Interview:マルク・カエージャスインタビュー(1/2)
マルク・カエージャス:作家、劇作家。1974年バルセロナ生まれ。ロンドン、サンパウロ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスなどの都市を住み渡り、ノマド作家として主にサイトスペシフィックな演劇作品を発表。カントリーハウスの廃屋で、世界中の道で、あるいは街の1地区の4箇所を巡りながら作品を上演し、特にボルヘス、ヴァルザー、D・F・ウォレスの文学作品を引用した演劇作品で知られる。ボラーニョの『2666』第一章を劇作化した『批評家たちも泣くことがある』で初めて職業作家たちを俳優に起用、世界各都市で公演。劇場作品には『作家の胃袋』(CCCBバルセロナ現代文化センター)『すべて明かされるわけじゃない』(Caixa Forum)など。西語圏の多数の媒体に定期的に寄稿。著書には『カルセローナ(Melusina出版、2011年)』『カラカオス(同2015年)』『ドロゴタ(Planeta出版、2017年)』他。3月に谷口ジローの漫画『散歩もの』を演劇に翻案するため来日、東京をリサーチした。
『ロベルト・ヴァルザーの散歩』はヴァルザーの小説『散歩』を演劇に起こしたものだが、アルゼンチン人作家演じるヴァルザーは世界各地の街を練り歩き、小説内と同じ思考で、時代錯誤なセリフを現代の街中の人々へ投げかける。その観客は、図らずも観客にさせられた通りすがりの人々だ。彼らは意図せず文学作品内に在る。ここでは作品の方から彼らを捕える。本が読まれぬ時代、作家は新しい形の〝文学体験〟を、アート作品めいた演劇で探っている。現代、『文学する』方法は無限にあり、必ずしも読書体験だけでない方が自然だ。このインタビューを読むことだってもちろん、『文学する』ことになり得るかもしれない。
青山YURI子
■鶴山さんを交えたインタビュー前のちょっとした会話■
青山 壁にあるフレーズはあなたが考えたものですか?。
カエージャス 『私の好きなものは不法なもの、モラルに反したもの、太ること(Todo lo que me gusta es ilegal, inmoral o engolda)』という文字は、連作のタイトルなんだ。他のアーティストも参加して、一ヶ月ごとに順に回っていく。一月はマッテオ*1、二月は僕、三月はチャロ・トロッサ*2、四月はソシオ・ドクトラル*3、という風に。同じテーマの元、異なるプロジェクトを提案したんだ。この一番上の写真は、日本人アーティストのものだよ。(イベリコハムを顔一面に貼った女性のポートレート:http://todoloquemegusta2015.nyamnyam.net/marc-caellas)
青山 そうなんですか。お名前は?。
カエージャス ちょっと待って・・・えっと・・・ヤスマサ・モリムラ*4。
青山 森村泰昌さん?有名人じゃないですか。
カエージャス
彼はイベリコハムを顔に貼り付けた作品を作っていて、それを机の上にあった本で偶然見つけたんだ。テーマにぴったりだったので、プロモーション画像として使いました。
青山 森村泰昌さんっているじゃないですか。
鶴山 何にでも化ける人だよ。
カエージャス 食卓のテーブルカバーには、チケットを買って作品に参加した各出席者の前に、食べ物に関するフレーズがある。文学作品からの引用ですが、例えば「食べること、愛すること、飲むことには直接的な関連がある。-マヌエル・バスケス・モンタルバン*5」という風に。ナプキンにも文学フレーズが印刷してある。この紙はもともとソーセージの皮だったものを、リサイクルしたんだ。
青山 (イベリコハムを重ね、顔一面に仮面のように貼った女性を指して)これ、彼が作ったものらしいです。
鶴山 森村さんはなんでもやるねぇ。
■ノマド作家であること、初期作品について■
青山 始めにノマド作家であることについてお話を聞きたいのですが、あなたはこれまでにロンドン、カラカス、サンパウロ、ボコタ、ロサリオ、ブエノスアイレスなどの都市を住み歩き、作品を作ってきました。キャリアの中で初めて発表した比較的大きな作品は、マイアミのアートギャラリーで上演されたものですか。
