の頭はおそろしく敏捷に動き回る。きちんとカミソリをあてた皺くちゃの顔にすっぽりと収まるどんよりとした双眸は曇りなく失望の色を湛えている。両の膝頭の上に垂れ下がった両手は、子供の手のような小ささだった。だらりと緩んだ口には短い巻きタバコが止まり木に憩うようにはさまってしかつめらしく煙を吐いていた。
そんな男がいきなり俺目がけて大蜘蛛のごとく突進してきたのだ。
死んだかと思った。
俺の足元で機械的にうったえる声が言った。『シャワーを浴びてもらうぞ』――俺は馬鹿みたいに見つめていた。亡霊は俺の前でじっとして、そっぽを向いた目で窓を見つめていた。「風呂に入れ」そして今思いついたように、英語で言い加えた――「ついて来い」亡霊は不意に振り返った。そして戸口に向かって駆け出した。俺も後を追いかけた。すばやくも生気のない人形のような亡霊の両手が扉を閉めて手早く鍵をかけたのは瞬く間の出来事だった。「こっちだ」と声がした。
(第18回 了)
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* 『伽藍』は毎月17日に更新されます。
■ e・e・カミングズの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■