エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
剃りあげ兄さん(タバコの味にすっかり骨抜きにされちまったらしい)と、敷布団をきちんと整え直した毛むくじゃらの地の精の二人が、俺とBの会話に割って入ってきた。剃りあげさんはハリイの立ったあとに座り、地の精は(ベッドはもう定員一杯だからと)房飾りが去って空いた席を遠慮し、毒々しい結露のにじむ錆色の壁に背をもたせた。地の精はBの頭上に設えた彼お手製の棚にそれとなく水を向け、早晩俺にも似たような贅沢品を都合してくれると請け負った。彼はロシア人で、パリに奥さんとガキがいるそうだ。『どういたしまして、私のことはオーギュストさんとでも』――そう言うと穏やかでくすんだ双眸がきらりと輝いた。剃りあげ兄さんは非の打ち所のない英語をはきはきとしゃべった。名前はフリッツ。ノルウェー人で軍艦の火夫をしていた。「さっきの掃除掃除ってうるせえ野郎は気にすんな。いかれてんだ。人呼んで風呂係のジョン。もともと風呂係だったんだ。それが今じゃ宿坊長さ。俺にも声がかかったけどな――お断りだ『ざけんな、誰がやるか』ってな。やらせときゃいいんだ。仕事じゃねえよあんなもん、文句ばっかり聞きながら朝から晩までつきまとってんだぜ。『やりてえやつにやらせときゃいいんだよ』って言ってやったんだ。あのいかれたオランダ人はここにきてもう二年になるんだ。辞めろっつっても辞めやしねえ、酔狂の(この毒舌にはぎくっとした)色狂だ。しまいにゃジョンはクビになって代わりに任されたのが小男のリーシャールの野郎で、こいつは医者なんだけどよ。あの野郎にゃ天職だったろうよ、風呂係が。真っ赤な酒はしこたま飲めるし女も抱き放題だしな。でもあいつは童貞だぜ、リーシャールのことだけどよ」フリッツの笑い声は冷徹で明晰で嫌味だった。「ポンポン、ってのはついさっきまで座ってたあの小せえベルギー人の野郎だけど、あいつは女にモテるんだよ。あいつとハリイは。年中懲罰房通いだ。俺もここにきてから二回ほど入らせてもらったがね」
こうしている間にも大部屋はだんだんと不潔な光で満ち満ちてきていた。部屋の向こう端に猛然と掃き清める六人の影、朦々と立った塵埃の中で互いにがなりたてる様は六柱の悪鬼のように見えた。七人目の影ことハリイは、手桶を持ってあっちこっちと飛び跳ねて打ち水をしながら物となく人となくあらゆるものをぶ厚く淀みて神をも恐れぬ畜生奴!の朝靄に包み込んでいた。三面の壁沿いに(残る一面は一番手近の、唯一の出入り口を誇る壁だ)敷かれていたのは、壁に対してその長辺を直角に接し、三乃至四フィートの間隔で揃えられた、敷布団のようなものその数四十。六ヶ所ばかりの例外(寝床の主人がまだコーヒーを飲んでいる最中かじゃなきゃ朝のお勤めに出ているところだ)のほかは一様にすっぽりと毛布にくるまった頭のない肢体が横たわり、長靴の先だけが見えていた。
悪鬼の衆は部屋のこちら側に向かって進行してくる。ハリイも箒に持ち替えて清掃前線に加わった。一歩また一歩と近づいてくる。やがて合流し、ばらばらに掃き集めた塵芥を出入り口付近の鼻の曲がりそうなゴミの山にくわえた。箒は部屋の一角にまとめて立て掛けられた。男達はのそのそと寝床に帰っていった。
オーギュストさんが、フリッツの英語力とはまだ肩を並べられそうにないフランス語で、頃合いを見てこう提案した、『さて部屋もきれいになったことだし、少し歩きませんか、お三方』フリッツには完全に通じたようで、立ち上がると、一点の剃り残しもない顎を指で撫でてつぶやいた、「そうだ、看守のくそったれが来る前に髭を剃っとくかな」――そこでオーギュストさんとBと俺とでぶらつくことにした。
部屋は長方形で、奥行き八十の幅四十フィートぐらい、どう見ても教会風の造りだった――木造の柱が二列、十五フィート程の間隔でそびえ立ち、高さ二十五から三十フィートはあるアーチ型の天井を支えている。出入り口の戸を背にして立って、部屋の奥を正面にすると、右手前の一角(箒を立て掛けた角だよ)に小便桶が六つある。右手の壁沿いには、まず手前の角の少し先に、高さ四フィート二曲一双の屏風のなりにさえなればなんでもいいという体で拵えた板仕切りがあってそれが便所の目印になっている、便所といっても角にある六つとおんなじ蓋もついていない小さなスズの桶が一つ置いてあるきりで、あとは桶に蓋するもしないも思いのままのなんの変哲もない板切れが一枚。便所の仕切りと小便桶のまわりの床板は色が濃くなっているが、絶えず繰り返された内容物の氾濫のせいであることは言うまでもない。
右手の壁には十ばかり大きな窓のようなものが設えてあって、一番手前の窓は例のなんとも野趣溢れる小部屋からもよく見通せた。他の壁面には窓がなかった、というより入念に塗り固めらていて窓の用を為さなかった。にも関わらず、ここの住人達は二ヶ所の覗き穴をこじ開けていた――ひとつは出入り戸の片隅に、もうひとつは左手の壁に開けられており、ひとつ目の覗き穴からは俺も通り抜けてきた通用門が見え、もう一つの穴からは通用門を目指して歩いた通りの一角が見渡せた。壁三面の窓の封印には当然の大義があった。男どもはその窓の外界で起こる事象には一切目隠しをされていた、男どもが存分に穴のあくほど見ていられたのは洗濯小屋であり、収容施設の張り出し部と思われる一角であり、その向こうの雑木林の荒みきって生気のない殺風景――それが右手の窓十枚から見えるすべてだった。しかし当局はある一点で些細な計算違いをおかした。先述の張り出し部からはじまる有刺鉄線の囲いにほんの一部分破れた箇所があり窓から見えるんだ、結果その窓辺には(聞くところでは)女子の運動の時間になると我先にと争う男どもが殺到するらしい。おまけに、とある看守は女たちに銃剣の切っ先を突きつけてその中庭の一角から遠ざけ彼女らの崇拝者を一目見る楽しみをも奪うことを己の責務と奉じているって話だ。もうひとつおまけに、異性と口を聞いているところを見つかった者は性別に関係なくおかず抜きだか懲罰房入りだかの罰を受けるとか。おまけのおまけに男女それぞれの運動の時間は大まかに言って同時刻なので、隙を見て恋人と微笑みを交わしたり手を振りあったりしようなどというつもりで上階に居残っている者があれば男であれ女であれ運動の時間に参加できなくなるんだとさ……。
(第17回 了)
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