カエージャス そうです。『夕食会』と言います。観客は25人くらい、長方形の大きな食卓を囲んで座っていました。その点では、後に作ることになる作品の草分け的なものとなっています。ただこの作品はすでに戯曲があり、近年のように小説や文学テキストを翻案したものではありません。ジュゼッペ・マンフレーディ*6というイタリア人劇作家の戯曲でした。家族の物語で、父親が長い間会っていなかった娘を夕食会に迎える。彼女は新しい彼氏を連れている。俳優を使った作品ですが、通常とは少し違った手法でシーンを作りました。観客にはワインが振舞われました。でも、食べ物ではなかった。これは今思えば間違いでした。この頃は観客にも食べ物を出すことを思い切れなかったし、考えもつかなかった。ギャラリーにはキッチンがなかったけれど、もしその場にいた全員に食事を出していたら面白かったと思う。
青山 ギャラリーで発表したのは、ハプニングという意味も込めてですか?。
カエージャス いえ、これは演劇として8回から10回ほど公演されたものです。あまりよく覚えていませんが。でも、ハプニング作品と言うこともできるかもしれません。当時ギャラリーではトニー・ミラルダ*7というカタルーニャ人アーティストの展覧会が開かれていました。トニーはフード・カルチュアル・ミュージアムを作った人物で、食べることや食料品にまつわる文化をテーマにしています。彼がこの作品を作るように誘ってくれ、壁には彼のアート作品が飾られていました。僕たちはこのギャラリー空間を舞台芸術的に使いました。
青山 かなり初期から、演劇シーンを作っていたのですね。
カエージャス べネズエラで製作した初期作品は、さらに演劇的なものでした。ただいつもサイト・スペシフィック。劇場は使わなかった。不特定な様々な場所で上演してきました。ギャラリー、廃屋、路地、大通り、広場・・・
■作家たちが俳優に!■
カエージャス 後に、ボラーニョの作品を扱った『批評家たちも泣くことがある』からは、アーティストや作家たちを俳優として起用するようになりました。俳優じゃない人を使う方が面白いんです。
青山 その作家たちを俳優に使うという考えはとても魅力的です。
カエージャス 作家が演じた演劇作品はいくつかあるよ。4つか5つ。『不愉快な作家たちへの短いインタビュー』、『ボルヘス家で食べる』。『ロべルト・ヴァルザーの散歩』もそうだし。
もともとは作家たちが伝統的な場所(書斎、図書館、研究室他)から出されてしまった時に、何が起こるのか観察したかったんです。『ロベルト・ヴァルザーの散歩』ではヴァルザー役のアルゼンチン人作家が街を歩き、居合わせた人々の反応を試している。
思うに、21世紀の作家はなんらかの形で、文学はショーでもあることを自覚すべきだと思います。あなたはサリンジャーになることができるし、彼女は外出嫌いでインタビューにも顔を出さなかったけれど、一旦演劇のゲームに入れば、サリンジャーはいくらでもインタビューで喋るんです。それ(文学がショーであること)を意識すれば、違う反応を引き起こせる。
他にも僕が関心を持っていることは、一緒に作品を作る作家やアーティストのバイオグラフィーが作品に透けて見えることです。僕は台本の代わりに、ボルヘスやボラーニョなどのテキストを事前に配りますが、作家である役者陣はそれを自由に解釈し、セリフを作ってきて(あるいは作らず)作品内で喋ってくれます。これが作家のケースでは特に面白い。作家の経歴や作品は、彼らの話すことにも結びついています。最終的には作品に加わってくるんだ。
『ロベルトヴァルザーの散歩』の一場面。〝観客を動揺させたい。道は偉大な劇場という認識の元で、詩的なテロリズムをしたい。この大きな劇場では、人々は通り過ぎたり、ただ観察したりする。立ち止まるものもいれば、付いてくるものもいる。でも正しいことは、この全員が動く劇場の「変容する観客」であることだ。〟
■今の作風に至るまで■
青山 どのように演劇作品に興味を持ち始めたのですか。
カエージャス 自然ななりゆきだった。色んな街で暮らした経験、読書体験が自然に形を取ったものでした。計画して今の表現方法に辿りついたのではありません。
ある日突然、誰かに本をプレゼントされて、ここから何か生まれるかもね、と話す。それを四年後突然思い出す。それが時々作品の種になったりします。
ノマディズムのテーマは、僕にとってはリアルなもの。実際にいくつかの都市に住んできました。僕は旅することにあまり信用を置いていなくて、その土地に住むことが大事だと思っている。ボゴタに住んだ時、コロンビアを旅した。カラカスに住んで、ベネズエラを旅した。でも一週間じゃ足りなくて、そこに住む必要性を感じます。
僕にとって演劇と文筆活動はパラレルな仕事になってきました。文化助言者(カルチュアルマネージャー)としても長い間働きました。文化助言者はプロデューサーであって、ほかの人の作品を知ってもらうため働く仕事です。そんなことも創作の養分になってきました。
青山 28歳でマイアミで初めて作品を発表された時から、作りたいもののイメージはかなり固まっていた印象を受けますが。
カエージャス それは確かに言える。自分のレトロスペクティブの資料を見ていても、リチュアルのテーマ、食べ物に関するテーマ、会話を扱ったテーマが出てくる。マイアミの作品には3人の役者がいたが、その内の1人は当時の彼女でした。当時から個人的な事柄を作品に取り入れていた。人生と創作を一緒くたにして。僕が一度も演劇を勉強したことがないことにも関係しているかもしれない。マイアミの作品はとても本能的に作ったものでした。映画を勉強したことはあったけど、後は作品を作りながら勉強していった。
青山 映画はエスカックで勉強されたのですか。
カエージャス いや、イデックという所で勉強したよ。イデックはもっと写真についても学びます。
青山 エスカックで映画を勉強した友人たちがいるので、聞きました。(エスカックには90年生まれのボラーニョの息子も通っていた。現在ドキュメンタリー映像作家になっている。)バルセロナで映画を勉強したというとだいたいエスカックと聞く気がするので・・・。その友達の一人の作品に、女優として参加したことがあって。
カエージャス そうですか。コルトメトラッヘ(短編映画)ですか?。
青山 そう。それです。
カエージャス いいですね。
青山 日本人を探していたらしくて。しかも主人公だったんですよ(笑)当時バルセロナで日本語ができる若い女性は限られていました。
カエージャス あなたは女優でもあるのですか?。
青山 いいえ(笑)。
カエージャス バルセロナで女優に変身(転身)したんだね?。
青山 その通りです。
カエージャス それは興味深いことです。あなたは故郷を出て、自分を作り変える。僕にはそういうことが起こったんです。マイアミでの経験もそうだし、ロンドン、サンパウロ、カラカス・・・それぞれの都市で、違う人物になったようでした。
青山 それは、とてもよく分かります。
カエージャス あなたはいつの間にか、たくさんの人物が自分の中にいることに気づきます。何人もの別人物になっています。小説の様々な登場人物のように。ある街で、演劇作家だと気づく。違う街で作家だと気づく。でもその時は分からない。後で気づく。徐々に気づいていくんだ。
青山 その過程は楽しそうです。私の場合、最後には本格的に女優になるために演技を勉強するべきだと勧められました。演技学校に通うべきだと。私の興味は別のところにあったので、行きませんでしたが。そのとき本当に行っていたら、今頃あなたが劇作家で作家であるように、女優だったかもしれません。日本にいたら起こり得ないことです!。
カエージャス その通り。
■『カルセローナ』や『ドロゴタ』の話、異なる土地で固有のテーマを取り入れること■
青山 あなたの作品はどれも、異なる都市で暮らしたこと、実際の人生の経験が反映されています。とても上手に、次々と新しい経験を作品に落としこんでいきます。何かを読んで良いと思えば、すぐに演劇作品に変わっています。
カエージャス 僕の作品が自伝的だと言っているのですか。
青山 例えば『カルセローナ』という作品は、長年の留守の後、バルセロナに帰ってきた時に街があまりにも変わっていた。実感的にもバルセロナがカルセル(刑務所)のように思えた。そこで新たなバルセロナにカルセローナと名付けたんですよね? 他にも『ドロゴタ』は、ドローガ(薬物)とボゴタを合わせた造語です。この都市の薬物乱用がテーマになっています。住む場所を変えても既に自分がよく知る故郷や、自己にこだわった作品を書き続ける作家も多いと思うので、そこに本物のノマド作家としてのあり方を見せられます。
カエージャス カルセローナを書いた時、5年間故郷を留守にしていた後で獲得された視点がありました。カラカスのようなとてもカオティックな都市に住んだ後の視点です。あまりにもきれいに整備されているバルセロナに戻った時、両者の間で葛藤を感じました。
これは2011年の本なのですが、その時の現在を扱ったものです。政治的なパンフレット、マニフィエストになっているのですが、今とは扱われている問題が違うかもしれません。2018年の今は、問題は別のところにある。スピリットは同じですが、2011年時点では僕たちはバルセロナのスノッブに対して怒っていました。なぜなら彼らは未だに贅沢な暮らしをしていて、その暮らしを維持することができた。そういう内容をカルセローナでは扱っている。本の中で、観光客のため、テーマパークのようになっているバルセロナで、エキストラ俳優のような住民のために、政府は給与を支払うべきだと書きました。当時はそんな馬鹿げた案も可能に思えました。まだ現実味があったんです。でも今は違う。7年後になって、あまりにも観光客が殺到しているので、バルセロナの街は僕たちを追い払い始めた。今では僕らは家賃を払うことができない。実際多くの友人が高騰した家賃を払うことができずに市外に出た。観光の成功はコストのかかる生活や別の一面を浮かばせ、地元住民にとっては生活の質の減退を示唆する。とても歪んでいます。そこで『外人よ、家に帰れ』という作品が生まれました。『カルセローナ』の延長ですが、違う方法で表現したものです。
でも君の言うように、確かに僕の作品にはいつも社会学のようなテーマがあるね。
いつも主張があって、まず主張したい考えが先にくるんだ。それを後で展開させる。
コロンビアの作品(『ドロゴタ』)には他にもテーマがあった。コカの木のプランテーション、麻薬の密売ルートのことなどを掘り下げました。異なる土地では、その土地固有のテーマに影響されると思います。
ドロゴタとは?
コロンビアの首都であり、最大都市。
私たち
山頂
大きな驚き
明暗ある都市
国の未来都市
国内外から人を受け入れる街
捨てられた赤ん坊が最も多いコロンビアの都市
クリエイティブで文化的…
(『ドロゴタ(プラネタ出版 2017)』より)
■リサーチ期間■
青山 どのくらいの期間をリサーチに費やすのですか?
カエージャス 同時にいくつもの作品を手がけていることもあるし、ある作品について考えていても、新聞や雑誌の文化欄に記事を書いていることもある。その間に小さなパフォーマンス作品を実演することもある。常にいくつものプロジェクトを同時進行に進めている。その作品にもよりますが、『インコが鳩を倒す』という作品は、長い時間をリサーチに費やしました。ほぼ2年間です。読書にも時間をかけた。この作品のテーマは重く、複雑で、ドラッグの消費、密売、効果について、たくさんのアナリストが本を書いています。最終的には仕上がったものが多すぎてカットしなければなりませんでした。(その調査中に)エディンソン・キニョーネス*8というアーティストに知り合った。コロンビアのポパヤン出身なんだけどね。彼が、キーとなるポイントに焦点を当てることを手助けしてくれた。彼もずっと同じテーマを扱っているアーティストだったんだ。
作家が批評家を演じる
作家が批評家を演じた『批評家たちも泣くことがある』。ボラーニョ『2666』の第一部『批評家たちの部』を上演。
青山 そもそも実際の作家たちを俳優として起用する背景には、どのような考えがあったのですか?。
カエージャス 作家たちを起用したのは、『批評家も泣くことがある』という作品から始まった。アレックス・ヴィゴラ*9が劇作で使ったある状況設定からも、少し参照しました。そこでのテーマの一つは、フィクションのためのメサ・レドンダ(食事会や対談の場で使われる大きいテーブル)を置き、文学フェスティバルのパロディをすることでした。スペインの文学フェスティバルはしばしば退屈です。観客が本当に興味があるのは作家、または作品であるのか知るために、長ったらしい知識を披露する専門家の代わりに作家たちをメサ・レドンダに置いてみました。また、『ボルヘスの家で食べる』はボルヘスとビオイ・カセレスの文学的友情に焦点を当てたものですが、同時にボルヘスに関してのパフォーマンス的な文学会議を演出しました。
■メサ・レドンダ■
青山 でも、あなたは本当はテーブルが好きですよね?(笑)。
カエージャス はい。もちろんです。(笑)スペインではそれをメサ・レドンダといいます。実際には食卓が丸い(レドンダ=円い)わけではないですが・・・。
青山 確かに、向こうではとにかく集まりますよね。テーブルを囲んで。
カエージャス プレゼンのため、作家の対談のためにメサ・レドンダを置きます。(インタビュー当日もカエージャスさんは複数のテーブルを集めて、二人で行うインタビューのために巨大なメサ・レドンダを作り上げていた!)何かを話合うための一つの方法なんです。
青山 でも本当にどの作品にもメサ(テーブル)がありますね!(笑)。どの写真にも真ん中にぽこんと。
カエージャス メサは出会いや集まりの場所です。様々なことの始まりの場所です。男女関係もしばしば夕食会から始まります。バーのメサということもありますが。食べること、飲むこと、愛すことの間には密接な関係があります。食べ物、飲み物、ドラッグ、あなたが摂取するものすべて。そして友情、恋・・・多くの場合すべてメサから始まります。
青山 そうですね。
カエージャス ヨーロッパのメジャーな宗教であるキリスト教、イスラム教には、-ユダヤ教ではちょっとどうだか分からないけど-、断食の期間がある。ラマダンの時期やクアレスマの時期は、絶食が義務づけられている。でもそれは結局、禁欲のメタファーだ。君がセックスをしなくても誰も相手にはしない。その代わり、一時的に食事をするのをやめる。それも一つ、(僕の作品の)テーマなんだ。僕はベジタリアンやビーガンの人々は、ある意味、宗教の原理主義者だと思う。ある食品だけを禁じるのは、道徳のキャンペーンのように思える。
でも、確かにそう言われれば、僕の作品にはいつもメサがあるね。
青山 あります。無意識的に配置してしまうのですか?。
カエージャス そうですね。誰でも考えずに行ってしまうことはあると思います。劇場で発表した作品にも使いましたし、後はインコの作品(『インコが鳩を倒す』)、『外人よ、家に帰れ』にもありますね。
青山 でも本当に全部! サイズもぴったりですね。
カエージャス そうだね。僕にとって理想のシーンは、少人数、一つのテーブル、食べている、飲んでいる、という状況です。
青山 でもここには(写真を指して)ワインが欠けていますね。
カエージャス ここにはありませんが・・・(笑)。
青山 バルセロナではどの地区でお生まれになったのですか。
カエージャス アラゴン通りにあるクリニックで生まれました。ロス・イタリアーノと呼ばれる細道です。バルセロナにはパサッヘと呼ばれる、たくさんの細い通路があります。ロジェール・ダ・ジュリア通りとパウ・クラリス通りの間です。今ではイタリア文化センターがあります。中心地です(実際、ガウディのカサ・バトリョから東に一本それただけの所。徒歩30秒)。
青山 それはもうセントゥロ・セントゥロ(中心街もいいところ。中心=セントゥロ×2)ですね。
カエージャス シーシー、ムイ セントゥロ・セントゥロ。
青山 両親ともにカタルーニャ人ですか?
カエージャス そう、二人とも。僕の父はアルデボルというカタルーニャ中央の田園地帯で生まれました。
■再びメサ・レドンダの話■
カエージャス メサの話に戻りますが、例えば、バスケス・モンタロ・バンケットは媚薬となる催淫食物は存在しないと証明している。宗教儀式のようなものだと思うけど。でも重要なことは、食べるという行為は、媚薬効果をもたらす慣習になりうるということなんだ。結局、誰かと食べること、飲むことを共にするということは、状況によって、どこにいるかによって、二人あるいはそれ以上の人物の間に生まれる雰囲気は、快楽を刺激するんだ。これが、媚薬効果を持つ状況を生むということは明らか。でも、例えばハムの代わりに牡蠣を食べたり、ポテトの変わりにラーメンを食べることで、より興奮するわけじゃない。(笑)いつも文脈が大切なんだ。
それで、演劇と文学にも同じことが言える。それは形式の問題で、あなたは作品がどう提示されるかによって、その方法を読む。本の内容がどう提示されるか方法を読む。鍵は、その冒険がセクシーなものになるかどうか、どれだけ興奮させられるかにあるんだ。シーンにどう物事を取り入れるか。結局すべては書き尽くされ、上演され尽くされている。だけど、いつも相手を魅了するための、慣習の新しい形は存在するんじゃないかな?。
食べることはある意味ではマスターベーション。孤独な楽しみみたいなものでしょう? そうなる時も多々あるけど、基本的には僕は人と食べることが好き。そちらの方が面白いから。
日本で多くの人々が一人で食べるということは、とても考えさえられるんだ。日本には、孤独なポルノグラフィのテーマもある。・・・これを話すと別の会話になってしまうので今は控えるけど、スペインで、性行為を控える日本人に関するドキュメンタリーが流れたんだ。人々は人間相手にセックスをしないけど、性業界はとても大きい。マスターベーション用の本やアイテムがあり、また一人で食べる人がとても多い。ほら、ここには関連性があるじゃないですか。
青山 私は今、コワーキングスペースで仕事をすることがありますが、誰一人、別の会社の人とまだ話したことがありません。
カエージャス でも共有スペースとかないんですか?。
青山 あるけど、中に人がいません。カフェテラ(コーヒーポット)は共有しているのに。
カエージャス カフェテラを共有してる!。
青山 そう。
カエージャス でも話さない(笑)。
青山 スペインから帰ってくると、辛いですよ。(苦笑)。
そろそろインタビューに疲れてきましたか?。
カエージャス いや、大丈夫。ゆっくり休んできました。一昨日はジャズを聞きに外出しましたが、昨日は雨だったので、一日中ここで仕事をしていたよ。(カシャカシャカシャカシャ――鶴山さんの写真の音が朝のTOKASに響き渡る・・・)。
■『読書はセクシー』に隠された秘密■
青山 スペインの文学界をちらほら観察していると、よく「文学はセクシーだ」というフレーズが散見されます。それはもう多く。どうしてですか?。
カエージャス そんなにたくさん? そう、僕は気づかなかった。
青山 あまり日本で聞かないフレーズなので(笑)。何か隠された意味でもあるのでしょうか。
カエージャス おそらく出版メディア、企業が公金を受けてそういうキャンペーンをやっているんだと思います。文化に出資する公金があって、多くのケースでは無駄使いされる。お金を受けて、読書を促す広告を載せる。本当に無駄なキャンペーンだ。いくら「読書はセクシーだ」と宣伝されても、大事なことは教育や、もっと実りあることにある。キーになっているのは、12、3歳の子供にドンキホーテやラ・セレスティーナを読ませますが、これは12、3歳の子に合う本じゃない。僕はよく本を人にプレゼントしますが、誰にプレゼントをするのか、よく考えなければいけない。初等教育で30人にまったく同じ本を読むことを強要し渡した結果、多くの子供は読書に関心を持たず、本を読まなくなる。どんな本を渡すかに注意を払わなければ、間違った方法になってしまう。でもそれを考えずに、人々が本を読む読まないの統計が出るたび、「セクシー」の言葉が出る。
■今日の文学とビラマタス■
カエージャス 僕にとって今日の文学は、500ページ続いているようなフィクションは読み続けたり評価することが困難です。今日の作家は、ディレッタントであるべきだと思う。少し文化人類学者、少し社会学者、少し活動家。時々、文化の消費者。そして少し、創作者。これらを少しずつ混ぜた者。
青山 それはとても面白いです。日本では、外に向けて文化人類学、社会学的なアプローチをするというよりも、内を書くことに焦点を当て、他所の文化(知らない場所)を発見していくというよりは、すでに知っている場所が多く描かれている印象があります。そうでないものもありますが。
カエージャス エンリケ・ビラマタス*10、彼の作品は全て読んできましたが、彼はスペインの若い世代に常に影響を与えてきた作家です。彼はしばらく前から実験作家ですが、ロベルトボラーニョもそうですが、彼らは偉大な小説を書いてきました。しかし作品は彼ら自身の生活に密接に結びついています。ボラーニョの『野生の探偵たち』は、メキシコに住んだ日々がなければ書かれなかったものです。3章目は、彼は一度もソノラにもソノラの砂漠にも行ったことがなかったので、リサーチをしながら書いたはずですが。でも1章目は日記です。そこに出てくる多くの登場人物はリアルな人物をモデルにしたものです。素晴らしい技術で創作と実物の重なった人物を作り上げました。別日、たくさんのボラーニョの本を書店で見かけました。
青山 はい、流行っています。日本の書店ですか。
カエージャス そうです。棚いっぱいになっていました。
青山 エンリケ・ビラマタスも結構訳されています。この前も『パリは終わらない』が平積みになっているところを見ました。
カエージャス そうなんだ。彼には読者がいるのですか。
青山 はい、平積みになっているぐらいですから、いると思います。
カエージャス いいですね。彼に言っておきます。彼を知っているんです。
青山 動画であなたがビラマタスと会話しているのを見ました。
カエージャス そう、彼を一度対談に招待したことがあって。コロンビアの雑誌のためにインタビューをしたのです。それに、『ロベルト・ヴァルザーの散歩』では脇役をしてくれました。とても面白かったです。彼は、ヴァルザーの本の熱狂的なファンなんです。エステバン*11という、アルゼンチン人の作家でアーティストがウァルザー役をしたのですが、一般人は周りを普通に歩いていました。彼らは公園で、すぐそこにビラマタスがベンチに座っていることに気づきませんでした。ビラマタスは立ち上がってロベルト・ヴァルザーに挨拶をした。確かに、それでロベルト・ウァルザーに実際に会ったことになりますよね? 彼と二言、三言話をして、どこかへ行きました。魔法のように消えました。彼が僕たちの作品に出演してくれたことは贅沢なことです。でも彼はそういう人なんです。これも一つの、文学をする方法だということを理解する感性のある人です。書くのと同様に。そこから交流が始まりました。事実、現在彼の短編小説を扱った作品を計画しています。詳細は言えませんが。
ポブレノウ地区で上演された『ロベルト・ヴァルザーの散歩』に出演するエンリケ・ビラマタス
【註】インタビューに出てくる作家たち
*1 マッテオ・グイディ(Matteo Guidi):民族―文化人類学の学位を持った伊アーティスト。刑務所、工場、移民キャンプなどの狭い社会構造をリサーチし、アートと文化人類学の交錯点を探る。(http://todoloquemegusta2015.nyamnyam.net/matteo-guidi)
*2 チャロ・トロッサ(Txalo Toloza):サンティアゴ(チリ)生まれの演劇やパフォーマンス作品を扱うビデオアーティスト。
*3 ソシオ・ドクトラル(Sociedad Doctor Alonso):トーマス(舞台監督、劇作家)とソフィア(ダンサー、振付家)からなるユニット。物事を本来ある場所から移動させる、ことをテーマに創作。
*4 ヤスマサ・モリムラ(森村泰昌):多様な人物に扮するセルフポートレートが有名な日本現代美術界の巨匠。
*5 マヌエル・バスケス・モンタルバン(Manuel Vázquez Montalbán):スペインのハードボイルド小説家。6800万の賞金の出るプラネタ賞など受賞。
*6 ジュゼッペ・マンフレーディ(Giuseppe Manfridi):ローマ生まれの劇作家。
*7 アントニ・ミラルダ(Antoni Miralda):ロンドン、パリ、NY、マイアミで活動してきた1942年生のカタルーニャ人マルチメディアアーティスト。色やシンボルに焦点を当てた、食べることの儀式を再現したハプニングや、美食家とコラボレーションした作品を作る。バロック、キッチュ、祝祭性ある作風。
*8 アレックス・ヴィゴラ(Alex Bigorra(?)):チリのアーティスト、詩人
*9 エディンソン・キニョーネス(Edinson Quiñones):コロンビア生のアーティスト。コカインを素材に使った作品で知られる。白い粉でドローイングする作品など。グーグル検索すれば『大量殺戮』と出てくる町出身。
*10 エンリケ・ビラマタス(Enrique Vila-Matas):代表作に『ポータブル文学小史』『バートルビーと仲間たち』。マルグリット・デュラスの下宿では実際には(『パリに終わりは来ない』とは違い)二、三、四冊目の本を書き、無事出版した。
*11 エステバン(Esteban Feune de Colombi):ブエノスアイレス生まれの詩人、俳優、写真家。著書に『散歩する人』含む詩集三冊。短編集二冊。長編小説一冊。
(2018/03/22 後編に続く)
スタジオでの写真撮影 鶴山裕司
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■